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ウィル・スミスの平手打ち騒動から思うこと

アカデミー賞授賞式で、司会者のクリス・ロックがウィル・スミスの妻のジェイダの髪型を揶揄する発言をし、ウィルがクリスを平手打ちした事件はみなさん目にしたことと思う。

衝撃的なニュースだった。このニュースを通していろんな思いが去来してまとまらなくなったので綴っておきたいと思う。

第一報を見てすぐ、仕事場で一緒だった女性たちとこのニュースについて話した。そこにいた女性二人と私の最初の感想はほぼ似たものだった。

「暴力は良くない。でも自分がジェイダだったら嬉しいかもしれない。」

しかしその後、男性二人に感想を聞いたところ、全く毛色の異なる言葉が返ってきた。

「冗談としても笑えないし最低な発言だけど、暴力で応えるなどバカバカしい。いちいちひどい冗談に暴力で答えていたら世の中は大変なことになる。セレブリティ特有の大げさな振る舞いだ。彼は自分に酔っている。」

この時、圧倒的な温度差を感じた。男性側の意見を聞いてハッと目が覚める思いもしたし、それと同時にどうしてそこにいた私たち女性3人はこんなに反撃への渇望があるのかと疑問に思った。


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大げさではなく、私たち女性は、道を歩いているだけで突然知らない人から危害を加えられるかもしれないという恐怖をうっすら抱えて生きている。

例えば、ただ駅で電車を待っているだけで、避けられるスペースがあるのにわざと思い切り体当たりをされてホームに落とされそうになったり。大声で罵られたり。

道を歩いているだけで「オラァッ!!!」と突然知らない男に脅かされる。そして驚いている私を見てゲラゲラ笑う男。

こんなことは日本でもフランスでも残念ながら本当に日常茶飯事だ。やめてくれ、とたしなめることすら躊躇われる。なぜならその後相手がエスカレートして何をされるかもわからないからだ。そして、こういう危害を加えてくるような問題のある人物は、圧倒的な力の差を見せつけられる、自分より確実に弱そうな相手だけを狙ってくる。

だからこのような体験を話しても、加害者ではない一般男性にはあまり理解してもらえない。「被害妄想じゃないの?」「いやいやそんな変なやついないって」

彼らはターゲットにされることがないから、そういう日常が見えないのだと思う。そして、見えないものごとの存在を認識することは簡単にできることではない。


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だからこそ、妻の代わりに(口汚くではあるし)たしなめたり、平手打ちして(暴力は決して許してはいけないのは前提として)反撃するウィルの行動に一瞬救われるような気持ちを覚えてしまったのかなというのがあの時の自分の気持ちの全てだったように思う。

日常のなかで突然自分の心をめちゃくちゃに踏み荒らされて、「こんなの軽い冗談だろ?」と笑顔で去っていくような人間に瞬時に巧みに反撃することは私にはできない。傷つけられた瞬間は、あまりのショックで起きたことを理解することもままならない状態で、ウィットに富んだ切り返しでたしなめるなんてできるはずもないし、そもそも傷つけられた側がその場の空気や相手のことを考慮してスマートに立ち回らなければならないなんておかしい。でも、もし誰もたしなめてくれなかったら、彼らは飽きるまで嫌がらせというお楽しみを続けるだろう。私たちがその場から立ち去ったりしない限り。だから心の奥では、いっそ殴ってしまいたいという憎しみを、澱のように貯めこんでしまっていたのかもしれない。

そしてあの場で、あのジョークにはっきり「そんなこと言うべきじゃない」と反論できる人がいたら、、、とたらればでも思うけど、集団のなかで、カメラも入っていて、脚本があるのかもしれない、とか色々なことが去来してどうすべきかわからなかった人もたくさんいたと思う。

そういう「冗談」のフリをした言葉の暴力が誰かに振るわれる瞬間に立ち会ったら、「やめて」とはっきり言える自分で居たい。

それから、意地の悪い「冗談」をよく言う人たちは、抗議されると必ずこう言う。

「冗談じゃん。冗談もわからないなんて変だよ」

冗談というのは、受け取る側も冗談として受け取ることができて初めて成立する。相手が不愉快に思ったのならもうそれは冗談として成立していないのだ。常々それを指摘できなくて悔しい。


その後、クリスとウィルにボクシングの試合をしないかと提案した者がいたとニュースの見出しで見てゾッとした。一人の人間の尊厳が傷つけられて、影響力のある人間が公の場で暴力を振るってしまったことにより暴力を肯定するようなイメージが生まれてしまいかねない問題、そしてこれまで本人が築いてきたイメージをも台無しにしたこと、更には冗談にしていいことと悪いことの区別のつかないコメディアンという真剣に向き合うべきことがたくさんある複雑な問題を正面から茶化してマネタイズしようとしている。これこそホモソーシャルの悪い部分の縮図に思えてならない。

悪気はなかったんだしな、お互い殴り合ってスッキリしたらいいじゃんか〜!!という男子校ノリみたいな気持ちの悪さがキツイし、ついでに儲けようというあさましさにもう吐き気がする。もともとの問題からどんどん意識がそらされて笑いとして消費されていくのもキツイ。ウィルが殴っている瞬間の切り抜きを使ってネットミームとして遊んでいる人たちも散見される。他人事だからそうやって遊べるんだと思う。もちろん起きた事件としては当事者ではないけれど、引き寄せて感じてしまうくらいにはひどい目にあってきているから置き所のない気持ちをずっと抱えてしまっている。


最後に、時々日本の番組を見ていて暗澹たる気持ちになってしまうことも書いておきたい。「東京の女のレベルは高い」とか、「こいつ〇〇が好きなんですよ」と個人の性的趣向を暴露して笑いに変えたり、「〇〇さんはおっぱい大きいからね」など、見ていられない発言が多い。

最近になって、25年前に愛読していた少年漫画がネットフリックスに上がってきたので見返してみた。すると登場人物が相手に許可なく体を触り、「こいつはオカマだ」「女になりたいなら中途半端に残さないで完全に工事して女になれよ」と発言するエピソードがあった。それを違和感を持たず楽しく読んでいた当時の自分も、そういう「冗談」は「アリ」と世の中で認識されている、と普通に受け入れてしまっていたことに気づいた。「こういうことを言う・行うのはやめましょう。冗談になりません」と言葉にして発信してきた人たちのおかげで少しずつ世の中は変わってきた。日本のバラエティは面白いし、これからも見たいけど、もう時代は変わったし、少しずつでもアップデートしていってほしい。

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