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負け犬の遠吠え 大東亜戦争54 沖縄の戦い①疎開大作戦

連合国の反転攻勢が進む1944年2月、日本陸軍は沖縄防衛を担当する「第32軍」を編成、渡辺正夫中将を司令官に任命しました。

当初は後方組織としての色合いが強く、「沖縄で米軍を迎え撃つ」というような大きな戦力は配備されていませんでした。

しかし、1944年7月にサイパンが陥落して絶対国防圏が侵されると日本の防衛計画は練り直される事になります。

大本営は沖縄周辺海域での航空決戦を計画し、さらに第32軍の増強に着手します。

第32軍参謀長・長勇(ちょう いさむ)少将は、大本営参謀本部に乗り込み、陸軍5個師団の増強を訴えます。

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大本営もそれに応える形で、沖縄を中心とする南西諸島に18万人の大兵力を配備する事を決定しました。

しかし沖縄への増援の最中、独立混成第44旅団が乗った輸送船「富山丸」が米軍潜水艦に撃沈され、4000名近くが死亡するという事件が起きてしまいます。

この先行きを不安視させる事件に、司令官の渡辺中将は心労で病に伏せてしまいました。

代わりに第32軍司令官に着任したのは、牛島満中将です。

牛島中将は、同郷の偉人、西郷隆盛に例えられるほど、温厚で有能、人望の厚い人物でした。

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そんな牛島中将の右腕となったのが、第32軍高級参謀の八原博通大佐です。

エリート軍人だった八原大佐は優れた戦略家として有名で、後に米軍からも高く評価される事になります。

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これら第32軍の首脳陣は、大本営が重視していた「航空決戦」を疑問視していました。

マリアナ沖海戦など直近の航空戦を見ると、日本の航空戦力は既に歯が立たない状態になっていたからです。

飛行場建設よりも地上戦の準備を優先していた第32軍は大本営から非難され、「方針に従わないなら戦力を他へ移動させる」と脅しをかけられてしまいます。

やむなく飛行場建設に取り組んだ第32軍ですが、このような大本営と第32軍との考えの違いが、後の沖縄戦で足を引張る事になるのでした。

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沖縄で米軍と決着をつけるために、決戦準備を進めていた第32軍でしたが、その状況が変わってしまったのは1944年10月のことでした。

フィリピン、レイテ島の戦いが起こると、台湾の第10師団がフィリピンへ送られ、その代わりとして、沖縄の最精鋭、第9師団が台湾へ転出させられてしまったのです。

これによって第32軍は戦力の三分の一を失ってしまいます。

大幅な作戦変更を余儀なくされた第32軍は、飛行場を実質放棄して地上戦を重視、小部隊による遅滞防御を戦術として採用しました。

その頃、レイテ島での日本軍の敗北、フィリピン各島での劣勢を見届けた大本営参謀本部・作戦部長の宮崎周一中将は、ただちに「本土決戦」の計画を立て始めました。

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宮崎中将は「本土防衛に必要な兵力は50個師団」と算出し、150万人を動員する計画を練りました。

その結果、沖縄へ増援される事が決まっていた第84師団の沖縄派遣は中止されてしまいます。

制海権・制空権がない現状で一個師団を沖縄まで無事に送り届けるのは土台無理な話だったのも事実ですが、第32軍は大本営に不信を抱きました。

長勇少将は、「我々は結局、本土防衛のための捨て石なのだ。尽くすべきを尽くして玉砕するしかない」とその覚悟を語るのでした。

沖縄決戦、本土防衛をめぐるこの一連のやりとりや長勇少将の「捨て石」という言葉は、「日本は沖縄を見捨てた」「沖縄戦は捨て石作戦だった」と、現在もマスコミの政治論争の材料として利用されています。

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日本軍は戦力不足を補うため、住民を動員せざるを得ませんでした。

主に陣地構築などの後方支援を目的とした徴用でしたが、地上戦が開始されると前線での戦闘任務も担うようになってしまいました。

第32軍は、17歳から45歳までの男性ほぼ全て、2万5千人を召集し「防衛隊」と名付けました。

また、14歳から16歳までの男子生徒1780人による「鉄血勤皇隊」、従軍看護婦の代役として女子生徒による「ひめゆり学徒隊」「白梅学徒隊」が結成されました。

「少年たちが戦争に参加する」というと、明治維新の時に起きた「薩英戦争」を思い起こします。

この頃の日本人は、国の存亡がかかった戦いでは子供であろうと自ら命を懸けて戦うのです。

鉄血勤皇隊の少年たちは爆弾を抱えて戦車に飛び込んで破壊するなど勇猛に戦い、無傷で済んだものはいなかったと言われています。

しかし、私はこれを美徳として伝える気にはなれません。

近現代の戦争において、どんな理由があろうと少年少女を戦地に送り込むなど、大人の判断が狂っていたとしか思えないのです。

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さて、沖縄での戦闘準備と並行して行われていたのが、「民間人の疎開」です。

とはいえ、沖縄本島・宮古島・石垣島・奄美・徳之島から本土への疎開が許されたのは15歳未満と65歳以上、そしてその看護者である婦女のみであり、その目標人数は10万人でした。

輸送は全額国費負担でしたが、疎開には法的拘束力がなく、県外での生活に不安を感じていた沖縄県民の疎開は一向に進みませんでした。

しかし沖縄だけでは食料の自足ができず、戦闘が始まって海上封鎖されると全員が飢え死にする事になるため、県民の疎開は急務なのです。

県民疎開の責任者・荒井退造警察部長は、講演会を開いたり家庭訪問を行ったりして疎開を理解してもらえるようにと全署に指示を出し、警察や県庁の身内から疎開をさせる事で突破口を開こうと考えました。

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その必死の努力により、1944年7月21日には疎開船第一号「天草丸」の出航が実現しました。

本土へ向かう船はすべからく米軍の潜水艦に狙われるわけで、この天草丸も魚雷攻撃の的になっていました。

船体をかすめる魚雷をみて子供達は「大きな魚だ」とはしゃぎますが、船員たちは皆、青ざめていたそうです。

潜水艦を避けるために動いては止まり、動いては止まりを繰り返し、天草丸は2週間もかけて鹿児島に到着、752名を送り届けました。

これが皮切りとなって、疎開は軌道に乗り始めますが、8月22日に1500名が死亡した「対馬丸撃沈事件」が起こってしまいます。

この事件は箝口令が敷かれましたが、疎開先から来るはずの手紙来ないなどの理由で忽ちにして発覚してしまい、沖縄県民に不安が広がり疎開計画は頓挫してしまいました。

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膠着した疎開計画が再び軌道に乗ったのは、皮肉にも10月10日に那覇市街が大空襲を受けて数百名の民間人が死亡した事がきっかけでした。

結局、疎開活動は1945年3月まで行われ、約8万人を県外へ移送する事ができたのです。

当初、疎開活動の障壁となっていたのは、他ならぬ沖縄県知事の泉守紀(いずみ しゅき)でした。

泉知事は、1943年に沖縄県知事に赴任すると、最初は沖縄の文化を熱心に勉強したりと熱心で評判もよかったのですが、次第に習慣の違いに苛立ちを隠しきれなくなり、「沖縄は遅れている」「沖縄はダメだ」と批判するようになっていきます。

孤立した泉知事は出張を繰り返し、在任期間の三分の一を県外で過ごし、空襲の際も防空壕に立てこもり県政を放棄するほどでした。

住民の疎開活動や、疎開せずに残った非戦闘員の島内避難にも異を唱え、ことごとく第32軍と対立しました。

こうした泉知事の姿勢は、「軍に逆らった気骨のある知事」として、現在の沖縄の左派から評価される事もありますが、泉知事は決して反戦派などではなく、むしろ「県民は軍に協力すべき」と考えて、疎開や避難を問題視していたのです。

疎開活動の中心であった荒井警察部長を議会で追及するなど足を引っ張り続け、軍は次第に知事を相手にしなくなりました。

荒井警察部長に全ての負担がのしかかるようになってしまった為、軍令部は戒厳令を敷いて沖縄を軍政に置こうと考えましたが、そんな事をされては面子が潰れると危惧した内務省は慌てて泉知事を更迭します。

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しかし後任者探しは難航しました。

当然のことです、これから戦場になることがわかっている沖縄への赴任は、「死ね」と言われているようなものです。

第32軍司令官・牛島中将は、大阪府の内政部長であり、旧知の仲であった島田叡(しまだ あきら)を推薦します。

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1945年1月10日、島田は沖縄県知事就任を打診され、これを即受諾しました。

周囲の者は皆引き止めましたが、島田は「誰かが行かねばならぬなら、俺は断るわけにはいかんやないか。代わりに誰かが死んでくれ、とは言えん。」と青酸カリを懐に忍ばせて、死ぬ覚悟で沖縄へ渡ります。

島田知事はすぐさま第32軍との関係回復につとめ、県民の疎開・避難を進め、台湾から三千石の米を確保しました。

農村を視察した島田知事は、日本軍の勝利を信じて軍に協力する民間人を不憫に思い、泉守紀が規制していた「芝居」などの娯楽を解禁、少しでも県民を楽しませようとしました。

島田知事は軍と密接で良好な関係を築き上げるも、決して言いなりになっていたわけではなく、軍隊の行動で住民が危険にさらされる場合には、憤慨して「住民を巻き添えにするのは愚策」と抗議したりもしました。

このように県民のために尽くし、信頼を得た島田知事でしたが、最期は沖縄戦の最中に消息を断ち、未だに遺体は見つかっていません。

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