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自分を伝える努力

人との関係において、「自分や自分の想いを伝える。」ということは、なかなか難しい。

家族はともかく(家族ですら分かり合えないことも多いが)、それが他人ならなおさらのこと。

どんなに上手く自分を伝えようとしても、思うほど伝わらなかったり、誤解されたり。

それも当然。
だって自分が見ている自分と、人が見ている自分は違うのだ。
そして、言葉で伝えることには限度があるからだ。

そして、その言葉の解釈も人それぞれ

一緒にいる時間が長ければ、「それなりに理解されるのか、受け止めてもらえるのか?」と言うと、必ずしもそうではないだろう。
親子でも夫婦でも兄弟でも、分かり合えずすれ違うことは多いのだから。

どんなに近しい人でも、その人のこころの内をすべて知ることはできない。

ということは、

人に自分の全てを理解してもらうことは、不可能だ。
丸ごと自分の全てを受け入れてもらおうとするのは、相手に期待しすぎということだ。

でもね、
それで諦めて、“伝える”のを止めてはいけない。

どうせ、わかってもらえない。
何を言っても変わらない。

もしかして、そうかもしれない。

でも相手は自分ではない。

だからこそ、人に対して自分を理解してもらうために、
「自分と言う人間を伝える、想いを伝える。」ということは必要なのだ。

それがなかったら、いつまでたっても、相手との距離を縮めることが出来ない。

一時はわたしも、自分という人間について、あまりに違う受け取り方をされて、人と話すことを諦めた。
いつでも決めつけた物言いをされて、それに反論するのに疲れてしまったからだ。

でも、他人なんだから自分を全部わかるはずはないのだ。
自分の都合よく理解してもらえなければ、「理解されていない!」と思うのだとしたら、それは一方的な自分の想いの押し付けだ。

これが腑に落ちてからは、相手に変に期待をせず、どんな受け取り方をされても気にならなくなった。

そして相手との違いを前提に、「誤解を怖れず伝えたほうが良いことは、相手に伝えたほうが良い。」と思っている。

それをどう受け取るかは、相手次第。

それすらしなかったら、気持ちはずっとくすぶったまま。

相手が察してくれる。
分かってくれる。
と思うのは、本当は傲慢なことだ。

わたしが人の全てを知らないように、他人だってわたしのことなんて何も知らない。
「どんな人生なのか?」
「いつも何を考えているのか?」
そんなこと、知るはずもない。

だから、“話す“、“書く“、なんでもよいから表現してみる。
自己開示してみる。

「自分はこんな人間ですよ」と。
「こんな風に思っているんだよ」と。

“伝える行動”が必要なのだ。

好きな人や大切な人に対しては、特に必要だ。

「分かってくれているでしょ?」
「察してよね?」

それは甘えだ。
例え察することが出来たとしても、相手の気持ちの核心までは知る由もない。

それでなくても、人は“本音と建前”を使い分ける。
だからこそ、本音を伝えるのは大切なのだ。

本当の自分の気持ちを隠しながら建前で話して、話をこじらす人は多い。

それで「わかってくれないの?」と拗ねるくらいなら、
キチンと相手と向き合った方が良い。

「わたしはこんな人間で、こんなことを思っています。」

それで相手が理解してくれないならば、受け入れてくれないならば、それは諦めるしかない。

相手の気持ちを、無理やりこじ開けることはできない。

単に、自分と相手が合わなかっただけ。
感性が違うだけ。
自分を悪く思う必要もない。

それでも、そこまで自分を伝えられたのなら、悔いもないだろう。

簡単なようで実は難しい、“自分を伝える“ということ。

お互いの違いを尊重し、歩み寄る努力ができたなら、どんな関係においても、もう少し発展的なものになるのかもしれない。




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