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負け犬の遠吠え 満州事変6 いい国作ろう満州事変

1931年9月18日午後10時ごろ、満州の都市・奉天近郊の「柳条湖」付近にて、何者かによって満鉄の線路が爆破されました。(柳条湖事件)

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この事故は「支那軍の仕業である」と発表され、関東軍は事故に驚いて兵営から出てきた支那兵を射殺し、軍事行動に移りました。

「支那軍によって満鉄本線が爆破された為、目下交戦中」

という前線からの電報を受けた関東軍司令官・本庄繁は「戦闘が終わった後は、国民革命軍の武装を解除するくらいだろな〜」などと呑気に考えていたのですが、幕僚達の強硬な意見に押されて関東軍の各部隊に攻撃命令を下し、戦火は拡大する事になります。

関東軍は国民革命軍の兵営「北大営」を制圧し、翌日には奉天、長春など各都市を制圧しました。

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この事態に、日本政府は「事変不拡大」の方針を決定し、幣原外相は武力ではなく外交による解決を目指しますが、それをあざ笑うかのように「林銑十郎(はやし せんじゅうろう)」司令官が率いる朝鮮軍も満州へ進出しはじめました。


25万の張学良軍に対し関東軍は1万5千程度しかなかったので、増援を要請していたのです。

しかし国境を越えて出兵する事は天皇の許可が必要である為、林銑十郎は「天皇大権」を犯したことになり、死刑になっても不思議ではありません。

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陸軍は、林司令官の行動が閣議で追求された場合には、陸軍大臣の辞職を検討しており、さらに後任の陸軍大臣の任命を徹底的に妨害するつもりでした。

さらに満州事変は抑圧されていた日本にとって久しぶりの痛快なニュースとして国民を熱狂させ、林銑十郎は「越境将軍」の異名をつけられて新聞などでもてはやされていました。

内閣総辞職にも繋がりかねない陸軍の無言の圧力と、世論の盛り上がりに負けた若槻禮次郎(わかつき れいじろう)首相は、林銑十郎の無断越境を「出兵してしまったものは仕方がない」と容認し、朝鮮軍の満州出兵に対する予算を決定しました。

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若槻首相はこの時の事を
「こういう情勢になってみると自分の力で軍部を抑える事はできない」
と語っていたと言われています。

大日本帝国憲法における「統帥権」が陸軍によって利用され、内閣は軍部を抑える事ができない事が露呈した満州事変は、「立憲政治の終焉」とも言える出来事となってしまいました。

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さて、関東軍によって奉天を追われた張学良は、錦州に兵力を集結させます。

代わりに奉天には関東軍の司令部が置かれることになり、関東軍は破竹の勢いで次々と各地を占領していきました。

1932年2月には犬養毅首相が錦州の張学良に撤兵を要請し、張学良がこれを受け入れた事によって関東軍は錦州へ入城し、満州全土の制圧に成功します。

この「満州事変」において、日本は関東軍を抑えることのできない「二重政府」だと列強から非難され、日本の信用は地に堕ちることになってしまいました。

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実はこの満州事変のきっかけとなった柳条湖事件、当初は支那軍の仕業だと信じられていたのですが、実際は関東軍が事前に計画していた謀略だったという事がわかりました。

そしてその首謀者は「石原莞爾」という関東軍の作戦参謀だと言われています。

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石原莞爾は幼年期から乱暴な性格と優秀な成績を併せ持ち、現在ではしばしば「孤高の天才」と評される事もある人物です。

石原は、支那に居留する日本人を守るためには支那と満州を切り離すしかない、と「満州事変」の構想を1928年には既に持っていたようで、1929年には「関東軍満蒙領有構想」を軍に提出しています。

石原のこの考えを支持した高級参謀の「板垣征四郎」は、石原と組んで満州での軍事行動の計画を企画し、綿密に、着実に準備を進めていたのです。

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「佐官クラス」、会社でいえば「課長クラス」の人間が計画し、1万5千の兵力で25万の敵を打ち破って満州地方を制圧した満州事変は、まさに規格外の事件と言えます。

課長クラスだからこそできたこの壮大な計画は、課長クラスだからこその弱さもありました。

大規模な軍事行動を起こすわけですから、イギリスなどに国際的な根回しをする必要があったはずですが、それをしなかった為に国際的な理解を得る事ができなかったのです。

しかし、そもそも「国際協調」などという言葉は石原莞爾の眼中にはありませんでした。

満州事変の鍵になったのは、石原が独断専行で実行した二つの作戦「柳条湖事件」と「錦州爆撃」です。

錦州爆撃では、奉天から退却した張学良の根拠地である錦州に、偵察の名目で11機の航空機を飛ばして25kg爆弾を75発も投下しました。

爆弾懸吊装置を装備していない偵察機を使用したので、紐で吊るした爆弾を上空で切断して投下するというお粗末な爆撃で、不発弾も相当数あった為に、張学良軍の兵舎にダメージを与えることはできず、むしろ民間人の犠牲者が出てしまいました。

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この爆撃は軍事戦略的には全く意味のないものでしたが、満州事変における一つのターニングポイントとなりました。

幣原外相が発した事変不拡大方針や、日本の動きに対して妥協した姿勢を見せようとしていた国際連盟をあざ笑うかのような爆撃によって国際世論が悪化し、日本は「引くに引けない」状況に追い込まれたのです。

自らも参加していた錦州爆撃から帰ってきた石原莞爾は、
「爆撃したのは張学良に対してなんかじゃない、国際連盟だ」
と語ったと言われています。

石原莞爾が見据えていたのは、白人至上主義に基づく国際秩序の打倒だったのかも知れません。

話は変わって、ここで登場するのが清の滅亡によて支那王朝最後の皇帝となり、「ラストエンペラー」と呼ばれた「愛新覚羅溥儀(あいしんかくら・ふぎ)」です。

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溥儀は、皇帝を退位した後も中華民国政府によって優遇され、軟禁状態ではあるものの王宮「紫禁城」で暮らす事を許されていました。

溥儀は関東大震災の時に紫禁城の宝石を義捐金がわりに日本に送った事がきっかけで、日本との親交を持つようになりました。

1924年に政変が起こると皇族は紫禁城から追い出されてしまいます。

皇室の廃止を望む勢力によって死刑に処せられる可能性もあった為、逃げなければ溥儀の命の保証はありませんでした。

溥儀の家庭教師をしていたスコットランド人のジョンストンは、母国イギリスの公使館やオランダの公使館へ助けを求めますが、内政干渉になることを恐れた各国は保護の申し出を断ってしまいます。

そこでジョンストンが頼ったのは、関東大震災で義援金を送ったときに顔見知りになっていた日本の特命全権公使、「芳澤謙吉」でした。

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日本は溥儀の受け入れを表明し、天津の日本租界へ移住させます。

天津はイギリスやフランスなど列強国の租界もあった為、中華民国の内戦に巻き込まれることもなく、溥儀は僅かな側近と共に静かに暮らすことができました。

しかし1928年、国民党の軍閥が「清東陵(しんとうりょう)」を荒らす事件が起こります。

清東陵は清朝の歴代皇帝・皇后の墓所であり、特に清朝末期に権力をふるった「西太后」の墓はことごとく荒らされてしまいました。

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溥儀は激怒して中華民国政府に抗議しますが聞き入れてもらえず、漢民族に嫌気がさすと同時に、かねてより抱いていた「清朝の復活」という想いを強くしていく事になりました。

その一方で、満州全土を制圧した関東軍は、満州を直接領有したり植民地化するのではなく、日本の影響力を残した新国家の建設を画策していました。

そもそも満州は「清朝」を作った女真族の故郷であり、清朝最後の皇帝だった溥儀は、関東軍の構想する新国家の元首に迎え入れるのにもってこいだったのです。

1931年11月、関東軍の特務機関長「土肥原賢二」は溥儀のもとを訪れました。

「関東軍は満州人が祖国に国家を建設する事を支援するので、溥儀には新国家の指導をお願いしたい」と申し出ると、溥儀の胸は高鳴ります。

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溥儀は関東軍に連れられて天津を脱出し、翌年の3月1日には国家元首に就任し、満州国の建国が宣言されました。

関東軍は、柳条湖事件からわずか半年で国を作ったのです。

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