朝の記録 0115-0121
1月15日(金)の盲目
詩は内側にあるというけれども外を歩いていると自分の外側にあるような気もしてくる。目に映るもの、肌に触れるもの、匂いの中、指の先。漂っていたり、うずくまっていたり、どこかでひっそりとしている。決して派手なものではないけれど、誰にも見えるところに存在しているような。夜の底、朝の光、夕陽のささやかさ、伸びる影。音もしないで、立てないで、手の届く場所で。でも、それが見えなくなったら、感じられなくなったら、それは詩の消失ではなく、見つける自分が濁っているだけなのかもしれない。だから整えるのが大事だと考えていて、今はそういったいとまが全くないといった状況ではあって、今日を越えたら、なんとかどうにか休もう。少し疲れてしまったから、ゆっくり寝て、そうしたら、きっとまた外に浮かんでいる断片たちに気付くことができるだろう。外側にある言葉を探しているうちに、内側に言葉を探して潜っていくことができるだろう、それはわからないけれど、わからなくたって、いつのまにかきっと、そうして探していくものだった。
1月16日(土)の風の中
朝ポメラを開いてぼーっとしていると、電池が切れて沈黙してしまい、それでぷつりと切れてしまって、充電したまま閉じて、夜になった。夜にこの記録を書くのは二度目になる。
身体的にかなり負荷をかけた最近で、やりたくないけどやらなければならないことを後回しにしてきたが故にそのツケが回ってきてずっとしんどかったのだけれども、休日に入って強制的に休むことができたから、今日はやりたいことだけをやろうと思っていた。ふと一日を振り返ってみると、「どこかの汽水域」の試し読みの準備と、本屋に行ったことと、本を読むのに適した大好きなカフェで読書したこと、そして夜には試し読みをしたこと、Twitterでちょっと驚きに包まれたこと、といったラインナップだった。小説と絵を結局満足にすることができなくて、自分から発露する感じもなければ、そして多くの文章・情報を受け入れられる感じでもなくて、ずっと気怠さが付きまとっている。それは悲しいことだった。本屋で手に取った本の美しさだとか、読んだ瞬間に湧き上がってきた感情が、まるで死んでしまったように今は見えなくなっていて、ほんとうにどうしたものかな、と思う。寝て休んで、明日の朝になったら、また浮かび上がってくるだろうか。できるならば明日「どこかの汽水域」の通販ページを開きたいところではあるけれども、それに対する心身の準備が十分にできておらず、だからもしかしたら、明日は無理かもしれなかった。それでもいいんじゃないかとか思った。あちらこちら、試し読みのページにも、Twitterにも、明日公開予定と書いたけれども、予定は予定で確定ではなくて、そうなったとしても、許されたい。許したい。頑張れる時に頑張れたらいいよって。
1月17日(日)の汽水域に立って
ほんとうだったら文学フリマが開催されている日だという実感がなさすぎるくらい、あまりにも十分に寝た。布団に押しつけられているみたいにして寝ていた。寝付きが悪かったということもあるだろう。
うだうだと昨日、通販間に合わなくても大丈夫じゃないかなみたいな甘ったれたことを書いていたけれども、結局ぽちぽちと準備を進めてなんだか間に合いそうな予感がしている。ちゃんとできるかな、とか、そもそも買ってもらえるのだろうか、とか、いろいろと不安が過るけれど、noteの試し読みにいくつかスキがついていて、久しぶりにこの数的効果に励まされている。この「数」に翻弄されてはいけないと思う日々だったけれども、一人くらいは気にしてくれてる人がいて、しかも運が良いことに、多分、一人だけではないというのが、ほんとうに有難いと思っている。もちろん、この試し読みにスキをしてくださった人が皆手に取ってくださるなんてことはまったくつゆほども思っていないのだけれども、届くべきひとのところに届いていったらいいと心の底から思っているのだ。自分の手の届く範囲でなにか始まっていくのは、器相応というか、ちょうどいい感じがする。どんな幕開けになったとしても、私の中では新しいスタートを切る瞬間になるのだと思う。そこに誰かが関わることは、きっと今まで味わったことのない感覚になるんじゃないだろうか。今まで作品のやりとりについて、開かれた場所でやってきた。誰の目にも届くところでやってきた。それは誰にも読んでいただけるというのと同時に、誰に読まれているのかほぼ掴めないという状態でもあった。もちろんそこに感想などが生じればダイレクトだけれども、感想というのは基本的にもらえないものだし、私も感想に関しては書いたり書かなかったりで、それを当然とも思っているので、その点に関してはもう自分の手から離れた先の話だから私にはどうしようということもない。けれど、そもそも作品を読むのにお金が必要になるというハードルが設けられれば、買い取られていった時点である程度の興味がその買い手(読み手になるかもしれない人)に生じているという事実が生じる、と思う(これが大手であれば転売ヤーの可能性が出てくるだろうが、その心配をしなくてもいいというのは穏やかである)。それはある意味、地味に悩み続けていたことの突破口に繋がるかもしれない。つまり何が言いたいかと言うと、お金のやりとりと同時に、今までになかった信頼のやりとりがなされるのではないかという可能性が生まれる。などというと重い気もするけれど。
お金による価値決定に嫌気がさすこともある。それでもお金がなければなかなか穏やかに生きていけないのがこの日本社会の実情なわけだし、お金とうまくやっていけばなにか道も見えてくるかもしれない。
こんなネットの大海で、個人的に発信しているだけの名も無き人間だ。そこに550円+送料をかけるだけの価値があるかどうかを決めるのは、私じゃない。それでも読みたいと言ってくれる人のところに届いてくれたらいい。文には相性もタイミングもある、それは本好きであるのだからよくわかっている。だから今この瞬間だけじゃなく、持続的に誰かの本棚に居続けるような作品になったら嬉しいし、そうなるような人のもとに届いてくれたらこれ以上嬉しいことだってない。だけどそれはもう、私の範疇を遠く離れていってる。つまり、どうなるかなんてわからない。
でもきっと、試し読みを読んで何かしらぴんときた人には、何かしらの強いメッセージを残していけるような、そんな作品集になったと思う。未熟な部分も含めて。もう私が中身について言えることなんて少ない。読んでもらったらきっとその中にある。そう言える。
だからこそ、値段という価値を加えて、人目に出す。
興味のない人にはただの紙切れだし、意味を持たない文字の羅列だ。だからこれを読みたいと思う人のところに届くといい。ほんとうに思う。試し読みで出したあの文章の先を読んでほしい。ほんとうにこの作品で書きたかったことは、あの中にあるんじゃない。最後まで読み切って初めて。あの三作品が連なって、初めて。
ああ、読んでほしいなあ、なんて切実に思ったりする。数年かけてでも、これからしばらくゆっくりと私の手元から離れていったらいい。
よろしくお願いします。
1月18日(月)の波の音
結局なんだかんだと通販ページを開いて、どうなることだろうと思っていたけれどもたいへん有難いことに注文が入っており盛り上がった夜だった。なんだかやたらと感動してしまった。そしてちょっと驚くようなこともあり、ほんまかいなと疑りながら、梱包についてぐるぐると考えていた。考えていたら、布団に入ったのは結構早かったのに、結局眠りについたのはまあまあ遅かったように思う。慣れないことをするのは大変だが、やってみなければわからないことだった。どうあれ、お金がかかっても、読みたいと思ってくださる方がいるのは嬉しい。それはわかりやすい励みとなって降り注いだ。
土曜に読み始めて昨日読み終えたのが「海をあげる/上間陽子」だったのだけれど、評判を聞くにとても良い本であることは間違いなくて、以前試し読みで一篇だけ読んだことがあって、読んだ記憶をなぞるように読み始めた。そうしてページをめくっていたら汚れのようなものがページに刷りついていて、指で触れてみたけれどもなんのおうとつもなく、指先になにか付くわけでもなく、それは光にあてるときらきらと輝いて、金色をしていた。ビニールでとじられてはいなかったとはいえ、一応新刊なので、本屋での誰かの手によるものとはあまり思えなくて、印刷ミスかなにかかなあと見つめる。たまにそういった、いろんな目を潜り抜けてやってきてしまった何かの誤りを目の当たりにすると、微笑ましい。微笑ましいのは、これが本だからだろう。直接的になんらかの害を与えることがない。ただこれがもしも真っ黒な汚れで、それも字を読むのを害するようなものであれば話はまた別だけれども、そういうわけでもなく、ひっそりと張り付いた金色はちょっときれいなくらいで、だから微笑んだままで通り過ぎた。
金色の輝きは太陽の光だったのかもしれない、波に反射した輝きだったのかもしれない。
沖縄の実情を、私は恥ずかしながらきちんと把握できていないことを思い知る。それは私だけではない。そしてもどかしさと絶望を著者は抱いている。絶望は海を渡り文章となって読み手に届く。この絶望は海と共にやってきた。さざなみと共に鳴っている。沖縄の悲鳴、分断が、土砂の音にまみれて聞こえなくなっても、文章が鳴っている。なんて本だろうか。
1月19日(火)のゆらぎ
ようやく文章が頭の中に入ってきたような気がして、嬉しい。
昨日、頭を悩ませ、時に身体に鞭打って作ってきたものがひとまず完成し、ものすごく楽になった。精神的にあまりに楽で、ますますもっと早めにやっておけば良かったのにねと自分に呆れるけれども、後からどれだけ言っても仕方ない。どうにも嫌なこと、面倒なことを後回しにしてしまう癖は直したいところではあるけれども、果たして世間はこれをどうやって克服しているのだろう。たぶん、やりたいやりたくないとは別の回路がちゃんと機能、発達している。
ともあれ、そうして終わったから、久しぶりに小説を夜に書いた。書きたいと思って、書きかけになっていた小説、3000字以内に収まるような掌編なのだけれども、それを書いていて、夜なのに小説を書けている自分にまず驚いて、ようやく言葉を自分で発せる段階に戻りつつある、と思ってものすごく嬉しくなった。普段もこうして日記を書いているけれども、日記文と小説文はイコールでは繋がらなくて、日記が書けるからといって小説が書けるわけでもなかった。そして最近日記もあまり芳しくなかったので、明らかに低迷していたのが、ようやく光明が見えてきたような気がした。文章が頭の中できちんと組み上がって、それを形にしている。組み入れた言葉が放出できている感覚。少し前まで当たり前にできていたするするとあれも書こうこれも書こうという止め処なさにはまだとても至らないし、まだ冷え切って凝り固まっているのは否めない。それでもいいや。少しずつ戻していったらいいし、少しずつまた前に進んでいけばいい。絵も自分の中で何かうまくいかないままだけれど、全部を一気にやることは難しい。まずは、通販の始まった「どこかの汽水域」をきちんと送り出すこと。有難いことに注文を何人かの方がしてくださったし、念のための確認も連絡がついた。梱包作業は慣れない作業だ。いろんな慣れないことをしている。それが大変で、でも楽しい。もっと書きたいけれども、昨晩またうまく寝付けず、起きるのが遅くなってしまったのでもうほとんど時間がない。次になんとかするべきは生活リズムを戻すことだ。
1月20日(水)の手作りの幸せ
習慣ってあっという間に風流れて消えていってしまうのかな、というくらい、ついこの間まで当たり前にやっていたことができない。朝早く起きてすぐに打鍵をして、ごはんを食べて、絵を描いて、それで出社して、帰ってきたらまた絵の続きを描いたりして、本を読んだりして、そうしたことがきっと大体身についたと思っていたら、瓦解したままなかなか戻らない。そういう今はまた夜で、朝の記録ではなくなっている。でも、夜に打鍵をしているというのはそれはそれで進歩、のような気もしている。一切の生産的な行動ができなかった頃を思うとまだましで、しかし果たしてこの日記文を生産的といっていいのかと問われれば首をひねる。それでも何かしらの文章を生み出しているという事実には一応間違いないからいいんじゃないかとも思っていて、そして文章を書き出すとなんだかんだどこか心が躍っていく。
一通りの発送準備を終えて発送をして、ここからはもうのんびり、だろう。たまに注文がくるかもしれないし、もうこれからは来ないかもしれない。一冊も売れてはいかないかもしれない。でも、ひとつ確実に言えることがあるとすれば、何人かの方がこの本を買ってくれたということで、一冊一冊、梱包して、そして発送して私の指の先から離れていった時に、ああ確実に離れていった私の手から、と感慨に耽った、というほどではなく、淡々と、慣れない発送作業にあたふたしながら流れ作業の要領で最後は離れていった。どこか、見えない人のところにいくんだなあ。それが不思議でたまらない。目に見える形で求められた人の場所に行くというのは初めての経験で、そこにはお金というハードルが存在した。お金という価値で定めることに戸惑いを覚えた。無料で無傷で様々な作品を読むことができる世で、そしてまた私も無料でずっと作品を提示していて、そうしてきた作品たちと、本にして値段をつけた作品たちとの間にはどのような差が生まれているのだろう。それは本、というこの形そのものに価値があるのかもしれない。本を作ること、それは大変だったけれども、楽しかったし、次は違うものを作ってみたい。そうして循環していく。
あなたの小説はそれでも趣味だと思うよ、と言われたことがあって、一人一人目に見える形、手に届く範囲での世界でこうした本のやりとりをしてわいわいとはしゃいでいると、そうなのかもしれないな、と思う。天才でも化け物でもないし、ただどこまでも平凡に生きているし、大した自信もないし、ふらふらと生きているばかりだし、未熟だし。
それはそうとして、やっぱり小説を書いていたくて、だから今日も明日も、小説を書いていよう。発送を終えて、ひとつの区切りがついたようで、空気が抜けたみたいにぼんやりとしている。少しずつ習慣を取り戻せていけるだろうか。ぼやぼやとしている間に一月が終わってしまう。怒濤の一月が。
この「どこかの汽水域」の自分の中での大きな価値は、手作りの幸せ、ということになるのだろう。本を作ったこと自体も、それを誰かが受け取ってくれるということも、そのために梱包するということも、全部。幸せを手作りしているのだろう。そしてその幸せがどういった形なのかは、当人にしかわからないことなのだから、手探りで幸せを模索していく他にないんだなあ。
小説を書こう。それで、ちょっとだけ本を読もう。休日が待ち遠しい。
1月21日(木)の反動
やっぱり朝の方が身体的にクリアで、ちょっとした、腰を屈めて物を拾うとかそういった日常的なことにおいても速度が明らかに違うような気がする。布団の中で目覚めた時は、身体を押しつけるような重みに驚いたものだったけれども。
ほんの少しでも小説を書こうと思って昨日書いたのはほんとうにちょっとだけで、一体小説ってどうやって書くんだっけな、と謎のことを思い、小説を読むことにした。思えば最近エッセイとか日記とかばかりを読んでいて、それはそれでその人それぞれの日常が、他人からはある種の小説のように思われるときもあるのだけれども、それでも小説で語られるものと小説以外で語られるものとは違っていて当然だった。小説は少し読むのにエネルギーを要する時がある、それは小説の重みにもよるだろうけれども。軽い小説と重い小説。昨晩はほんの最初だけを囓っていた「冬の日誌/ポール・オースター」の続きを読もうとして、そこまでの道のりをすっかり忘れていたので、結局一から読み進めようとして、ほとんど読み進められずに、眠たくて、本を閉じた。小説というよりも自伝的な作品なので、少し違ったのかもしれなかった。どうにも、読んでいる途中のものを読み進めたいという気持になる、それは焦りなのか。読みかけの小説だったら他にもあるのだから、そちらに移るかもしれない。読みかけの本が溜まっている。そのひとつひとつがこぼれおちていく。
なんでもかんでも目標を立てることが良いとは思わないけれども、自分の中で指針のようなものが崩れていって、それは朝起きて創作するとかそういった習慣が崩れているせいかもしれないけれども、これから何を作ろうかというのが今とても不透明になってしまっていて、文にしろ絵にしろあまりうまくいっていない。絵はたとえば模写をしたり、小説を読んだり映画を観たり、そうしたことをして楽しみたいような学んでいきたいようなインプットしたいような、そういう時のような気もしていて、それは「どこかの汽水域」の発送なり宣伝なり外側へ向けた発信に注力していたからかもしれない。今、それが一つ落ち着いたとみられるので、反動が起こっているのかもしれない。この一週間は似たようなことをずっと言っているような気がする。どうだったっけ。読み返していないからわかっていないけれど、今日、読み返したらずっと同じようなテンションで続いてるのではないのだろうか。
たいへん喜びます!本を読んで文にします。