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結婚というゆりかご

短編小説

◇◇◇


 惣一郎は、これで四通目のメールを、孫の玲奈から受け取った。


 おじいちゃん、元気?
 玲奈は元気だよ。
 でも今日は朝から最低な気分です。
 一階に下りたら父と母が喧嘩をしていました。
 原因はお向かいの笹森さんのお兄ちゃんが
 来月結婚するからです。
 それがどうしてうちの言い争いの
 原因になっているのかわかりません。
 朝食はミルクだけにして部屋に戻りました。
 土曜日で学校も休みなのにつまんないです。
 おじいちゃん、教えてください。
 結婚は人生の墓場ってどういう意味なの?
 またメール書くね。バイバイ

  玲奈より


 貼り替えたばかりの障子戸を通して、清潔な白い日差しが惣一郎の部屋に差し込んでいた。

 和室の隅に古くなった卓袱台を据え、その上に載せたノートパソコンに正座の姿勢で向かっていた惣一郎は、最後に署名された孫の名前を画面に認めると、顔中の皺を寄せて思いっきり目を細めた。メールが届いているのがわかったとき、惣一郎はいつも胸の高鳴りを覚える。日常においてこんな風に心が浮き立つことなど、完全な隠居生活に入ってから一年の間、およそ皆無に等しかった。しかし、一ヶ月前からパソコンでEメールを始めるようになってから、自分の生活が何か少しずつ変化してきたようだと、惣一郎は近頃感じるようになっていた。

 パソコンは、惣一郎が福引きで当てたものだ。今にして思えば冗談みたいな話なのだが、そもそもの始まりは、今年の正月、一緒に暮らしている息子夫婦とともに大型百貨店の初売りに出掛け、そこで生まれて初めて福袋というものを購入したことにあった。紳士服売り場で手に入れた二万円の福袋の中身は、惣一郎にふさわしい品は少なかったが、その代わり、福引き券が二枚入っていたのだ。

「おじいちゃん、引いてみましょうよ。ほら、早く早く」

 そう言って、急き立てるように惣一郎の袖を引っ張ったのは、息子の嫁の由紀子だった。しかしながら、惣一郎はくじというものが大の苦手だった。

「由紀子さん、あなたは知らないだろうが、私はくじ運のまったくない男なんだ。神社のおみくじも、私は一度だって小吉よりいいのを当てたことがない。何か憑いているのかも知れん」
「何を言っているの。せっかくおじいちゃんが頂いた福引きなんですから、これはおじいちゃんがやるべきです」
「おい、玄一、頼むからおまえが引いてくれ」

 惣一郎は、隣にいた息子に哀願するようにそう言ったが、結局由紀子に押し切られる形になり、気が付いたらいつの間にか催事場にある福引きの前に立たされていたのだった。

 何日かして、何故このとき、由紀子がこんなにも自分にくじを引かせたがったのか、惣一郎は考えてみた。結果的には、一等のノートパソコンが当たったわけだから、由紀子に霊感めいたものが働いたのかとも思ったが、惣一郎は後になって由紀子の一番下の弟である牧雄から、その理由を聞き出すことができた。どうやら由紀子には、独自の信仰があるらしいのだ。認知症の予防には積極的な社会参加と脳に適度な刺激を与えることが肝要である、という信仰。この「信仰」という言葉は牧雄が使った言葉で、惣一郎としてはいくらか大仰過ぎる言い方だとは思っているが、要するに年寄りが自分でできることは、周囲の者がそれを取り上げたり、代わりにやってあげたりせず、本人の自発性をできる限り優先してあげること。これらの心構えを、由紀子はずっと前から信念として持ち続けていたようなのだ。

 老人介護が家族にかける負担は、金銭の出費のみならず精神に与える苦労もたいへんなもので、それは惣一郎にもわかる。二代続いたとんかつ屋を息子の玄一に任せて完全に引退した去年から、いや、それよりも前、長く連れ添った妻が二年前に他界してから、惣一郎はぼんやりすることが多くなっていた。それを深刻な意味で最初に指摘してくれたのは由紀子だった。由紀子の信仰が、自分の認知症予防に少しでも役立つというのであれば、惣一郎とて協力を惜しむつもりはない。しかし、その効果がいかほどのものであるかはいささか疑念が生じるところではあった。

 何はともあれ、百貨店の催事場で福引きのハンドルを回すことが、由紀子の言うような社会参加に当たるのかはともかくとして、このときの惣一郎はそそのかされるままにくじを引いたのだった。その後、見たこともないような珍しい色の玉が飛び出し、続いて水色のはっぴを着た店員の「一等です! 一等が出ました!」と叫ぶ声、さらに重ねて、からんからんと鳴り響く鐘の音は、このときの惣一郎に十分過ぎる刺激を与えたことは間違いなかった。

◇◇

 この日、惣一郎の家には由紀子の弟の牧雄がいつものように遊びに来ていた。福引きで当たったパソコンも、使い方のわからない惣一郎には宝の持ち腐れになる。そこで一計を案じた由紀子が、パソコンの使い方を教える役目を牧雄に引き受けさせたのだ。

「まったく来るたんびに姉貴の小言を聞かされるんだから参っちゃうよ。やあ、おじさん、こんにちは」

 襖を開けて、牧雄はそう挨拶をした。幾分茶色に染めた長髪は、とても役所勤めをしている風には見えず、体型も細身である。今年で三十一歳になるが、甘い顔立ちと独り身の自由さから身につけた少し馴れ馴れしいしゃべり口調は、ちゃらちゃらした遊び人の印象をさらに助長させているようでもある。由紀子は、兄弟の中でも甘やかされて育った末の弟の、地に足が着いているようには見えない暮らしぶりを、日頃の行いから拡大解釈をして嘆くことが多かった。特に最近、牧雄が取っかえ引っかえ何人もの違う女の子を連れて歩いているらしいという噂を耳にしてからは、親兄弟や親戚の顔に泥を塗るようなことはするなと口が酸っぱくなるほど言い聞かせていた。その影響もあってか、今も牧雄は玄関先で「たまには手みやげのひとつくらい持ってきなさいよ、いい歳をして」という小言を由紀子にぶつけられていたのだ。

 惣一郎は最初の頃、コンピューターというものは、若い人でなければ扱えないものだと勝手に思い込んでいた。だが、牧雄に言われて実際、機械に触れてみると、パソコンは思っていたよりもずいぶんととっつきやすく、操作の仕方も一度覚えれば難しくないということがわかった。これは惣一郎の正直な感想であり、同時に驚きでもあった。そして、年寄り相手に嫌な顔ひとつせず、丁寧に何度も教えてくれる牧雄を、とても頼もしく思うようになった。率直で、飾ったところのない性格は以前から気に入っていたが、何よりも、惣一郎に対して遠慮なくものを言うので、一緒にいて楽しいのだ。

「毎日楽しそうにパソコンに向かっているみたい、なんて姉貴が言っていたけど、おじさん、そんなにハマってんの?」
「そうだよ、もちろんだ。今朝は玲奈からメールが届いた」

 惣一郎は、誇らしげに液晶画面を指さして見せた。

「小学生のメル友か。おじさんの守備範囲は広いんだなあ」
「ははは、馬鹿を言うんじゃない。玲奈は私の孫だぞ。千葉に嫁いだ下の娘の子だ」
「知ってますよ。冗談を言ったんです」

 そう言って肩を軽く小突いてくる牧雄に、惣一郎は玲奈が書いたメールの全文を見せた。

「ふーん、人生の墓場か……。なかなか深遠な問題に、玲奈ちゃんはぶつかってるんだなあ」
「けしからんな。気に入らない」
「玲奈ちゃんがですか?」

 意外だというような顔を向けてくる牧雄に、惣一郎は首を大きく横に振った。

「けしからんと言ったのは多恵と雅之さんにだ。子供の前で夫婦喧嘩をするなんて。玲奈が悲しんでるだろう」

 惣一郎は湯呑みに入ったお茶をぐいっと飲み干した。牧雄が液晶画面を食い入るように見つめ、ゆっくりと首を傾げる。

「でもこの文面だけじゃ喧嘩の原因まではわかんないなあ。何となくだけど、お向かいさんの結婚の話題から、どういうわけか雅之さんと多恵さんの間で結婚は人生の墓場だ、って話になり、それがどちらかの癇に障った……という流れかな」
「そういうことにいちいち突っかかるのは、多恵のやつに違いない」

 惣一郎は空になった湯呑みをもう一度あおった。

「いやいや、今のはぼくの勝手な推測なんだけどさ。でもおじさん、玲奈ちゃんに返事を書くんでしょ」

 もちろんだ、と答えようとした惣一郎だが、そこではたと気付いた。メールの最後にあった玲奈の質問のことだ。結婚は人生の墓場。小学生の女の子に向けて、この問いにどうやって答えたらいいものだろうか。

「いいなあ、おじさんのような人生のベテランともなれば、豊富な経験の中からぴっと答えを引き出して、玲奈ちゃんの悩み事なんかたちどころにぱぁーんと解決するくらいの返事を、簡単にぱぱっと書けちゃうんだろうなあ」

 牧雄はすっかりリラックスしたようにあぐらをかき、長い髪をかき上げながら、愛想のいい顔でそう言った。

「牧雄くんは、しかし、パーンとかポーンとか言いながら、年寄りの心をくすぐるのがうまいねえ。だが、それは買い被りだよ。私などただ馬齢を重ねただけで、見た目ほど人生のベテランなんかじゃない。それに、女性の扱いにも慣れていないよ。君ほどにはね」

 惣一郎は、自分の最後の一言によって、力が抜けたようにばたんと大袈裟に後ろに倒れていく牧雄を見てにやりと笑った。

「ちょ、ちょっとちょっとおじさん。それ、姉貴から聞いた話でしょう? 女の子を取っかえ引っかえ、とかなんとか。マジで誤解なんだよね。うーん、ま、いいんだけどさ」
「君はいいかも知れないが、世間は目で見える通りのことしか受け取らないぞ。いかがわしいことはしてないんだろう? 君に限って間違いはないと私は信じているけれども……」
「してない、してない。あの子たちとは全部仕事がらみで会ってるんですから。市場調査を手伝ってもらってるんです。参ったな。中には女子高生や女子中学生もいるからなあ」
「役人が市場調査なんてするのかね? 商売をしているわけでもないのに」

 ごく自然に浮かんだ疑問を惣一郎が口にすると、牧雄は「だからさー」と今にも泣きそうな顔になって頭を抱えた。

「おじさん、ほんと、頼みますって。市の観光を活性化させるためのトレンド調査ですよ。地元の若い子たちに協力してもらっているだけです。ときには各地に点在する美味しいと評判のお店や流行のスポットに同行をお願いして意見を聞くこともありますけど、そういうのも観光促進課の仕事なんですから。ああ、俺ってそんなに信用がないのかな。へこんじゃうなマジで」

 本気でうなだれている牧雄を見て、惣一郎は少し気の毒になった。思うに、この青年は見た目で得をし、同時に損もしているのであろう。色男然とした顔立ちも、洒落た身なりも、特定の女性層にはウケるだろうが、それ以外の人には軽薄さだけが目につき、要らぬ警戒心を抱かせてしまいかねない。派手なことをすればすぐに噂になり、悪い尾ひれがついて世間の口にのぼる。身内が心配し、あれこれうるさく注意するのも、言うなれば彼のことを信用しているからこそなのだが、助言のつもりでかけた言葉が、実際には彼を非難する言葉となんら変わりないことに遅まきながら惣一郎は気付いたのだった。

「由紀子さんは、本心から君のことを心配しているようだぞ。私が思うに、すべての原因は君がまだ身を固めていないことにあるな」

 惣一郎がそう言うと、牧雄は軽く溜め息をつき、そこなんだよね、とさらに深くうなだれた。

「こう見えても結構苦悩の人生を歩んでるんだけどな……。ねえ、おじさんは、今まで『結婚は人生の墓場だ』って思ったことある?」

 顔を上げた牧雄が唐突に質問をしてきた。惣一郎は和室の長押に飾ってある、和服姿の妻の遺影にちらりと目をやってから答えた。

「一度もない。私らの時代は、結婚によって失うものなんてなかったよ」
「ふーん。じゃあ、ここだけの話だけどさ、その間、浮気もしなかった?」
「はっはっは、妙なことを言うね」惣一郎は急に愉快になった。「誓ってもいいが私は一穴主義だよ、牧雄くん」

 いっけつ? と復唱してから急にその意味に気付いたらしく牧雄は突然げらげらと笑い出した。そんな彼につられて、惣一郎も声を出して笑った。

「一穴主義だなんておじさん、そんな下ネタをこのうちで言っちゃっていいの? 姉貴に聞こえたら、なんか言われちゃうんじゃない? いやらしいだとか下品だとか」
「構わない、これは私の信条だ」
「生涯、女性はひとりだけ、ってことだよね。なんか俺、おじさんを見る目が変わっちゃったな。めちゃくちゃ格好いい!」

 惣一郎は、いたって真面目な表情で話を続けた。

「主義というと大袈裟だがね。しかし、最初に妻を知ってからというもの、私は他に女性が欲しいとは終ぞ思わなかったよ。世の中には幸運なことに、何もかも自分にぴたりと合致する女性に一度目でめぐり逢い、その人を生涯の伴侶として迎え入れることのできた者がいるということだな。もちろん、私のような者は少数だ。大概はそんな風にうまくはいかない。何人か渡り歩いた末にようやくめぐり逢うことができればまだいい方で、運命の相手を取り違え、別の相手と結婚してしまうことも珍しくない。そうなるとその男は『本当の伴侶』を求めて結婚後も次から次へと女性を渉猟していくことになる。満足することのないまま、永遠にな」

 いつになく滑らかに口が回る惣一郎がそこまで話したとき、牧雄は長年の疑問が氷解したような顔で「それだ!」と膝を叩いた。

「おじさん、俺、たった今わかったよ。そうか、そういうことだったんだ」

 自分の言葉の何が触媒になったのかよくわからないが、突然悟ったような表情になっている牧雄を見て、惣一郎はいささか不安になった。何が「わかった」のか訊いてみたかったが、牧雄がいとまを告げて立ち上がったため、その機会を失ってしまった。今日はいい話を聞かせてもらった、おじさんありがとう、とそつのない挨拶を口にして帰っていく牧雄を、いつもより長く惣一郎は襖越しに見送ったのだった。

◇◇

 それから二日経った月曜日、惣一郎は今朝届いていたいつもより短い玲奈からのメールを読み、それから出掛ける支度をして電車で川向こうにある二駅先の総合病院へ向かった。そこには惣一郎と小学校の頃から付き合いのあるもっとも古い友人が、あばら骨を折ったことで先月から入院しているのだった。朝起きたら自然に折れてるんだぜ、歳は取りたくないねえ、と最初に見舞いに行ったときはベッドの上でしょぼくれた顔を見せていた彼だったが、先週訪ねたときは病室と同じ三階のフロアにある売店の前で、入院仲間たちと賑やかに談笑する姿を見かけている。というわけで、惣一郎は病室よりも先に売店の方に足を向けてみた。案の定、友人はそこで同年代と思われる寝巻き姿の二人のご婦人を相手に、にこやかな笑顔を見せておしゃべりに興じている最中だった。

 惣一郎を見付けて、片手を挙げながら近寄ってきた友人だったが、しかし、もう片方の腕は胸を庇うように体に引き寄せたまま、動かすことをしなかった。

「骨がヘチマみたいにスカスカになってるんだとよ」

 ベッドに戻った友人は、そう言って退院が長引いている理由を、無理に明るい声で語ってみせた。腕のいい彫金師の彼だったが、もう以前のような細かい細工は作れないだろうと本音を漏らした。

「これからは好きなことをやりながら、のんびり暮らせばいいさ」

 惣一郎は今の自分の暮らしぶりをなぞるように思い出し、友人にそんな慰めの言葉をかけた。しかし、本当はもう何年も前から友人が彫金の仕事ができなくなっていることを知っていた。惣一郎がまだとんかつ屋を仕切っていた頃、友人は自分の妻を連れてよく店に顔を見せていた。周囲をぱっと明るい雰囲気にする、その陽気で話し好きの彼の妻が癌で亡くなってから、彼の暮らしも彼自身も、すっかり変わってしまったようだった。ボートと競輪にのめり込み、これまでの蓄えのほとんどを散財したという話を、共通の飲み仲間から聞いている。わずかな年金と、ときどきレースで浮いたお金で、知り合いの立ち飲み屋に入り浸っていたのが、最近までの彼の姿だったようだ。

「のんびり暮らすのは、いい加減飽きたよ。あれだな、先に何もすることがないと、のんびりにもありがたみがなくなるな」

 友人はそう言って、首にかけていたタオルを外し、ぶっきらぼうに顔を丸く拭った。

「でも、前に君は話していたじゃないか。自分が育てた竹で釣り竿を作り、それを欲しがる物好きもいるからその売り上げで全国各地を巡って渓流釣りを楽しみたいって。実際やってみたらどうだい? それを聞いたときは、顔に似合わず夢のある話だと思ったけどな」

 友人はふふっと恥ずかしそうに笑い、顔に似合わねえは余計だよ、
と言いながら肩をすくめて首を振った。

「俺が好きなのは後にも先にも細工の仕事なんだよ。それが思うようにできないってことは、早いようだが、もう墓場の中に入っているのと変わらないんだ」

 はからずも友人の心中を知り、惣一郎は溜め息をついた。歳を取ることの何が寂しいかといえば、それは体の自由が利かなくなることであろう。我が身の衰えを痛感し、機械が錆びていくようにやがてこの体も動かなくなるのか、と暗澹とした思いに駆られることは惣一郎とて一度や二度ではない。しかし、見舞いで訪れた側が、ここで一緒になって落ち込むわけにはいかなかった。

「でも、君は社交がうまいからな。さっきもほら、色っぽい感じのあの二人と仲が良さそうだったじゃないか」
「へへ、あのばあさんたちかい。まあな。みんな退屈だから話し相手が欲しいんだろう。――おまえだってこのあと、また四階に寄ってくんだろう? ××子を目当てにさ」

 悪戯っぽい目で友人に顔を覗き込まれ、惣一郎は曖昧に微笑んだ。

◇◇

 病院を出た後、惣一郎は降りた駅には戻らず、空がぽっかりと開けている河川敷の方に向かって歩いた。このまま家まで歩いて帰るつもりは毛頭ないが、今はとにかく自分の足腰を使って歩きたい気分だった。こんもりとした土手が見え、その少し先に水色の鉄橋が見えてくると、河川が傍にあることを示す水の匂いが、惣一郎の嗅覚に触れた。ゆっくりと土手に上り、鉄橋のある川下に向かって歩くことにした。一駅分なら、いい散歩になるだろう。

 あれは先週、初めて友人の見舞いに行った日のことだ。三階と間違えて四階をうろついていた惣一郎は、そこで偶然に××子の名前を病室の名札に見付けたのだった。結婚して名字は変わっていたが、下の名前は珍しいものだったので、惣一郎はすぐに同じ小学校で自分より二級下にいた××子だと確信した。けれども懐かしいはずだった彼女の目の奥には、惣一郎にもわかるくらいに認知症の兆候が現れていたのである。

 ずっと秘密にしていたことだったが、××子は生涯で唯一、惣一郎が妻以外に関係を結んだことのある女性だった。一度でもいい、昔を懐かしんで話をしたかった。無駄とは思いながらも、病院に行けば必ず立ち寄って声をかけていた惣一郎だったが、今日だけは訪ねたことを後悔した。そこにいたのは粗相した自分の糞便を一心不乱に口の周りに塗りたくっている××子の姿だった。惣一郎は悲しい気持ちで看護師を呼びに行った。

 目を背けるべきではなかった、あれが現実なのだ。けれども墓場に入るよりあれは辛い現実ではないか。惣一郎は土手を歩きながら、次第に足を速めていった。

 時代はどんどん進んで、手紙は日を待たずに読めるようになった。それでも進んでいるのは技術で補える表層の部分だけのような気がしてならなかった。人間は見せたくないものには蓋をしてきた。その蓋を開けた中身は、まだ何も手つかずなのではないか。

 息が苦しくなり、惣一郎は土手を降りることにした。

 一昨日、何かを「わかった」と言って帰ってしまった牧雄は、役所の仕事が忙しいのか女性に忙しいのか、あれから姿を見せていない。
 そして、今朝届いた玲奈のメールにはこう書いてあった。

〈おじいちゃん、結婚は人生の墓場の意味がわかりました。だから返事はいらないよ。またね〉

 惣一郎は若い人がうらやましかった。自分は歳を取るほどいろんなことがわからなくなる。

(了)

第一話「人生という墓場」


四百字詰原稿用紙約23枚(8130字)


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