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秋谷りんこ『ナースの卯月に視えるもの』《砂に埋めた書架から》71冊目

 満床であっても、真夜中の病棟は静かだ。この特別な静寂を知っているのは、長期療養型病棟に勤務する看護師ならではなのかも知れない。物語の主人公卯月うづき咲笑さえは、早期に回復する見込みのない患者を受け入れる、長期療養型病棟の看護師である。一般病棟と違い、完治の困難な重症患者が多く、ここに入院したまま人生の終焉を迎える患者も少なくない。死亡退院率四十%という現実に日頃から向き合っている看護師たちにとっては、この真夜中の静けさに、通常とは違う雰囲気を感じているであろうことが想像されるのだ。

 この小説が、そんな病棟の静寂から始まっているのは印象的だ。深夜の見回りに向かったナースの卯月が、足音に気を付けながら病室を訪れ、就寝中の患者の容体に変化はないか、装着されている器具に異常はないかなど、たくさんの確認をしている間も、人工呼吸器の音が規則正しく響いていることでより静けさが強調されるこの巧みな書き出しは秀逸だ。

 秋谷りんこ『ナースの卯月に視えるもの』は、長期療養に特化した病棟に勤める看護師を語り手に据え、死を間近に控えた患者と日々接している、そんな若い看護師たちの奮闘を描いた仕事小説である。

 医療や看護で扱われる専門知識や用語、検温や血圧測定など毎日繰り返される地味だが大事な確認作業、患者の些細な変化を察知して迅速に対処するプロフェッショナルな仕事ぶりなど、看護の現場を伝える描写にはリアルな手触りがある。その一方で、この小説には読者を楽しませてくれる幻想的な「ミステリー」の装置が組み込まれている。それが、見事なバランスで仕事小説と両立しているところに、本書の魅力があるのだ。

 作者がこの作品に用意した、小説らしい装置。それは、この病棟に勤務する看護師卯月に備わっている特殊な能力である。彼女は、病床に就いている患者の「思い残し」が視えるのだ。

 他人には見えず、卯月だけに視える「思い残し」とはどんなものか。読者はまず、この奇想天外な設定に惹き付けられる。最初の登場シーンの描写には、その「思い残し」の特色が明確に刻みつけられている。

そこに見えたのは、ベッドの柵を握っている小さな白い手。大岡さんの顔を照らさないように気を付けながら、手の持ち主にそっと光を当てる。ベッドサイドに、十歳くらいの女の子が立っていた。

秋谷りんこ『ナースの卯月に視えるもの』p9 (文春文庫).

 深夜の見回りで、卯月は重症低血糖で意識を失っている五十歳の男性、大岡さんの部屋を訪れる。呼吸を確認するために懐中電灯で腹部を照らすが、このとき、少女の姿で出現した「思い残し」に遭遇するのだ。真夜中の病棟、しかも、消灯した部屋に子供が立っているのは通常考えにくい。そのことから、卯月はこれまでの経験もあって、この少女を大岡さんの「思い残し」だと判断する。

 私が注目したのは、懐中電灯の光を当てることで、少女の姿が暗がりから浮かび上がり、細部まではっきり視認できることを作者が具体的に示した点だ。それは、スクリーンに投影された二次元映像のようなものでもなく、自ら発光する人魂のようなものでもなく、日本の伝統的な幽霊のようにすぐに消えていなくなるかそけき存在としてでもない。卯月には、圧倒的な物質感を伴う形で「思い残し」が視えているということを、先に引用したわずか数行の登場シーンで明確に伝えているのである。

 私がわざわざこの場面を紹介したのも、この「思い残し」の造形に、インパクトを受けたからだ。

 卯月だけに視える「思い残し」は、その場にずっと静止したままだ。こちらから「触れたり交流したりはできない」し、向こうも卯月を「認識して」いる様子はない。本物の人間と違うのは、よく見るとわずかに体が透けていることだ。卯月本人も、なぜ自分だけに視えるのかわからない。正体を知ろうにも、訊ねたら答えてくれるような存在ではないのだ。だが、患者の心に引っかかるものを探り当て、思い残したものを解消することで、その患者は「安らかに闘病できる」ようになる……卯月は、看護師としての観点からもそう信じて、「思い残し」の究明に奔走するのである。

 仕事小説に、こういった超常的な要素を組み込むのは、結構勇気のいることだと思う。だが、読んでいて不思議と違和感は生じない。むしろ、この斬新なアプローチによって患者の見えなかった面に光が当たり、結果的に人間への深い理解をこの小説は導き出してくれるのだ。考えてみれば、患者の思い残しは、自分で体を自由に動かせない状態にあるからこそ発生する。この設定は、まさしく長期療養型病棟を舞台とするのにうってつけと言えるのだ。

 卯月は仕事が終わったあと、「思い残し」の手がかりを探すため、ときには患者が倒れた現場へ、ときには患者が働いていた職場へ、ときには患者がうわごとで呟いていた場所へと足を伸ばし、探偵さながらに調査を始める。すべては、患者たちの思い残しを解消するために。しかし、読み進むにつれて、これは卯月自身のためであることもわかってくる。この小説は、全六章で構成されており、作者がこの作品を通じて訴えたかったこと、書きたかったことが、すべての章にバランス良く配分されているのを私は感じたが、その中でもとりわけ重要なのは、「思い残し」が視えるようになるきっかけが語られている第三章だろう。この章には、かつて、卯月のルームメイトだった同期の三門千波みかどちなみや、いつも冷静で、仕事ぶりも真面目な新人ナースの本木あずさが物語の中心に置かれており、時間軸は違えども、この二人との関わりから卯月という一人の女性の内面が、深く掘り下げられているのを感じる。千波への感情に懊悩する現代的なテーマも通奏低音のように響いていて、まさに第三章は、全体のバランスが良いこの小説の重心を担っていると言えるのだ。

 この作品で小説家デビューを果たした秋谷りんこさんは、元看護師という経歴をお持ちだ。看護の現場を伝える説得力のある描写やディテールには、秋谷さんが培ってきたこれまでの経験が反映されているのは明らかだろう。作中に掲示される【現病歴】【既往歴】といった病状の説明が簡潔でわかりやすく、そこで扱われている専門用語も、あとから丁寧に説明を入れてくれるので読者としてありがたかった。患者への対応や処置の場面におけるリアリティは、経験に裏打ちされていなければ到底書けない世界だと思う。

 ところで、その仕事の場面と同量か、もしかすると、それを凌ぐくらいに字数を割いているのが、看護師が集まる休憩室や、仕事明けの回転寿司屋などのシーンだ。私はこれらの場面をたいへん楽しく拝読した。実はこちらの方がメインなのではないかというくらい、看護師たちが本音をさらけ出すリラックスした空間での会話には、興味深いものがあった。皆、仕事に悩みを抱え、それをお互いに打ち明けたり、聞いてあげたりしている。きっと、激務を乗り越える力というものは、こういう場で育まれるものなのかも知れない。

 この記事を書いている途中で、『ナースの卯月に視えるもの』が発売五日目で重版が決定したのを耳にした。note主催の「創作大賞2023」のお仕事小説部門で「別冊文藝春秋賞」を受賞してからおよそ七ヶ月が経ち、こうして書店に本が並んでいるのを目にするのは喜ばしい。noteで健筆をふるっていた秋谷さんが、ご自分の強みを生かした看護師小説でデビューできたのは本当に良かった。この作品が、多くの人に読まれることを心から祈っている。

2024/05/21


書籍 『ナースの卯月に視えるもの』秋谷りんこ 文春文庫

地元の本屋でこの表紙が目立っていた

◇◇◇◇


■追記■

 この記事がまだ完成していないうちに、二度目の重版が決定したというニュースが飛び込んできました。『ナースの卯月に視えるもの』は、発売から二週間もしないうちに三刷です。何というスピードでしょう。

 振り返れば、秋谷さんはnoteの企画に参加した際、作品を仕上げてくるときのスピードが速かった印象が私にはあります。加えて、多作。そのうえ、作品ひとつひとつの品質が高い。

 noteで以前から秋谷さんのフォロワーになっている方であれば、私と同じような印象を抱いている人も多いのではないでしょうか。

 最近になってのスピードに関する一番の驚きは、創作大賞の受賞時に約二五〇〇〇字だった原稿を、およそ二ヶ月の短期間で加筆修正を施し、最終的に一〇万字以上に作品をブラッシュアップしたというエピソードです。震撼しました。もちろん分量だけでなく、作品のクオリティも上がっていて、受賞時より遥かに面白くなっています。

 noteを始めた私が、秋谷さんのフォロワーになったのは、二〇二一年二月でした。どういう経緯からだったかは忘れてしまいましたが、最初に私の小説に秋谷さんからコメントを頂いたのが、交流を始めたきっかけだったと思います。私も秋谷さんの作品を拝読するようになり、文章の読みやすさ、作品の多さ、扱うジャンルの広さを知るにつれて、創作者としての実力を確信するようになりました。

 というわけで、せっかくの機会でもありますし、私が特に気に入っている秋谷りんこさんのnote小説を、思いつくままにいくつか紹介したいと思います。まだ『ナースの卯月に視えるもの』を読んでいない方で、どんな作品を書く作家なのか興味のある方がおりましたら、次に紹介する短編を試しに読んでみては如何でしょうか。

◇◇◇

『雨太郎の話』

 私が最初に秋谷さんにコメントした作品。衝撃でした。素直に上手いと思いました。初読から三年以上経っていますが、未だに忘れられません。傑作だと思います。


『ある青年の死』

 これも印象が強い作品でした。老夫婦の会話がとてもいいです。他の台詞も相当に考え抜かれていて、ある意味、技巧的な小説。読後の余韻がいつまでも残ってなかなか消えていかないところは、やはり傑作だからでしょう。


『赤い海』

 私はこの作品を、純文学だと思って拝読しました。多義的に解釈できるところ、鮮烈なイメージ、あえて筋らしい筋を設けないところ、忍び寄る背徳と官能。作風の広さを示すのにこの作品は適していると思います。非常に好みです。


『宵闇の月』

 秋谷りんこさんは、看護師の仕事小説だけではありません。『山矢探偵事務所シリーズ』の連作の中でも個人的に一番好きな作品をあげるなら私はこの『宵闇の月』です。何も知らない頃、シリーズとは思わずに『クロニック・デイズ』を初めて読んでひっくり返りました。予想外の展開と突きぬけた発想に心を撃ち抜かれたのです。このシリーズは、語りが一人称ですが、作品ごとに語り手を変えています。そういった趣向も楽しめるのです。いつかこのハードボイルド小説を、ブラッシュアップしてくれないものかと願っています。
『ナースの卯月に視えるもの』とは、何気に寿司屋繋がりだと今発見しました。




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