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脈打つたびにピリっと走る痛み

この物語は、一部事実を含んでいますが、基本的にフィクションです。

 日差しが柔らかくなってきた。今年は雪の多い、寒い冬だったけれど、それでも確実に春は近付いてくる。晴れた朝の、カーテン越しに差し込む光が、部屋を丸く照らしている。

 まどろみの中で私は、繰り返し夢を見ていた。廃墟の中をひたすら歩く。遠くで砲撃音が聞こえる。まるで映画館の椅子に座っているように、遠いはずの銃撃の振動が体に伝わる。目覚めてからも、そしてそれが夢だったのだと認識してからも、恐怖や怒りの混じった不快な感覚が抜け切らずに、私は少しの間、ぼんやりしていた。

 季節の変わり目だからなのか、このところ小さな頭痛が止まない。ガンガンやズキズキといったほどでもなく、時折ピリッと走る、そんな頭痛だ。肩凝りや姿勢の悪さもあるのだろう。必然的に私は、横になって過ごす時間が増えていた。

 感染症は一向に収まる気配を見せず、ウキウキと出かけようという気分にもならない。何もしないでいることに、私は疲れていた。


 固定電話が鳴っている。このところ、夫の仕事絡みの連絡が続いていたから、きっと今回もそうだろう、と、私は思った。在宅していた夫が電話を取ったようだ。右のこめかみがまた、ピリッと痛んだ。

 しばらくすると、夫が困った顔をして、私の部屋にやって来た。

「市役所からの電話なんだけど⋯⋯言ってることがよく、わからない⋯⋯」

 市役所? と訝しく思いながら、電話を代わる。

「お電話代わりました。どういったご用件でしょうか」

「〇〇市役所保険年金課の〇〇と申します。昨年10月頃、緑色の封筒が届いたと思いますが、その中に返送用の書類がありまして、ご確認いただけましたでしょうか」


 ⋯⋯またか、と私は思った。若い男性の声だった。この、あまりにも典型的な手口の詐欺電話がかかってくるのは、これでもう三度目だ。うちの固定電話番号が「カモリスト」に載っていて、いくつものグループで回されているのだろうけれど、私は心底、うんざりした。だからつい、語気が荒くなってしまったのかもしれない。

「それを返送すると、どうなるんですか」

「は? ちょっと、おっしゃる意味がわかりませんね。封筒は届いてるんですか? 届いてないんですか?」

 その返答に、私は確信した。鼓動が少し早くなる。

「市役所の方じゃないですよね。⋯⋯詐欺ですよね」

「は? 何を言ってるんですか? だったら市役所6階の保険年金課に来てみたらいいじゃないですか。今すぐ来てくださいよ」

 電話の向こうの、声のトーンが変わった。

「行きませんよ、そんなところ」

「だったら厚生労働省のホームページを開いてください。今そこで見てください。年金制度が変更されて新しい法律ができたんですよ。そんなことも知らないんですか」

「そんな報道は、ありません」

 堪えきれずに私はつい、笑いを含んだ皮肉な物言いをしてしまった。

「封筒も確認できない。市役所に来ることもできない。スマホもネットも使えない。ホームページも見られない。新聞やニュースさえ見ていない。じゃあ、あなたは何ならできるんですか? 何もできないんですか? 脳ナシなんですか?」

 電話の声が、明らかに怒気を含んでいる。こんな馬鹿げた電話は、今すぐに終わらせなければならない。頭ではそう思っていながら、私は、自分が少し好戦的になっていることに気付いた。悪いのは詐欺師だ。私は正義の側にいる。その思いが、いらぬ勇気を与える。

「⋯⋯だから、詐欺ですよね。この電話番号、通報しますよ?」

「いいですよ。どうぞ。いい加減にしたらどうですか? いい気にならないほうがいいですよ」

 詐欺師はあっさりと、市役所職員の仮面を脱いだ。後はもう、泥仕合だった。続ければ続けるほど双方に怒りが増し、不毛な言い争いになるだけだ。鼓動がどんどん早くなる。頭に血が上って、頭痛が頻度を増している。こういう時の常で、固くて飲み込めない何かが邪魔をして、喉が詰まったような息苦しさを感じる。この感じには覚えがある、と私は思った。

「⋯⋯もう、こういうことは止めませんか? お年寄りからお金取ってどうするんですか」

 私はたぶん、一番マズい、余計な一言を口にしたのだろう。

「⋯⋯調子に乗らないほうがいいですよ。そっちが挑発してくるんなら、黙ってませんから。嫌がらせしますから。電話だけで何もできないと思ってるんでしょう? こっちは結構な個人情報、握ってますから。今から家に行きましょうか? 何だってできますよ」

 明らかに怒りを湛えた口調で、淡々と脅してくる。詐欺師の暴言は、手慣れたものだった。こういうことを常日頃、言い慣れているのだろう。

 頭の芯が痺れるような不快感が襲ってきて、私は一瞬、怯みそうになる。それでも何とか、毅然とした態度を取らなければ、と思った。相手が脅えていると知った途端、こういう連中は直ちに付けこみ、更に事態を悪化させることを私は知っていた。

「刑事事件を起こしたら、そちらが不利になるだけでしょう。大体あなたたちが、お金にならないこと、するわけないじゃないですか」

 私は精一杯、冷静な振りをする。

「⋯⋯僕らも人間なんでね。煽ってくるなら容赦しませんよ。そういうのは、メチャクチャに叩いておかないと気が済みませんからね。そうやって挑発してると酷い目に合いますよ」

「嫌がらせ? 何をするんですか?」

「電話だからって甘くみないほうがいいですよ。今は電話で、何でもできるんです。デリバリーとかね」

 私はとうとう、噴き出してしまった。不意に、寿司やピザが何十人前も届く光景が目に浮かぶ。それは恐怖でもあるけれど、どこか滑稽な映像でもあった。

 激しさを増す頭痛に時折り顔をしかめながら、私は、恐怖に飲まれないように注意して慎重に言葉を選ぶ。

「⋯⋯随分、器の小さな嫌がらせですね。ご忠告、ありがとうございます。この後すぐに通報して、警察の方と一緒にお待ちしています。いつでもどうぞ」

 一方的にそう言って、私はすかさず電話を切った。とてもとても、腹が立っていた。怒りで頬が上気し、自分の心音がドクンドクンと聞こえるほどに動悸がする。頭痛の範囲が広がっている。右のこめかみ、左の後頭部、そして耳のすぐ後ろ。脈打つたびにピリピリっとした痛みが走る。それはやがてズキズキへ、ガンガンへと変わっていくのだ。

 悪いのは詐欺師だ。私は正義の側にいる。圧倒的に正義だ。それなのに、どうしてこうも不愉快なのだろう。

「身勝手な正義」と、かつて子どもは、私を糾弾した。

「正論がいつも正しいわけじゃない」と、いつも夫は、私を諭す。

 私は、今やガンガンと打ち付けられるような痛みに変わった頭を抱えて、その場に座り込んだ。頭痛薬があったはずだ。薬を飲んで少し眠ろう。休息すれば、この酷い動悸もきっと収まるだろう。


 テレビが、遠い国で戦争がはじまったことを告げていた。大きな爆撃音とともに、いくつもの閃光や、炎の上がる映像を、繰り返し映し出している。怯えた市民が「こんなことは許されない!」と怒鳴っている。

 アナウンサーは興奮して、いつもより少し早口になっていた。

「次は、北京で行われているパラリンピックの模様です」

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