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浅煎りの恋人 ※BL/R15※

1杯目(伝書鳩とコーヒー豆)


「アカボシ。ちょっと」
 火曜日、放課後の二年六組の教室。クラス担任の小栗おぐりがいった。すぐるの名字は赤星あかほしと清音で、けっしてアカボシではなかった。けれど、卓は訂正しなかった。小栗にまちがわれたのは本日五度目だったので。
「マユズミチカゲ、知ってるよな」
 黛千景。小学校が同じだった。ただ、とくべつ親しかったわけでもなく、顔もうろおぼえだ。肌が浅黒かったような……。
「一応、知ってますが」
「マユズミのやつ、長期欠席しててな。家が近いだろう。プリント配達してくれよ」
 ようするに、不登校児の伝書鳩になれというのだ。きょうのロングホームルームで、卓は学級委員長に選出されていた。だからだろうか。めんどくさいな、と卓は思った。
「家を知りませんけど」
「桜ヶ丘二丁目だよ。地図をコピーしてやる」
 卓が行くことは決定済みらしかった。内心ため息をつきながら、卓は教科書の詰まったスクールバッグを担ぎなおした。

 卓の家も桜ヶ丘二丁目だった。千景の家はバス停二つぶん離れていた。いったん自宅を通りすぎるコースだ。卓はゆるやかな長い坂を登った。四月の日差しは暑いくらいで、卓は額に汗した。これを毎週火曜と金曜日に繰り返さなくてはいけない。かなりの骨に思えた。
「ここ、だよな?」
 黛、という表札。高い塀に囲まれた、バルコニーつきの白亜の豪邸だった。卓はあっけにとられながら、小栗から預かったプリントの束を軽くたたんでポストに押しこんだ。
 卓はなぜか逃げるみたいに坂を駆けおりた。

「スグルも災難だな。配達しても何もメリットないじゃん」
 金曜の午後の通学路、青沼あおぬま秋秀あきほが眼鏡のブリッジを中指で押した。伊丹いたみ快久よしひさが腰ばきの布ベルトをずりあげる。
「マユズミがすっげえ美少女ってならな。チカゲとかいっても、男なんだろ」
 卓はあいまいに笑ってごまかした。思春期の友人たちは当然のように異性にまっすぐ興味を示した。そんな彼らが卓にはまぶしく見えた。秋秀がいう。
「不登校なんて甘えなんだよ。まだボランティア活動のほうが内申のポイントになるからマシだわ。ほんっと、迷惑な話だよな」
 不登校になるのは、それなりの事情があってのことだろう。それを迷惑と切り捨てるのは、何かちがうと卓は思った。けれど、それを口にはしなかった。
 クラスメイトたちと別れて、卓はゆるやかな長い坂を登った。白亜の豪邸。卓はプリントの束をたたんでポストに押しこんだ。瞬間、プリントがしゅっと中へと吸いこまれた。卓は驚いた。誰かが待ち伏せして、引きこんだのにちがいない。卓は声を張りあげる。
「マユズミだよな?」
「ちがいます」門のむこうから、声変わりした低音。「マユズミじゃなくて、マユスミです。アカボシくんですね?」
「アカボシじゃなくて、アカホシだよ。濁らないんだ」
「ぼくと一緒です」
 低い声が笑った。卓はどぎまぎして、うつむいた。千景がいう。
「また来てください」
「うん。火曜日、また来るから」
 卓はやっぱり逃げるみたいに坂を駆けおりた。

 火曜日。卓はゆるやかな長い坂を登って、白亜の豪邸のポストにプリントを押しこんだ。しゅっとプリントは中へと吸いこまれた。門のむこうから笑い声。卓も笑った。
「アカホシくん、甘いものは好きですか?」
「うん、好き」
「よかった。新宿タカノのパフェがあるんです。食べていきませんか」
「いいの?」
 返事の代わりに、杉板の門が内側へあいた。卓は緊張しつつ踏みこんだ。白い玉砂利の庭。こぼれる連翹れんぎょうの黄。青いカットソーシャツとスラックスの千景は、ひょろりと背が高かった。浅黒いまぶちと、切れ長の白眼の対比が鋭い。こんな顔だっけ? 卓の胸はせわしくなった。
「マユスミって、そんなに背ぇ高かったっけ」
「去年の夏から伸びたんです。何センチかはわかりませんが」
 卓は一六〇センチ未満だ。千景はそれより十五センチはゆうに大きそうだった。
 千景に案内され、卓は豪邸のエントランスをくぐった。吹き抜けのホール。お邪魔しまーす、と卓は挨拶した。静寂。千景はいう。
「両親は仕事でいません」
 透かし階段のある、二十帖のリビングルーム。屋久杉の一枚板のテーブルで、卓はそわそわと待った。キッチンからコーヒーの香り。千景がトレーを運んでくる。卓はいう。
「あの、入れてもらって悪いけど、おれ、コーヒーだめなんだ。味は好きなんだけど、飲むとおなか壊しちゃって」
「大丈夫。採れたてのニュークロップを焙煎して一ヶ月未満のものですから。そこらへんの倉庫に何ヶ月も置いてカビの生えたコーヒーとはちがうんです。絶対、おなか壊さないので、飲んでみてください」
 千景は自信満々だ。置かれたノリタケの金飾のカップ。澄みきったブラックコーヒーを、卓はおそるおそるすすった。キウイのような酸味と、クルミのような香ばしい後味。飲んだことのない味だった。これってコーヒーなのか?
「うまい」
「でしょう。エルサルバドルのラ・シベリア農園の豆です。標高一五〇〇メートルにあって、夜はすごく冷えこむからシベリアっていうんですって。高いところで育った豆は、酸味が強いのが特徴で……」
 千景は饒舌だった。コーヒーが好きなんだな、と卓は思った。千景ははっとしたふうに黙った。
「えっと……これ、タカノの苺パフェです」
 ルビーの詰め合わせめいた小さなカップ。卓んちじゃめったに食べられない高級品だ。いただきます、と卓は両手を合わせた。練乳の甘みと、苺の甘酸っぱさ、パイ生地の歯ごたえが絶妙だった。
「いいな、マユスミはいつもこんなおやつ食べてんだ?」
「いつもじゃありません。きょうは特別。アカホシくんが来るので、横浜まで行きました」
 千景の表情には陰があった。大人びた同級生に、卓は憧れの気持ちをいだいた。
「おまえが買ったの?」
「月末にお給料をもらって、その範囲でやんなさいって母にいわれています」
 千景のお給料がいくらか気になったけど、卓はきかなかった。きっと、たくさんもらうんだろう。卓はいう。
「なんか、わざわざありがとな。おれ、たいしたことしてないのに」
「話してくれるだけでいいです。家で一人の時間が長すぎて、声の出しかたを忘れそうなんです。ときどき、つきあってくれませんか」
 千景の顔は深刻だった。声の出しかたを忘れそうな孤独。卓は胸が痛んだ。
「おれでよければ、いつでもつきあうよ。コーヒーもおいしかったし」
 千景は泣きそうな目で笑った。
 袖机の電話が鳴った。《ジムノペディ》だ。千景は受話器をとろうとしなかった。
「出ないの?」
「どうせろくなんじゃない。個人情報をききだして売る悪い人です。家が大きいと、狙われる。空き巣に入られたこともあります。ぼくは建てるなら、小さい家がいい」
 呼出音はやがて途切れた。卓はずっと気になっていたことを口にした。
「あのさ、いいづらかったらいわなくていいからね。マユスミはなんで不登校になったの?」
 千景はうつむいた。「たぶん、ぼくが悪いんでしょうけど」
「たぶん?」
「自分では、よくわからないんです。いつも気づくと相手が怒ってて。だから、もしぼくが気に障ることしたら、すぐ教えてください」
 千景は恥ずかしそうに頼んだ。卓は頬笑む。
「おれのことは、スグルでいいよ。おれもチカゲって呼んでいい?」
 千景はうなずいて、浮きたつように笑った。

2杯目(正しい友達のつくりかた)

 五月になると、桜ヶ丘中学校二年六組の人間関係は固定化してきた。ギャルのグループ、おたくのグループ、スポーツマンのグループ、ヤンキーのグループ。類は友を呼ぶ。赤星卓はふつうの男子のグループに属した。すなわち、青沼秋秀を筆頭とする数人だ。
「再来週から中間だもんな。スグルは塾は行かないの?」
 秋秀がいった。卓は首を振った。
「おれはまだいいかな。マイペースでやりたいから」
「まさか、チカゲちゃんの配達があるからとかいわないよな?」
 秋秀は皮肉った。伊丹快久が失笑した。卓は黙りこんだ。
「アカホシくん。あのね、これってどういう意味?」
 副学級委員長の末次すえつぐ桃子ももこだった。桃子の指差した単行本のページ。僕は一般論で演繹的にものを言う、とあった。卓はいう。
「演エキ的……うーんと、ようは推論に基づいてってことだね」
「なーんだ、なら推論でって書けばいいのに。なんでわざわざ難しくするんだろうね?」
 卓は首をかしげた。秋秀がいう。
「スエツグもさ、役に立たない小説より、辞書を読めよ。村上春樹なんか受験の文章題に出ないぞ」
「アオヌマにはきいてないよ。アカホシくん、ありがとね」
 桃子は頬笑んで、友達のところへ戻っていった。秋秀はおもしろくなさそうだった。
「やーい、ふられてやんのー」
 快久がはやした。秋秀は口をゆがめた。
「恋愛なんてバカのすることだろ。おれにゃ関係ないね」
「またまた強がっちゃって。ほんとは気になるく・せ・に♡」
 茶化す快久を、秋秀は完全無視した。静電気じみた不機嫌の気配。秋秀の気をそらそうと、卓は中間のテスト範囲について口にした。
 卓のポケットから着信音、平井堅《キミはともだち》。メールだ。卓はケータイのフリップをひらいた。差出人は、黛千景だった。
 試飲会にお誘い申し上げます。新しいコーヒーが届きました。
 卓は胸をときめかせつつ、放課後を思った。

 金曜日の放課後。卓はゆるやかな長い坂を登って、黛邸のインターフォンを押した。杉板の門がひらく。
「待ちかねていました、スグル」
 五月の光の中で千景が笑った。玉砂利の庭に躑躅つつじが咲きそめていた。
 大理石の天板のキッチン。二人前二〇グラムずつ三種類のコーヒー豆をそれぞれ、千景はアンティーク風コーヒーミルで丁寧に挽いていった。鋳造の輪っか状のハンドル。
「一定速度で、ゆっくり回すんです。すると摩擦熱が起きないので、香りが保たれます。粉の粒子も均一になって、まんべんなく抽出できる」
「おれもやりたい」
「ぼくの仕事です。スグルはお客さまです」
「つまんない」
「練習なんです。コーヒーショップをひらくのが夢です。十五歳になったら、北海道のお店へ修行に行きます」
「高校は?」
「学校は好きじゃありません。勉強自体は嫌いではないのですが」
「親はなんていってんの?」
「おまえの人生だから、おまえが決めなさい、その代わり誰のせいにもしてはいけない、と」
 卓は感心しきりだった。ほかのすべての可能性を蹴って、一つの可能性を選びとる。そんな強い覚悟を、卓は持ったことがなかった。
「チカゲはすごいな。おれなんて自分が働くところ想像できないや」
「嫌いなことをして稼ぐより、好きなことをして稼げないほうが幸せです。好きなことをして稼げたら、もっと幸せです。スグルの好きなことはなんですか?」
 千景は瀟洒しょうしゃなドリップケトルで、輪を描くようにお湯を細く注いだ。泡立つ中細挽きの粉のおもて。キッチンに満ちるコーヒーの香り。卓は自分の好きなことについて考えた。漫画とゲームくらいしか思いつかなかった。
 テーブルに六つのデミタスカップ。三種類のコーヒーはみな味が異なった。コーヒーがこんなに風味豊かなものだとは。卓は目の覚める思いだった。
「ほんとにおいしい。なんかハチミツみたい」
「半水洗式の特徴です。コーヒーチェリーの果肉のぬめりを少し残して乾燥させるので、甘いんです」
「コーヒーチェリー」
「コーヒーノキはいい匂いのする白い花が咲いて、サクランボみたいな真っ赤な実がなるんだそうです。見てみたくて苗を買ったのですが、枯らしてしまいました。ぼくが育てると植物が必ずだめになります。灰色の指ね、と母はいいます」
 卓は笑った。千景も笑った。きれいな歯。
 《ジムノペディ》が鳴った。千景はやはり受話器をとらなかった。
「いろんな時間にかかってきます。在宅時間を割りだそうとしてるんですよ」
 透かし階段を上がって、千景の部屋へ行った。無垢材のドアのむこうに、灰色の目の狼。一瞬、卓は凍った。
「びっくりした。本物かと思った」
「ああ、ロシアの作家に依頼してつくってもらったんです。生き物を飼うのは、きっとぼくは向いていないので」
 卓は狼に近づいた。伏せの格好で、無垢材の床に置いてある。豊かな毛皮と、ガラスの目玉。千景は狼の耳を寝かせて、口をあけて見せた。セラミックの牙もそろってる。今にも飛びかかってきそうな威嚇の表情だ。
「すごい。いいな、かっこいいな」
「こんなのは、すぐ飽きます。友達がいるほうがいい。友達がたくさんいるスグルが羨ましい。友達って、どうしたらできますか?」
 千景は真剣に問いかけた。卓は困って首をかしげた。
「おれはチカゲを友達だと思ってたんだけど」
「友達って、そんなに簡単になれますか?」
 改めて問われると、よくわからなかった。卓は慎重にいう。
「おたがいに友達と思えば、友達でしょ。チカゲが思ってさえくれたら」
「なら、スグルと友達になりたいです」
 千景は手を差しだした。その骨ばった大きな手を、卓はそっととった。卓と千景は握った手をぶんぶんと振った。なんだかくすぐったくて、卓は笑った。千景も笑った。

 中間テスト期間の二日間、千景は登校した。定期テストだけは力試しのつもりで受けなさいと父親にいわれたらしかった。席で教科書を読む千景に、秋秀が近づいた。卓はひやひやした。
「いくらテストだけ受けたってムダだぞ。成績は普段の授業態度やノートのとりかたでも決まるんだからな」
「大丈夫です。ぼくは進学しないので、成績は関係ありません」
 秋秀は目を剝いた。「は? 中卒でどうすんだよ」
「コーヒー職人になります。日本一の焙煎人のお店へ修行に行くんです」
 千景はうれしそうにいった。秋秀は鼻にしわを寄せて、そばを離れた。卓はほっとした。
 一週間以内にテストは採点されて返ってきた。担任の小栗に、卓は封筒入りの千景の答案を預かった。もちろん、見る気はなかった。だが、秋秀が封筒を奪った。
「どうよ、チカゲちゃんの点数は?」
「よせよ」
 卓はとり返そうとしたが、秋秀は封筒を破った。100という数字が見えた。秋秀は鼻にしわを寄せ、それを突っ返した。
「できるくせに進学しねえとか、ふざけてんじゃねえの」
 秋秀は完全に頭に来たふう。快久が覗きこんで、マジかよとつぶやいた。主要五教科のテストのうち、四教科が一〇〇点満点! 塾通いの秋秀でさえ、理科の九十五点が最高点だったのだ。卓は破けた封筒に答案用紙を収めながら、千景にどう釈明しようか悩んだ。

 破れた封筒について、卓は正直に教室での顛末を話した。千景はそれよりも数学の点数を気にしていた。六十五点だった。
「おかしいです。完璧だと思ったのに、どうしてまちがえたんでしょう」
「数学は六十二点が平均だよ。充分だよ」
「国語と英語は得意ですし、理科と社会は暗記するだけなので簡単です。でも、数学はどうしてもできません」
 秋秀がきいたらまた怒りそうなことをいって、千景はしょげかえった。卓は笑った。フィナンシェを齧って、コーヒーをすすった。きょうはパナマだ。
「チカはほんとうに高校行かないの?」
「はい。にれの木の下のシライシさんにお世話になります」
「にれの木の下?」
「そういう名前のお店です。北海道のめぐにあるんです。このコーヒーも、そこからとり寄せました。シライシさんみたいな焙煎人になるにはどうしたらいいですかとメールで質問したのです。ぼくらのところで働きませんかとシライシさんいってくださいました。だから十五歳になったら、すぐに行きます」
「チカの誕生日っていつ?」
「四月四日です」
「じゃあ、三年生になったら行っちゃうんだね」
「スグルとあまり会えなくなります」
 千景はさみしげな目をした。卓は天邪鬼なことをいう。
「むこうで彼女できるかもよ。そしたら、おれのことなんか忘れちゃうよ」
「かかか彼女どころじゃないです。ぼくは勉強しに行くんです。スグルのことは忘れっこない」
 千景は目に見えて赤くなった。千景はやはり女の子が好きなんだろう。卓は切なかった。
「今のうちに思い出つくろうよ。来月さ、鎌倉かまくらに遠足じゃない。チカも行かない?」
「入れてくれる班があるでしょうか」
 千景は不安げにした。卓は胸を張った。
「おれの班入ればいいよ。大丈夫。おれ、学級委員長だから。みんなに嫌とはいわせない」
「それなら安心です」
 千景は笑った。そうすると鋭い目もとが人懐っこくなる。千景にとって、おれはただの友達だ。卓は自らにいいきかせた。胸の軋むような切なさが、苦しいのにずっと味わっていたいおかしな気分だった。

 鎌倉遠足の日は、薄墨の曇天だった。卓の班の七人組は鶴岡つるがおか八幡宮はちまんぐうの大石段を上った。途中、千景が立ち止まり、しゃがんだり立ったりした。卓はいう。
「どうした?」
「ここの十三段目でみなもとの実朝さねともが暗殺されたんだそうです。そのときをイメージしています」
「いいから、早く行くぞ」
 秋秀がいらいらといった。ほかの五人はそのまま上がっていった。千景は気にせず、十三段目を端から端までうろついた。千景の一人芝居を、卓は噴きだしそうになりながら眺めた。千景の少しずれたところが、卓は嫌いじゃなかった。
 二人で石段をかぞえながら上がった。六十一段あった。緑青の屋根に朱塗りの柱が印象的な楼門だった。広い境内に多数の参拝客。それ以上に鳩、鳩、鳩、鳩、鳩……。卓は班のメンバーを探した。千景は目を輝かせて、緋袴の巫女さんのいる売店を指差した。
「おみくじですって。やりましょう、スグル」
 結果、千景は中吉、卓は大凶。卓はショックだった。
「大凶ってほんとにあるんだ」
「大丈夫。ここは凶を強運に転じる力のある神社なんですって。あの箱に入れましょう」
 朱の凶運みくじ納め箱・・・・・・・・に卓は大凶のみくじを入れた。千景は中吉のみくじを眺めた。
「遠くへ行かぬが利、でも、北ならば差支さしつかへなしだそうですよ。よかったです」
「みんなを探さなきゃ」
「アオヌマくんに電話しては?」
 卓は秋秀にかけた。だが、なかなか繋がらない。
「スグル、見てください。すごいです」
 薄墨色の空を、白い鳩と濃い鳩が編隊を組んで旋回していた。わあ、と卓は口をあけて見とれた。千景はいう。
「ブルーインパルスみたいですね」
 呼出音が途切れて、秋秀の声がした。『どこ行ったんだよ。おれら駅むかってるぞ』
 卓と千景は小町通りへと急いだ。夏服でごった返す小路を、二人は縫った。卓の頬を雫が打つ。たちまち雨脚は繫くなった。あちこちで咲く傘。千景も折りたたみ傘をひらいて、卓に差しかけた。相合傘が卓は気恥ずかしかった。
「いいよ、おれは」
「だめです。スグルが風邪をひく」
 千景が肩をつかんだ。卓は赤面して体を離した。
「そんなやわじゃないから」
「雨宿りしましょうよ」
 クレープ屋の軒先に二人は入った。舗装されてない路地に、小さな看板。この先Café Ko-So-A-Do。千景が囁く。
「行ってみませんか?」
 班別自主行動中の飲食は禁止だった。これから長谷寺はせでら高徳院こうとくいんも巡らなきゃいけない。けれど、卓はなんだかどうでもよくなってしまった。
 路地の先のカフェ・コソアドは、ふつうの民家のような外観だった。空色の額紫陽花。案内板に沿って、二人は土蔵の扉をひらいた。からん、とカウベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
 店主らしき女性がいった。はっとするような乳白色の肌。明るい瞳。
「二名様ですね?」
「はい、二名様です」
 千景が鸚鵡返しにした。店主はうふふと笑った。なんで笑ったのという顔つきで千景は卓を見やった。卓も笑った。
 二人は奥の席へ案内された。土蔵を改装したカフェ。白熱灯のペンダントライト、漆喰の壁と、板ぶきの床。素朴な木の椅子と、撥水加工のテーブルクロス。時代がかった扇風機、火鉢、柱時計、ベビーオルガン、蓄音機。店主はレコードを乗せて、針を落とした。卓の知らないチェンバロの曲。千景がいう。
「《ゴルトベルク変奏曲》ですね」
「そうです。お詳しいんですね」
 店主は卓たちを子供あつかいしなかった。千景は照れたふうに笑った。
「クラシックは好きです。とても雰囲気のあるお店ですね」
「そういってもらえると、うれしいですね。内装はとてもこだわったので」
 卓はメニューをひらいた。五〇〇円のケーキセットと夏摘み紅茶にした。千景は同じセットにアメリカンをつけた。
 紅茶で口を湿して、卓はチーズケーキを食べた。なめらかなチーズと、さっぱりしたレモンの風味。おいしかった。千景はコーヒーの香りを楽しんで、一口すすり、満足げにうなずいた。
「ぼく、将来コーヒーショップをひらくのが夢なんです。お話をきかせていただいてもいいですか?」
 千景のまなざしに、女店主に対する憧れを読みとった。卓は急にケーキが苦く感じられた。無言でぼそぼそと食べる。店主は快くしゃべった。
「インテリアの色はホワイト、ベージュ、ブラックで統一しています。道具は蚤の市やアンティークショップで揃えました。購入先はいろいろですね。プラハ、ロンドン、パリ。ソウル旅行のとき買ったものも多いですね。器は美大に行ってる弟の作品で……」
 千景はあれこれ質問し、メモをとった。寺院の見学のときよりも熱心だった。レコードのチェンバロが果てて、高い窓から薄日が差した。
 二人はカフェを出て、小町通りへと路地をたどった。卓はうつむいていた。
「おいしくなかったですか?」
「え?」
「スグル、元気がありません」
 千景は心配そうだった。卓は笑みをつくった。
「いや、ちょっと疲れただけ。おいしかったよ、あのケーキ」
「失敗しました。レシピをきけばよかった」
「それより、どうすんの。おれら、怒られんじゃない?」
「きっと、怒られますね。でも、ぼくのお店のイメージはふくらみました。もう名前も決まってるんです」
「なんて?」
「メラルティン。北欧の作曲家の名前です」
 ああ、千景はお坊っちゃんなんだな、と思った。背の高い友達の背中が、遠かった。
 千景がふりかえった。「ありがとう、スグル」
「え、なんで?」
「ずっと一緒にいてくれました。ぼく一人だったら、あんなに質問できませんでした。いえ、そもそもお店に入れなかったと思います」
 千景ははにかんで笑った。卓はなんだか泣きたくなった。
 最終チェックポイントの鎌倉駅東口で、二人は小栗にこってり絞られた。でも、卓は後悔はなかった。二人はこっそり見交わして、目で笑った。

 夏休み。DoCoMoの紙袋を手に卓は黛邸を訪ねた。蕾の向日葵。千景は首をかしげた。
「ケータイ買ったんですか?」
「ケーキ。いつも用意してもらって悪いからつくってきた」
「スグルが?」
「百均のインスタントだけどね」
 出来合いの材料に牛乳を混ぜて冷蔵庫で冷やしただけのレアチーズケーキだった。けれど、千景はとろけそうな顔をした。
「とってもおいしい。スグルはお菓子づくりの才能がありますね」
「大げさだよ」
 卓は照れくさくて、フォークでビスケット生地を削った。千景はなおもいう。
「すごくやさしい味がします。スグルがやさしい気持ちでつくったからですよ。ぼくもいつも、おいしくなあれ、おいしくなあれって念じながらコーヒーを入れます。そういうのは、ちゃんと伝わるんですよ。伝わってますよね?」
 卓はコーヒーをすすって、うなずいた。「うん、伝わってる」
 千景は頬笑んだ。卓も頬笑んだ。目のまえの男にふれたい、と思った。卓はテーブルの下で十の指を握りこんだ。電話が《ジムノペディ》を奏でた。

3杯目(浅煎りの恋)

 チャイム。帆のようにふくらむカーテン。残暑ながらも、九月の風は秋のそれだった。弁当片手に卓は教室をでようとした。ソプラノの声。
「アカホシくん。これ、ありがとう」
 末次桃子が単行本を手に佇んだ。ハリー・ポッターシリーズ第四作の上下巻だった。卓は受けとった。
「どうだった?」
「うーん、今回はトリックがいまいちだったかな。でも、ヴォルデモートが復活して、続きが気になる」
「だよな。五巻目発売されたけど、とうぶん手に入りそうにないや」
「魔法使いとか魔法学校とか、くだらない。時間の無駄だね」
 青沼秋秀がきこえよがしにいった。桃子はきっと睨んだ。
「読んでもないのに、なんでくだらないってわかるの。そういうの知ったかぶりっていうんだよ」
「情報を総合的に判断した結果だよ。そんな子供だまし、読むまでもない」
 秋秀はせせら笑って、眼鏡を中指で押した。卓は無性に腹が立った。
「じゃあ、逆にきくけど、おまえのいうくだらなくないものって何。アキホの大事にしてるものって何?」
「そりゃ、来たるべき受験に備えて……」
「受験は通過点だよ。アキホは何を目指して、どんな人生を送りたいの。そういうこと自分でわかってていってんの? 親のいうこと鵜呑みにしてるだけじゃないの」
 秋秀は難しい顔で黙った。卓は桃子にいう。
「五巻目、手に入ったら、また貸してあげるね」
 うんっ、と桃子は頬を染めてうなずいた。卓は本を机に押しこんで、こんどこそ教室を出た。

 秋秀に偉そうなことをいったけれど、卓だって人生の具体的な目標など見えていなかった。高校へ行って、大学へ行って、会社に就職して……それで? 宇宙の涯について考えるみたいに頭がぼんやりする。再来年の受験を思うと、それだけで胃が痛くなった。
 午後の保健室に、教室と同じ机が一基。黛千景は真面目に課題のプリントを解いていた。この新学期から、千景は保健室登校をはじめた。卓はそっと近づいて、肩ごしに見守った。ワイシャツの広い肩。浅黒い首筋。骨ばった手が、シャーペンをノックする。いつまでも見ていられそうな気がした。
 急に千景がふりかえった。「わあっ。スグル、声をかけてください」
「いや、邪魔しちゃ悪いかと」
「こんなの、あとででいいんです」
 千景はプリントを裏返した。ふくよかな養護教諭が笑った。二人は身長測定器で背を測った。卓が一六三センチ、千景が一七八センチ。卓は長椅子に座って、弁当をひろげた。千景も隣に来る。
「次の時間、ホームルームだろ。体育祭の出場種目を決めるの。チカはどうする?」
 千景は自前のサンドウィッチを齧った。「ぼくはスポーツ音痴なので、あんまり走らないのがいいです」
「おれも長距離は嫌だな」
「スグルは速いから羨ましい。リレー選手でしたもんね」
「小学校まではね。今はもっと速いやついっぱいいるし。ヨシヒサとか」
「イタミくんは陸上部ですからね」
「四月の体力測定でさ、あいつ五〇メートル五秒台だったんだぜ。おれでも六秒台だったのに」
「二人とも、すごいですね。ぼくは一年生のとき八秒台でした」
「遅っ」
 千景は屈託なく笑った。将来よりも、卓は今の時間を大切にしたかった。

 ロングホームルーム。学級委員長の卓は、副委員長の桃子とともに教壇に立った。卓は声を張る。
「それでは、各種目の出場者を決めていきたいと思います。なお自薦他薦は問いません」
 個人種目は、コミカル競争、学級対抗リレー、女子一〇〇〇メートル走、そして男子三〇〇〇メートル走だ。中長距離は立候補者が出ず、話しあいは停滞した。手が挙がった。秋秀だった。
「三〇〇〇はマユズミくんがいいと思います」
 卓はぎょっとした。千景本人も席で目を剝いている。卓はいう。
「どうしてですか?」
「マユズミくんは、ふだん授業をサボってるくせに、イベントだけ参加してずるいです。こういうときくらい、クラスのために貢献すべきだと思います。だよな、みんな?」
 クラスメイトたちはあからさまに賛成こそしなかったが、反対もしなかった。走るのが自分じゃなければ、誰でもいいという雰囲気だ。千景が手を挙げた。
「マユズミではなく、マユスミです。ぼくは保健室で、きちんと課題をやっています。サボってるわけじゃありません」
 秋秀は唇をゆがめた。「ここ何週間の話だろ。ずっとサボってたじゃんか、マユズミくーん」
「マユスミです」
「どっちでもいいし」
 千景はむっと口を結んだ。背の高さこそ一人前だが、インドア派の千景はまったく体力がない。三〇〇〇メートルを完走できるか怪しかった。こういうとき、担任の小栗はぜんぜん頼りにならない。卓は焦りを感じた。
「ほかに立候補、推薦はありませんか?」
「マユズミくんでいいよなあ?」
 なおも秋秀がいった。千景はうつむいている。卓は腹を決めて、声を張る。
「じゃあ、三〇〇〇はぼくが走ります。反対はないですね?」
 黒板の男子3000の下に、赤星卓と白いチョークで書きつけた。卓は手を払って、あっけにとられたクラス一同の顔を眺めた。
「それじゃ、あとは女子の一〇〇〇メートルですね。立候補、推薦は……」
 卓の横で手が挙がった。桃子だ。「わたし一〇〇〇メートル走ります。いいですよね?」
 卓はびっくりした。桃子はどちらかというと体育は苦手そうに見えたから。桃子は頬笑んで、卓にうなずきかけた。
 桃子の気持ちはうれしい。けれど、卓は心苦しかった。この子のまっすぐな思いに、友情以上のものを何も返せない気がしたから。

 十月の日差しはあんがい鋭い。しらじらと秋風がグラウンドの砂を巻きあげた。コミカル競争のBGMは、《道化師のギャロップ》。千景は両足を布袋に突っこんで、ゴールへと不格好にぴょんぴょん跳ねた。ぶっちぎりのドンケツだ。みんなは苦笑いして、拍手した。千景も苦笑して卓に寄ってきた。
「だめでした」
「うん、期待してなかったよ」
「ひどいですー」
 華の学級対抗リレーは、B'z《Ultra soul》。アンカーの伊丹快久は、四人をごぼう抜きしてトップに躍りでる。そのままテープを切った。二年六組の盛りあがりは最高潮だった。卓は叫ぶ。
「ヨッスィー、かっこいー!」
 快久はピースで応えた。
 桃子は砂埃に咳をしながら、一〇〇〇メートルの最終コーナーを回った。ゆず《栄光の架橋》。余力を振り絞ってスパートをかける。四組の女子とデッドヒートだ。卓は大きな声で応援した。
「行け、スエツグー」
「がんばれ、がんばれ」
 千景も声を張った。教師の手にしたゴールテープを、わずかに早く桃子の胴が捌いた。七位だ。ビリから二番目だけど。
 桃子はよろよろと帰還した。友達二人に抱擁される。
「やるじゃん、スエツグ」
 卓は親指を立てた。桃子も親指を立てた。
 秋秀が醒めた目をしていた。たかが体育祭で熱くなってバカみてえ、と顔に書いてある。秋秀のなんでも斜めに見るようなポーズに、卓はうんざりした。ものの価値を否定して、何かを達成した気になっているだけだ。そんなのは錯覚なのに。
 体育祭のトリが、男子三〇〇〇メートル走だ。スタートラインで卓は足首を回して、唾を飲みこんだ。べつだんマラソンが得意ってわけじゃなかった。けれど、大役を買って出た手前、千景にあまり格好悪いところは見せたくない。全八クラス中の、せめて三位以上には入りたい。
 小栗がスターターピストルを撃った。八人の男子がいっせいに出走した。卓は集団の後ろについて、様子を見ることにした。体操着のまぶしい背中。よぎる砂埃。四〇〇メートルのトラックを、七周半だ。吸って、吸って、吐いて。吸って、吸って、吐いて。卓はラマーズ法みたいに呼吸した。小栗の声。
「あと四周!」
 集団がばらけた。卓は先頭集団三人の後ろで粘った。右の脇腹が痛みだす。周回を重ねるほど、痛みは鋭くなる。卓は顔をゆがめた。先頭集団から遅れをとる。小栗の声。
「あと一周!」
「スグル、がんばれ」
 千景の声。心臓が熱くなる。卓は痛みをこらえ、全力疾走した。一人の背に追いついた。抜き去った。二人目の背に追いついた。抜き去った。あと一人。でも、距離がたりない。前の男子がガッツポーズでテープを切った。卓はゴールと同時にフィールドに転がった。
「スグルっ」
 千景の腕が助け起こそうとする。卓は制して、そこに体育座りした。
「……くそー。一位、獲りたかったー」
「あと二〇メートルあれば、スグルが勝ってました」
 千景はしゃがんで、手のひらを差しだした。卓はハイタッチして、笑った。
「アカホシくん」桃子が真剣な目で呼びかけた。「わたし……わたしね、アカホシくんが好き。あなたさえよかったら、つきあってくれませんか」
 周囲から歓声とどよめきがあがった。千景は目をまん丸くしていた。勇気ある女の子を卓は見つめた。薄桃の頬、震える睫毛。こんなにかわいい子なのに、どうしておれの気持ちは動かないんだろう。どうしてこんなスポーツ音痴ののっぽの男子のほうが気になるんだろう。悲しかった。
「ごめん。スエツグはいいやつだと思うけど、つきあえない」
 クラスメイト一同からブーイングじみた落胆の声。桃子は目を潤ませて、唇を嚙んだ。
「理由、きいてもいいかな?」
「おれ、妹いてさ、スエツグ見てると妹おもいだすんだ。それに、おれ、ほかに好きな人いる。ほんとに、ごめんな」
 桃子は目をこすって、無理やり笑った。
「そっか、わかった。急にごめんね。どうしても伝えたかっただけだから」
 桃子は駆けていってしまう。友達が追いかけていった。卓はグラウンドの砂地ばかり見ていた。快久がいう。
「あーあ、もったいない」
 秋秀が冷たい目で睨んでいた。卓は立ちあがって、教室の椅子を置いた観覧席へ向かった。脇腹の痛み、噴きだす汗。自分の席について、顔をタオルで乱暴にこすった。
 千景がやってきて、魔法瓶のコップを差しだした。
「水出しコーヒーです。コーヒーには体を冷やす効果があるんですよ」
 卓は一息に飲んだ。お湯で入れたコーヒーよりもさっぱりとしていた。
「スグルの好きな人って、どんな人ですか?」
 千景は澄みきった目をしていた。卓は微苦笑して、目を伏せた。
「おれには、手の届かない相手だよ」

 十一月の夜長。卓は鍋つかみをはめて、オーブンレンジからトレーをとりだした。バニラとココアの市松模様のクッキー。少々ゆがんだけど、上出来だ。パジャマ姿のさらが顔を出す。
「またチカちゃんと食べるの?」
「そうだよ」
「いーなー、さぁも食べたい」
「さぁにも一枚あげるよ」
「一枚だけ?」
「はいはい、三枚あげるよ。歯ぁ磨けよ」
 妹の頭を撫でて、卓は温かいクッキーを手に乗せてやった。更はにこにこして、三枚いっぺんに頬ばった。
「おいしー」
 スグルにはお菓子づくりの才能がありますね。
 千景にいわれたのをその気にして、卓はお菓子のレシピ集を買った。簡単な物なら、それなりにつくれるようになった。お茶会に持参すると、千景はまず大げさに絶賛し、それから味を的確に品評し、アドバイスをくれた。それを参考に、またお菓子をつくった。上達するのがおもしろかった。
 パティシエになろうかな、と卓は思った。暗く漠然としていた将来に、薄明かりが灯った気がした。クッキーをタッパーにきれいに詰めながら、卓は千景を思った。
 千景の入れたコーヒーをおれが飲んで、おれのつくったお菓子を千景が食べて。それは少しだけ、愛に近い行為に感じられた。それだけでいい。それ以上は望むべくもない。

 光ファイバーの白いクリスマスツリーは、先端が小さく七色に光った。その色の移ろいを横目に、卓はスポンジケーキに生クリームを塗った。黛邸のオーブンを借りて焼いたのだった。
 千景が桃の缶詰に手こずっていた。缶切りを使うのは初めてだそうだ。卓はいう。
「やってやろうか?」
「いいえ。これも練習です。梃子てこの原理の応用の実践です」
 千景は意固地にいった。卓は笑った。缶の蓋がひしゃげながらもひらいた。卓は白桃と黄桃を櫛切りにして、生クリームの上に規則正しく敷いていった。
「スグルはおいしそうに並べますね。やっぱり才能があります」
 千景はいつも素直に人を褒めた。そして、人をけなすときも、また素直にけなした。いや、けなしている自覚もないかもしれなかった。ただ、思ったことを口にしているだけだった。良くも悪くも裏表がない。好奇心が人一倍強くて、すぐ興味の対象で頭がいっぱいになってしまう。それが黛千景という人間だった。この八ヶ月間、一緒に過ごしてみてわかった。そんな単純で要領の悪い男が、愛おしかった。
 ピーチケーキを切り分けて、乾杯した。きょうはカプチーノだ。泡のヒゲをつけて、二人は笑った。舐めると泡は甘くて苦い。千景がふと真顔になった。
「行きたくなくなってしまいます」
「え?」
「北海道へ行きたくなくなってしまいます。スグルと毎日コーヒーが飲みたい」
 ずっと感じていた胸苦しさが、はっきりと痛みに変わった。袖机の電話が鳴りだす。単音の《ジムノペディ》。もう、だめだ。卓はカップを置いた。
「悪いけど、おれ、もう来られない」
 卓はいった。千景は目を見ひらいて、それから怒った表情になった。
「スグルは、ずっと我慢していたんですか? ぼくが気に障ることしたら、すぐ教えてくださいといいました。どうしていってくれなかったんです」
「そうじゃないよ。おれ……おれさ、チカのこと好きだと思う」
 《ジムノペディ》が途切れた。千景はきょとんとした。
「ぼくも好きですよ」
「そうじゃない。おれ、たぶん、ゲイなんだ。いいなって思う相手は、いつも男で。それで、チカのこと好きになった。でも、わかってる。チカにとっては、おれはただの友達だもんな。そういう気持ちの温度差が、きついんだよ。だから、もう、ここへは来ない」
 千景は目をみはって、大きく息をした。卓はため息をついた。受け入れてもらえるとは思っちゃいなかった。卓は席を立った。
「チカといられて、楽しかった。コーヒー、ごちそうさまでした」
 背を向けた卓の肩を、千景がつかんだ。
「ケーキ、一人じゃ食べきれません」
「捨てればいいだろ」
「スグルが、女の子ならいいのにって、何度も思いました」
 千景の真摯な目。よろこびと、それ以上の痛み。やはり、千景は女の子が好きなのだ。卓はかすれた声でいう。
「帰るよ。おれ、男だし」
 千景はなおも肩をひっぱった。
「試してみても、いいですか?」
「試すって……」
 腕を回され、向かいあう格好になった。千景の浅煎りライト・ロースト色の顔が、大きく迫った。卓は息を止めた。心臓が轟いて、壊れるかと思った。やわらかいものが掠めるように唇にふれた。耳と頬がオーブンの余熱みたいに火照る。千景は顔を離して、首をかしげた。
「よくわからないので、もう一回いいですか?」
 ふたたび千景の顔が迫った。卓は息を詰めて、目をつむった。唇を唇がゆるゆるとなぞって、離れた。千景はいう。
「あの、もう一回……」
 卓は腕を突っぱった。「わからないなら、無理しなくていい」
「噓です。ほんとうはわかっています。帰らないで」
 千景は力を込めて、卓を抱きすくめた。温かい胸のうち。ずっと、こんなふうにふれあいたかった。卓は力を抜いて、額を肩に乗せた。千景が囁く。体からじかに伝わる声。
「キスって、すごく恥ずかしいですね」
「うん、恥ずかしかった」
「でも、気持ちいいですね」
「……」
「もう一回、いいですか?」
 二人は目を見交わして、キスした。くりかえし、だんだんと深く。クリスマスツリーの光の七色が、静かに移ろった。

4杯目(さよならの代わりに)

 春とは名ばかりの、寒い三月。ガラスの目の狼を撫でながら、黛千景は穏やかな顔をしていた。黛邸の二階の、十帖の部屋。薄青の壁に、無垢材の床。赤星卓はカーペットに座って、千景の手の動きをぼんやりと眺めた。千景はいう。
「小三と小四のとき、スグルと同じクラスだったでしょう。あのときもスグルは学級委員でしたよね。ぼくはハムスター係でした。憶えていますか? ハムレットが脱走してしまって」
 憶えている。ハムレットという名の、灰色のジャンガリアンハムスター。クラス総出で学校中を捜索したのだ。でも……。
「職員玄関のドアに挟まれて、お尻が潰れていました。みんな、気味悪がってました。生きているときは、あんなにかわいがっていたのに。ぼくもそうでした。とてもさわれなかった。でも、スグルは平気で素手で拾いあげて、お墓をつくってあげようといいました」
 千景は頬笑んで、狼を撫でつづけた。
「だから、スグルならきっと、ぼくの味方になってくれると思ったんです」
「だから、わざわざコーヒーとおやつを餌にして、おれを釣ったんだな」
「上手に釣れたでしょう?」
 千景は冗談めかしていった。告白でもされたような気分に卓はなった。泣きたかった。来月にはもう、この男は行ってしまう。
「北海道へは、いつ?」
「いつでも。必要なものは、もうあっちに送ったんです」
 卓は無理やりに笑った。「そっか。うまくやれるといいな。たまにはメールくれよな。おれもするからさ」
 千景はうつむいて、ぽつりとつぶやく。「スグルが、女の子ならよかったのに」
 卓は息を大きく吸った。まちがってトゲのあるものを吸いこんでしまった気がした。
「別れよう」
 千景は目を瞠った。「どうして?」
「チカは女がいいんだろ。どうしたって、おれは男だもの。いい機会だから、別れようよ」
 千景は首を振った。ゆっくりと、だんだん激しく。
「いやだ。別れたくない。スグルが女の子なら、結婚できるのに。そしたら、ずっと一緒にいられるのに」
 千景の目が光って、涙がふくらんだ。頬をぼろぼろと伝う。千景がとり乱すのを、初めて見た。卓は膝行いざり寄った。嗚咽する男を、そっと抱きしめた。こいつが、愛おしい。
「泣かないで。結婚はできないけど、一緒にいることはできるよ」
 泣き濡れた頬を、卓は両手で挟んだ。しょっぱいキスだった。卓はいう。
「いっぱいメールする。電話もする。ときどきは会いにいく。チカも会いにきてよ」
 千景はうなずいた。卓を抱き寄せて、服の裾をたくしあげた。素肌にふれる指。卓は途惑った。
「さわりたい」
 千景は囁いた。卓はトレーナーをアンダーシャツごと脱いだ。部屋はオイルヒーターで温かかったけれど、身震いした。
「どうぞ。おっぱいはないけど」
 千景は食い入るように見つめて、卓の肌をするすると撫でた。乾いた大きな手のひら。卓はゆるやかに勃起した。ファスナーを押しあげるそれを見て、千景は卓のジーンズに手をかけた。卓は手を押しとどめた。
「チカも脱いでよ。おれだけ素っ裸じゃ恥ずかしいよ」
 千景もトップスを脱いだ。浅黒い、薄い胸。小さな乳輪。卓の股間は痛いくらいだった。
 千景の匂いのベッドに転がって、二人は向かいあった。
「変な感じですね」
 千景は卓の胸をぺたぺたとさわった。
「お風呂じゃないところで裸で、変な感じです。慣れるでしょうか?」
「たぶん」
 千景は卓の首に腕を回した。戯れのようにキスする。卓は手探りで千景のスラックスをひらいて、そこにふれた。湿っていて、硬い。おれだけじゃなかった、と安心する。しごくと、千景の息が跳ねた。眉根を寄せた顔。
「スグルばっかりさわって、ずるい」
 千景も卓のジーンズをずらした。それだけで卓は達しそうになった。
 キスをくりかえしながら、夢中でふれあった。自分でさわるときの何十倍も敏感になった。卓は今にも破裂しそうだった。千景はうわごとのように名前を呼んだ。
「……スグル、すぐるっ」
 千景は股間を股間に押しつけて、こすりあげた。セックスみたいに。痛みに近い快楽。リズミカルに軋むベッド。卓は頭が痺れたようにぼうっとした。
 千景が暴発した。股間が温かく濡れる。その感触で、卓も達した。全力疾走のあとみたいに息をしながら、二人は見交わした。千景の澄みきった目。
「北海道に行きたくない」
 卓も行ってほしくなかった。でも、卓はいう。
「だめだよ。チャンスなんだから、行かなきゃ」
 自分のせいで、千景の夢を潰したくなかった。千景は卓を抱きしめて、顎を頭に乗せた。二人はぐすぐすと洟をすすって、やがてうつらうつらとした。

 何かが割れた気がした。卓ははっと目を覚ました。夢を見たのか。
 黛邸のベッド。裸の千景は睫毛を伏せて、寝息を立てている。カーテンの隙間は、明度を落としつつあった。千景に毛布を引きあげて、卓は服を着こんだ。一階から物音。誰かいるのだろうか。千景の親? 何か、無性に嫌な予感がした。
 卓は足音を忍ばせ、透かし階段を下りた。薄暗いリビングは、いやに寒かった。籐の整理箪笥の前にうずくまる人影。抽斗を下から順にあけて探っている。卓は息を殺して、無垢材の床を踏んだ。靴下の足の裏に疼痛。ガラス片だった。ガラス戸が割れている。
 人影がさっと立ちあがった。目出し帽、その手にポケットナイフの光。卓はすくんだ。そいつは一息に距離を詰めた。荒い呼吸。
「カネ、カネはどこだ」
「知らない」
「知らないわけないだろう」
「ほんとに知らな……」
 頬を張られた。遅れてくる痛み。靴下に血の滲んだ感触がした。涙がじわりと溢れて、卓の頬を伝った。こわい。
「カネさえ出せば、命はとらない。どこにあるんだ?」
「ぼ、ぼくは、この家の人間じゃありません。ほんとうに知らないんです」
 大きなものが降ってきた。毛むくじゃらの、ガラスの目の狼。目出し帽がしりぞいた。そこへ半裸の千景が飛びかかった。強盗が倒れる。テーブルの鋳造のコーヒーミル、およそ四キロのそれを、千景は馬乗りになって振りおろした。なんども、何度も。二十帖に響く鈍い音。卓は、なすすべなく立ち尽くした。千景の横顔は夜叉のようだった。
 千景がゆらりと立ちあがった。目出し帽の強盗は、動かなかった。死んだのだろうか。卓と千景は見つめあった。千景の目は、泣きだしそうに光った。
「……きゅ、救急車」
 卓は袖机の受話器をとった。震える手で、一一九番を押す。
 千景の声。目出し帽が、千景からナイフを抜くところだった。裸の脇腹から流れる暗い血。千景はくずおれた。卓の喉から、意味のない叫びがあふれた。強盗はナイフを手に、よろめきながらガラス戸を出ていく。卓はトレーナーを脱いで、それで千景の脇腹を押さえた。卓の手に、千景は弱々しく手を添えた。卓は受話器に叫ぶ。
「友達が、刺されました。救急車を」
『救急要請ですね。現場の住所は?』
保土ヶ谷ほどがや区桜ヶ丘二丁目……」
 だが、番地が思いだせなかった。トレーナーが血に染まっていく。千景が、死んでしまう。頭が真っ白になった。嫌だ、イヤだ、いやだ。
 千景が何か小さくつぶやいた。卓は耳を寄せた。ここの番地かと思った。低い声で千景はいう。
「……愛しています」
 卓の手に添う手から、力が抜けた。卓は叫んだ。叫ばずにいられなかった。三月の風が、返り血を浴びた狼の毛皮をそよがせた。

5杯目(カフェ・メラルティン)

 花冷えの宵。相鉄線の駅前商店街、赤星卓は立て看板を店内へ運んだ。シャッターを半分だけ下ろす。夫婦でやっているパティスリーだった。店主の旦那さんがいう。
「アカホシくん、ほんとに辞めちゃうの?」
「友達との約束なんです。カフェをひらくって。長いあいだ、お世話になりました」
「さみしくなっちゃうね」
 奥さんがいった。卓もさみしかった。この夫婦には良くしてもらった。店主がいう。
「厨房、使っていいよ。鍵は預けるから、片づけ頼むね」
 夜の厨房で、卓は小さなケーキスポンジを焼いた。隠し味は昆布だしだ。生クリームを絞って、苺を置く。宝石箱のような出来栄えだ。卓は満足して、片づけを始めた。
 市営バスに揺られて、卓は桜ヶ丘に帰った。ゆるやかな長い坂を登って、黛邸の門前に立った。高い塀から窺える二階は、明かりが消えている。卓は杉板の門を押して、庭へ入った。
 五十坪の庭に、蛍火のようにフェイクキャンドルが揺れた。白い円卓が六脚。その一脚で、ひょろりと背の高い男が月を眺めていた。薄明かりのなか、白いシャツの男は美しい幽霊に見えた。卓はケーキボックスを掲げた。
「二十五歳、おめでとう。ケーキつくってきた」
 男は、黛千景は頬笑んだ。庭木の七分咲きの桜から、花びらが散った。
「コーヒーを入れますね」

 十年前のあの宵、強盗に刺された千景を抱いて泣く卓のもとに、セキュリティ会社の警備員が駆けつけた。千景は搬送され、二リットルの輸血を受け、一命をとりとめた。千景の左脇腹にはナイフの痕が残っている。名誉の負傷です、と千景は笑った。
 千景は予定どおり北海道へ飛んだ。卓は桜ヶ丘に残って、高校卒業後にパティシエ専門学校へ進んだ。連絡はとりあったものの、千景は研鑽のためにアフリカや南米を飛び回っており、顔を合わせるのは年に数回だった。喧嘩もした。別れの危機もあった。それでも、今、一緒にいる。
「昼間、横浜でアオヌマくんに会ったんです。憶えていますか?」
 コーヒーカップを庭の円卓に置きながら、千景がいった。中学卒業以来、青沼秋秀とは音信不通だった。ほとんど喧嘩別れだ。県有数の進学校に行ったとはきいていたが。
「ずいぶん穏やかな顔になっていましたよ。銀行に勤めたそうですけど、組織が肌に合わなくて、今は塾講師をしていると。昔、スグルがいったんですってね。受験は通過点だ、アキホは何を目指して、どんな人生を送りたいのかって。ずっと考えていたんだとか。けど、自分の得意なことって結局は勉強しかないとの結論に至ったんだそうで。塾講師は天職だといっていました」
「そうだったんだ」
 子供のころの考えなしの言葉が、秋秀の人生にプラスの影響を与えたのなら、卓は本望だった。
 卓はコーヒーをすすった。千景がドミニカの農園から空輸した新豆ニュークロップだ。焙煎具合もばっちりだ。千景は苺のケーキを頬ばった。
「おいしいですね。やさしい味がします」
「あした、また試作品を焼くよ」
「オープンはもうすぐですからね」
 千景の口もとにクリームがついていた。卓は自分の口を指差した。
「ついてるよ」
 千景はきょとんとした。卓は身を乗りだして、舐めとった。
「甘い」
 ふふ、と千景は照れ笑いした。「今夜は一緒にいてくれますね?」
 卓はうなずいて、夜空を仰いだ。満月にややたりない十四夜月。卓はいう。
「十年、あっというまだったな」
「きっと次の十年も、その次の十年もですね。おじいさんになっても、ぼくがコーヒーを入れます」
 冗談めかして、最愛の浅煎りの恋人は笑った。

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