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「あの人にもっと意識してほしい」が苦しいコラボ(エッセイ)

恋愛は人を取り込み、突き放す。誰かを好きになることが豊かさを増幅することは間違いないが、それにしても圧倒的な精神的負担を内包するのが恋愛だろう。

たった一度、ある瞬間心が動くと、ずっと前から望んでいたかのように意識の矛先がその人に向いてしまう。

中世スコラ哲学のブレンターノは、フッサールが「意識」について考える際に志向性という概念を使うもとになった人だが、

どの心的現象も、何かに対して「志向」、つまり意識が向いている中で存在し、判断においては何かが承認または否認され、愛においては何かが愛され、憎しみにおいては何かが憎まれ、欲求においては何かが欲求されていると語る。

フッサールによると、たとえボーっとしているときや他のものに注目しているときであっても、背景のようになっている対象に対して志向性は意識のうちにあるらしい。見えていないようだが、実は志向していると。

それならば、志向性の説明で、愛においては何かが愛されるということで、あの人の愛の意識がおぼろげながらも自分の方に向いているのかと期待したいが、そんな曖昧な「意識」では嫌だというのが恋愛の常だろう。

もっと意識してほしい、もっと志向してほしいという、中毒的な志向性はどんどん膨らんでしまう。恋愛においては、どうしても、意識の志向性が非対称になってしまうのか。

最近よく聞いている曲は、ポルカドットスティングレイの「トゲめくスピカ」、みんなのうたでも放送されたらしい楽曲だ。

一番の歌詞で、「最近さ 君とあんまり目が合わなくてさ」「僕の考えすぎかなって 思うことにしたんだ」という箇所があり、

二番では「最近さ 君の返事が曖昧でさ」「僕のことをどう思ってるの?」「君の中の僕の姿が 薄れていくのが見えた」「僕はどんな小さなことも 覚えているのに」「例えばその、君の聴いている曲とかさ」と表現が溢れ、

ラストで「ねえ、傍に居させてよ 君の棘が刺さっても」という歌詞がある。

目が合わなかったり、相手の返事が曖昧だったり、胸の内を話してくれなかったりということで、自分のことをどう思ってくれているのか分からず、相手の心が自分から遠くにあるんじゃないかと勝手に想像する。

それが考えすぎなのか、本当にそうなのか分からない。不安をかたわらに、前に相手が好きと言っていた曲にハマってしまい、自分だけが相手にのめり込んでいるらしき状況に拍車をかける。

近づいても辛くなるし、離れていくのも辛いというハリネズミのジレンマに頭を抱える。

そんな恋愛における葛藤を表現しているものに感じた。

ここで問題なのは、たまに自分の方を向いてくれているんじゃないかという瞬間があり、そこで少し満たされ、さらに期待してしまうこと。自分と相手で志向の非対称性はますます広がる。

私たちの意識の中で、相手について知ることができるのは相手が話したこと、実際に行動したことだけである。相手の心中を察することなんてできっこない。

だから、勝手に「相手が自分を意識してくれていない」と、表面的な情報から想像するのは意味がないかもしれない。

相手が自分について認識できるのも、実際の言動だけである。だから、実際に話したり行動したりしている中で相手に対して関心があることを示しているのだが、

相手はそうしてくれない=関心がないと想像し、

しかし本当は表に出さないだけで、意識してくれているのでは?と意味のない推論を繰り返す。

こんな葛藤があるのも、生まれたときに目的が与えられていないからであって、自由に生きている証拠なのであるが、

志向の非対称性、精神的負担を乗り越え、恋愛を通して人生の滋味を深く感ずることができるように、手足をジタバタさせ足掻くのもまた一興かもしれない。

この文章の中で、ブレンターノとフッサールの名がポルカドットスティングレイと一緒の場でコラボするとは思いもしなかったように、人生何があるか分からないし、双方の志向性がどこを向くのかということも、想像つかないのが面白いのだ。


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