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寺山修司考察〜廃校舎の実験室

割引あり

小説家のデッサン:太宰治から村上春樹及び現代までの総論

寺山修司考察〜廃校舎の実験室

寺山の活動は、当時の人で膨張した東京の上昇運動のアンチテーゼである

1、


村上春樹の論考を終えたので、一つ世代を上って今回から寺山修司の考察に入る。
最初に。編者は殆ど寺山作品に触れていない。故に村上論の時と同様、寺山修司の作品を愛好する方々は余り読まない方が良いかも知れない。では何故寺山論を開始進行するか?これも村上論と同様、まず寺山の巻き起こして来た現象という物が避けて通れなかった一般大衆としての見地、要するに自己探究と自己分析の一環でもあるのだ。これを為す事で、大衆心理の考察と分析にも繋がる。非常に有意義である。
まずは寺山の燦然たるデビュー、及び表裏一体であった悲劇を少し考えてみたい。
寺山の時代、対米戦争の最中と戦後、この時代様相を書くだけでも事であるが端折る。この時点での寺山の立ち位置、まだ学生だっただろうが、詩歌という物が分野が文学的カテゴリーとして有力だった点を押さえて置きたい。諸説あるだろうが寺山の燦然たるデビューは、この時の詩壇に力を持った人物による庇護が強かった様だ。これが、滅多な事では得られない幸運。望んで得られるものではない。この若い学生は、その詩壇で力を持った人物の期待を一身に受け応えて行った。詩歌の愛好家達も、この新鮮な感性の若人の登場を歓迎した、筈だった。
今後、寺山を語って行くのだが、寺山修司という作家は詩歌の瑞々しさ繊細さと背中合わせで、いや寧ろ寺山修司と言えば禍々しくおどろおどろしい不可解な世界観を彷彿する。このデビュー時の鮮烈さと同時に、やはりそうした人間の負、大衆の負の念に捕らわれて行ってしまう辺り、その後の活動にも正負の入り混じった複雑な表現形態、生涯人間の負の魔の手に存在を掴まれた生き方になって行く宿命だったのか…
若い才能に見舞われた不幸は、識者による盗作疑惑だった。

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