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社会を監視するのは、芸術家の役割だ 伊丹万作『戦争責任者の問題』

コロナ情報を知るためにnote以外でよく読んでいるのが、地球の最期のときにIn Deep

日々、貴重な記事を公開されていますので、必見です。

その中で、noteでもよく知られている荒川 央さんの記事について書かれていたものがあります。その他に、戦前の映画監督だった伊丹万作さんについてのお話は、現在の世の中を理解する手助けになると感じました。そして、さらに調べると、私の聴くレギュラーラジオ番組 高橋源一郎の飛ぶ教室 でも、過去に伊丹万作さんを取り上げていましたので、ここに紹介いたします。

ご自身が読みやすい内容のリンクにて、ご確認ください。


1.荒川 央さんのブレーキの無いRNAワクチンについて、In Deep さんの注釈が入っています。その中に過去の投稿内容のリンクもあります。

2.紹介されていた荒川さんの元記事

3.私(宮下かんみ)が、荒川さんの記事を Covid-19 医師アーカイブズのマガジンとして、文字サイズ等の調整をしたもの(全文コピー)

4.In Deep さんが、伊丹万作さんについて紹介(上のリンクから簡潔に読めますが、私も抜粋して、記載します。半分位抜粋しているので、長いです。興味深い内容です。)

長いなあと思った方は、
5.高橋源一郎の飛ぶ教室で、伊丹万作さんを取り上げていますので、下の方へ進んでください。(クマの画像のところ)

In Deep さん
戦前の映画監督だった伊丹万作さんという方が、1946年(昭和28年)に『映画春秋』という雑誌の創刊号に寄稿した文章の存在を知りました。
「戦争責任者の問題」と題されたものです。

原文→ 戦争責任者の問題 伊丹万作 『映画春秋』創刊号・1946年8月(昭和21年)より抜粋

 多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなつてくる。多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしていると思つているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。
 たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思つているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもつと上のほうからだまされたというにきまつている。すると、最後にはたつた一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。

(かんみ)
『ちょっと今の状況に似ている気がする。現在は、やはり戦時中なのだな。マスクにしても、ワクチンにしても、(まだ気づいていない人が)だまされている、のだけど、政府から、医者から、先生から、とか置き換えることができるように思う。』

 すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かつたにちがいないのである。しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。

(かんみ)
『マスクをしたら、感染予防になる、とか、ワクチン2回接種したら、安心とか、だましているつもりはないかもしれないが、その自身の行動自体が、だましになっている。』

 このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といつたような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。
 たとえば、最も手近な服装の問題にしても、ゲートルを巻かなければ門から一歩も出られないようなこつけいなことにしてしまつたのは、政府でも官庁でもなく、むしろ国民自身だつたのである。私のような病人は、ついに一度もあの醜い戦闘帽というものを持たずにすんだが、たまに外出するとき、普通のあり合わせの帽子をかぶつて出ると、たちまち国賊を見つけたような憎悪の眼を光らせたのは、だれでもない、親愛なる同胞諸君であつたことを私は忘れない。

(かんみ)
『現在のマスコミ、報道のウソ、民間の相談者のウソによって、マスクやワクチン接種をすれば、安心だと思わされ、安易に決定させられている。
ノーマスクの人間を政府が直接的に攻撃するのではなく、近くにいる人たちが、攻撃対象として、同調圧力をかけている。差別にもつながっている。』


 少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇つてくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といつたように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であつたということはいつたい何を意味するのであろうか。

(かんみ)
『現在の状況、そのまま書かれているようですね。』


 いうまでもなく、これは無計画な癲狂戦争の必然の結果として、国民同士が相互に苦しめ合うことなしには生きて行けない状態に追い込まれてしまつたためにほかならぬのである。そして、もしも諸君がこの見解の正しさを承認するならば、同じ戦争の間、ほとんど全部の国民が相互にだまし合わなければ生きて行けなかつた事実をも、等しく承認されるにちがいないと思う。
 しかし、それにもかかわらず、諸君は、依然として自分だけは人をだまさなかつたと信じているのではないかと思う。
 そこで私は、試みに諸君にきいてみたい。「諸君は戦争中、ただの一度も自分の子にうそをつかなかつたか」と。たとえ、はつきりうそを意識しないまでも、戦争中、一度もまちがつたことを我子に教えなかつたといいきれる親がはたしているだろうか。
 いたいけな子供たちは何もいいはしないが、もしも彼らが批判の眼を持つていたとしたら、彼らから見た世の大人たちは、一人のこらず戦争責任者に見えるにちがいないのである。
 もしも我々が、真に良心的に、かつ厳粛に考えるならば、戦争責任とは、そういうものであろうと思う。・・・

・・・だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
 しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。
 だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持つている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばつていいこととは、されていないのである。

(かんみ)
『知識の不足。そうですね。情報をとりにいかずに、テレビばかり見ていたら、その情報に染まってしまう。正しいことを知って、自分の信念でもって、生きていかなければいかない。本当は、今、そんな時代になっているのに、気づいていない人が多い。

ここまで、読み進まれた方は、すごい!
気になる文を太字にしています。現在の状況が理解できるような文ですね。』


もう一つ別の見方から考えると、いくらだますものがいてもだれ一人だまされるものがなかつたとしたら今度のような戦争は成り立たなかつたにちがいないのである。
 つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
 そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。

(かんみ)今の情勢そのものです。

造作なくだまされるほど

批判力を失い、

思考力を失い、

信念を失い、

家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた

国民全体の文化的無気力、

無自覚、

無反省、

無責任などが

悪の本体なのである。


 このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくその本質を等しくするものである。
 そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。
 それは少なくとも個人の尊厳の冒涜ぼうとく、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。
 我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかつたならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。

「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。

「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。

一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。

この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱せいじやくな自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。

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5.高橋源一郎の飛ぶ教室 「ひみつの本棚」2020/07/10 

社会を監視するのは、芸術家の役割だ

冷めた目で時代を見つめる反骨の「おじさん」

最初に、『伊丹万作エッセイ集』の紹介があります。

 今回は、『伊丹万作エッセイ集』です。伊丹万作さんは戦前、戦中の映画監督であり、シナリオ作家です。映画監督、伊丹十三さんの父親で作家・大江健三郎さんの義理の父です。このエッセイ集は演技論、映画論にとどまらず、剛直な社会評論も展開しています。しかも、映画監督ならではの、ユーモアを交えての評論です。

次に、「戦争責任者の問題」の紹介があります。

反省せずに「私たちはだまされていた」と安穏に暮らしていていいのだろうか?

高橋さん: もう1つ。大変有名な文章で、いろんなところで引用されています。「戦争責任者の問題」という、戦争責任についてたぶん最初に書かれた文章の1つ。彼は昭和21年に亡くなっているので、21年の8月の、ほぼ絶筆。「どうしてもこれだけは言っておきたかった」ということですね。これを読んでみます。

 多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃(そろ)えてだまされていたという。私の知っている範囲ではおれがだましたのだといった人間はまだ一人もいない。

高橋さん: この辺がおかしいんだよね。

 ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなってくる。多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はっきりしていると思っているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思っているが、軍や官の中へはいればみんな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもっと上のほうからだまされたというにきまっている。すると、最後にはたった一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧(ちえ)で1億の人間がだませるわけのものではない。
 すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えているよりもはるかに多かったにちがいないのである。

高橋さん: 「誰がだましていたか」をこれから書いていくんです。
小野アナ: 誰がだましたと?
高橋さん: 伊丹万作が言っています。僕じゃないですよ。

 このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、

高橋さん: こんなことを言っていいんですかね。

 さては、町会、隣組、警防団、婦人会といったような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直(す)ぐにわかることである。
 たとえば、最も手近な服装の問題にしても、ゲートルを巻かなければ門から一歩も出られないようなこっけいなことにしてしまったのは、政府でも官庁でもなく、むしろ国民自身だったのである。私のような病人は、ついに一度もあの醜い戦闘帽というものを持たずにすんだが、たまに外出するとき、普通のあり合わせの帽子をかぶって出ると、たちまち国賊を見つけたような憎悪の眼を光らせたのは、だれでもない、親愛なる同胞諸君であったことを私は忘れない。

高橋さん: 「自粛警察」みたいなものですかね。

 もともと、服装は、実用的要求に幾分かの美的要求が結合したものであって、思想的表現ではないのである。しかるに我が同胞諸君は、服装をもって唯一の思想的表現なりと勘違いしたか、そうでなかったら思想をカムフラージュする最も簡易な隠れ蓑(みの)としてそれを愛用したのであろう。そしてたまたま服装をその本来の意味に扱っている人間を見ると、彼らは眉を立てて憤慨するか、ないしは、眉を逆立てる演技をして見せることによって自分の立場の保鞏(ほきょう)につとめていたのであろう。
 少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇(よみがえ)ってくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員(こいん)や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といったように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であったということはいったい何を意味するのであろうか。

高橋さん: なかなか難しい文章です。
戦争責任は当時から問われていた。「上のほうの軍人が責任を取れ」「国民は苦しめられた」と言われていたんですけど、伊丹さんは「そうなのか?」と昭和21年の段階で言っている。上の意向を受けて忖度(そんたく)して、誰よりもきちんと手先になって働いたのは全員じゃないか、ということを言っています。
最後の結論のところが好きなので、読ませてください。

 「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹(あんたん)たる不安を感ぜざるを得ない。
「だまされていた」といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在もすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである。

高橋さん: すごくシャープです。
彼が別に政治家でも評論家でもなく、大衆芸術である映画の監督でありシナリオライターであるというところが僕はすごいと思うんです。人々の動きをよく見て、心や感情に沿っているからこそよく分かる。ある意味、芸術家の使命なのかと思いました。以上です。

(かんみ)
難しい文章でした。でも、この内容を知ることができ、とてもよかったと思います。

戦争責任者の問題(全文)


画像:La Tour Eiffel à Paris




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