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「ある犬の飼い主の一日」が両手に握らせてくれるもの

生きるって本当は、胸をえぐられる案件に満ちていると知ってしまったのはいつからなんだろう。生きている時間が長くなるほど、絶対に失いたくないものを失う経験が増える。どうしても欲しいものがどうしても手に入らない経験もする。時が癒すことのできない傷がある。「ある種の悲しみは存在しつづける… 常に形を変えてではあるけれど。」

これはそんな傷を抱えた56歳の独身男ヘンクのある一日のお話。

この本を読んだのは2023年の9月頃。大谷選手の犬がコーイケルホンディエだということが日本中で注目される少し前。そう、この本に出てくる「ある犬」というのはコーイケルホンディエのスフルク(ならず者という意味)のことで、このお話の舞台はコーイケルホンディエの原産地であるオランダだ。

だから大谷選手の犬の犬種名が野球に興味のない私の目にも入って来るようになった時、私はコーイケルが「カモ漁師」でホンディエが「犬」、コーイケルホンディエがもともとカモをかご(コーイ)に追いやって捕まえるために飼われていた犬だということを知っていた。だからどうということもないが、そのタイムリーさに、世界はやっぱり何かの企んだシュミレーションなのかも、なんてイーロンマスクみたいなことを考えた。

読書家で心優しく想像力に満ちたヘンクには3年前まで妻がいた。20代で出会い深く愛し合った2人だったが、ともに望んだ子どもを持つことが叶わなかった。そのことで、いずれ堪えがたい静寂が2人の間を侵食すようになる。

愛した女性の願いを叶えられない理由が自分の側にあったこと。40代になり精神的に不安定になった妻に必要なのは「生気」だと、犬を迎える提案をしたこと。そして、それは本当に妻を助けたこと。けれど、二人の間にはもう裸の大地しか横たわっていなかったこと。その渇いた大知を走り回ることができるのは、唯一その犬だけになってしまったこと。

「彼女が子どもを欲しがっていたこと、彼自身が欲しがっていたこと、その願いが叶わなかった理由、それが何を意味するかということも」

ヘンクの背負う罪悪感、自己嫌悪、存在していることへの疲弊。
「要するに彼は独りぼっちだった。」
この一文を読むたび、私は泣いてしまう。

自分たちの子どもを持つことができないと分かったからといって、すぐに別れられるわけじゃない。けれど別れを決意した時には2人とも50代になっていて、もう妻にとって我が子を持つという選択肢は存在しない。誰のせいでもないことなのに、誰のせいでもないから、辛い。

養子を育てる文化が広く浸透し、多様な家族の在り方が当たり前に受け入れられている欧米においても、生物学的に繋がった我が子を欲しいと願う人が、その願いを叶えられなかった時の失望や辛さは、それとは別のところに存在するものなのだろう。

独りぼっちのヘンクは、しかし、独りぼっちではない。老犬スフルクとは他のどんな存在とも築いたことのないような親密さで結びついていたから。

物語が捉えるヘンクのこの一日は、その老犬スフルクが生気にみなぎるある女性とヘンクを出合わせることで、暖かく心地の良い方向へと展開していく。そして、一日の終わりには、読んでいる私たちの掌に、「真実と美しさは人生そのものにある」という確信を、両手で包むように強くしっかりと握らせてくれる。

人生のふかいところには、私たちの比類なき人生と犬生を潤す沢山の源が眠っていて、その気にさえなれば、その源泉に触れることはそう難しいことではない。そしてその源泉は、私たちとこの世界とをあたたかく緩やかに繋いでいる。それは、近所の人との会話、新しく出会う誰か、楽しもうという決意、静かでシンプルな安らぎ、美味しいチーズ、心地よいリズム。泉が湧き、水が大地に浸透していくように、それらは意外なところから現れ、確かに染み渡り、どこかの湖や川や海に溶け込む。

煎じ詰めれば人生に目的なんてない。人生で起こることに意味もない。けれどこの人生には生きる価値がある。そのことを、洗いたてのシーツを両手で持ってふわっと布団の上に広げる時のように明白に、目の前に広げてくれる。これはそんな本だ。この人生は生きるに値する。そう、「すべてはそれほど複雑ではないのだ。」

「人生をしっかり掴み、離さないようにしなくては」
本を閉じた時、そんな決意が胸を満たす。
だって「今日という日が起こっているのだ。」

*「」は本からの抜粋です。
「ある犬の飼い主の一日」サンダー・コラールト作、長山さき訳

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