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はじめての旅立ち ―自己紹介に代えて―

夜行バスと新幹線を乗り継ぎ、とうとう、京都駅に着いてしまった。
あれほど求めていた「誰も知り合いのいない街での生活」がついに始まろうとしているのに、まだ現実味がなかった。
18年間生まれ育った地元を出発してからまだ24時間も経っていないのだから無理もない。

事前に携帯でルートを調べていた通りに、京都駅から大学方面行きのバスに乗り込む。大学近くの不動産屋に新居の鍵を受け取りに行くのだ。
バスを降り、学生向けの不動産屋に到着すると、40代半ばと思しき男性社員が出迎えてくれた。
「大変だったでしょう、新幹線は動いてましたか?」
― 東北新幹線は止まっているので東京までバスで移動し、東京から新幹線で来ました。
「ええ・・・それは大変でしたね。お姉さんは(一緒ではないの)?」
― 地元はこうこうこういう状況で、ひとりで来ました。
「・・・。そうかあ、大変でしたね。困ったことがあったら言ってくださいね。大家さんもすっごく優しい方なので安心してくださいね。ここのマンションは、くどうさんと同じ〇〇大学の学生さんがたくさんいてね・・・ここに署名してもらって、はいこれが鍵で・・・」



3週間前に東日本大震災が発生した。
生まれ育った青森の港町には、病を抱える母と、寒さと余震が残っていた。



進学先が確定したのは震災の後だったため身動きが取れず、埼玉に住む姉に京都まで出向いてもらい、家探しを代行してもらっていた。
不動産屋を後にし、姉からのおさがりのスーツケースをゴロゴロと引きずりながらまだ見ぬ我が家へと歩き出す。震災の影響で宅配便が送れなかったため、必要最低限の衣類と新品のノートパソコンが詰まったこのスーツケース1つだけが、今の私の持ち物だ。

15分ほどでマンションに到着すると、先ほど受け取ったばかりの鍵を使ってオートロックを解除し、階段で2階に上がる。205号室、小さなキッチンに8畳ほどの洋室。今日からここが私の家。
まだ家具の入っていない部屋は広く、とても寒かった。

ひとしきり新居の確認を済ませたら、次は大家さんへの挨拶に向かう。マンションのそばに建つ古い一軒家が大家さんの家だった。
事前に姉から聞いていた「京都の元気なおばちゃんって感じ」と、不動産屋からの「すっごく優しい」を掛け合わせて、はんなり言葉のそれでいて元気な優しいおばちゃん像を思い浮かべて階段を下りる。
呼び鈴を鳴らすと、「はぁーい!」という威勢の良い返事と足跡がきこえてくる。祖母よりは若そうだ。
ガラガラと横引きの玄関扉が開くと、そこには京都・・・というよりかは大阪?という風貌の、動物柄の服がよく似合う、元気で明るそうなおばちゃんが出てきた。えぇーっと、どちらさん?という声が漏れてきそうな表情はしているが、怖い顔はしていない。ひと安心。

ー 初めまして、205号室の工藤です、お世話になります。
とまずは一礼。
「あっらぁ~工藤さんね!大家の斎藤です。これからよろしくお願いしますね!来るの大変だったでしょう?どうやって来たん?地震大変やったねえ、何でも言うてね。このマンションの学生さんは~・・・・・」

すごい、さすが関西のおばちゃん。初っ端からめっちゃ喋る。

「荷物は?引越し大変やったやろ~?」
― 青森から京都への配送が出来なかったんでこっちで諸々買います。明日大学のオリエンテーションが終わったらニトリに行こうかと思ってて・・・
「え! それやったら今日どうやって寝るん?」
― 今日は服を下敷きにして眠ろうかと・・・
「あかんあかん!そんなん入学前に風邪ひくで!お布団貸したるからそれで寝えや、ええな?ええな?」

はいと言うまで帰してくれなさそうな気がしたのと、実際想定外に部屋が寒かったので、ありがたくお言葉に甘えることにした。
部屋に布団一式を運び込み、205号室の玄関で大家さんとお別れした。
ここにベッドを置いて~テレビはここでええかな?勉強机は要るん?大学生は要らんか~アハハと最後まで喋り通しだったが、元気で優しくて、とっても親切な関西のおばちゃんは、不安な気持ちを少しだけさらっていってくれた。


大家さんと別れた時点で夕方に差し掛かっていた。
調理用具や食材を買いに行くエネルギーは残っていないので近所のスーパーで適当に弁当を買って食べ、もちろんガスもまだ通っていないので大家さんに教えてもらった近所の銭湯で汗を流した。
長旅の疲れと自分の起きる能力への信用の無さから20時には電気を消して大家さんが貸してくれた布団にもぐりこんだ。明日は大学のオリエンテーション、絶対に寝坊できない。

瞼を閉じると、1日前に見たばかりの、乗り込んだ夜行バスの窓から見た母の顔が浮かんできた。頬には涙が伝い、口元はギュッと結ばれている。



私が高校一年のある夏の日、母はパニック発作を起こした。
力づくで連れて行った病院でそのまま入院措置が取られ、その後双極性障害(躁うつ病)と診断された。

病気を正しく理解することができなかった私は、精神病患者になってしまった母のことが恥ずかしくて情けなくてたまらなかった。
好きだった母はどこかに消え去ってしまった気がして、もう母とは呼べなかった。心の中でさえも。
3年間、ずっと怒っていたし、悲しかったし、苦しかった。

「誰も知り合いのいない街での生活」を目指したのはこのためだ。
大学進学は、苦しくて惨めでどうしようもなく悲しい日々から脱出し、自分を変えるための手段だった。



しかし、結局のところ、新しい人生のはじまりを前にして思い出すのは、雪のように白く小柄な母の姿だった。

 泣いてたな、あの人。
 また余震で震えてパニックになっているのかな。
 パニックになって、親戚に白い目で見られて、怒られてないかな。
 病気の親を置いて逃げて、薄情な人間だな、私。
 こんな最低な人間に布団を貸してくれる大家さん、優しい人だな。
 大家さん、すごいニコニコしてたな。
 あの人も昔はよく笑ってたな。
 もうあの笑顔は戻ってこないんだろうな。
 戻ってこないんだよなあーー

スーツケースに入れて持ってきた、幼稚園生の頃から使っている黄色い象柄のバスタオルがビショビショになるまで泣いて、泣き疲れて眠りに落ちた。
大家さんが貸してくれた、あたたかい布団の中で。

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「はじめて」の記憶は鮮やかだ。
はじめての海外旅行、はじめての恋、はじめての東京、色んなはじめてがあるが、ちょうど10年前の出来事である「はじめての旅立ち」についての記憶をたどることにした。
あの頃の私はボロボロで、実のところ高校時代の記憶は曖昧な部分が多く、普段は高校の友人と話してても話についていけないことが多い(なんとなくそんなことあった気がする風を醸し出してしまうけど)のだが、思い出してみると意外にも細部まで思い出されて、結構な驚きだった。
不動産屋の男性社員の顔を覚えているのには笑ってしまった。

大学のオリエンテーションには腫れぼったい瞼で参加したけれど、なんとか友人はできた。京都の大学において、「青森から来ました」はパワーワードであり、最強のコミュニケーションツールなのだ。


10年前と今の自分を比べてみると、まったく変わった部分もあるし、そっくりそのまま変わっていない部分もある。
例えば、毎日土砂降りのような気持ちの中で生きていたあの頃と違って、今はできるだけポジティブな気持ちで日々を過ごすための工夫の仕方を身に着け、日々の暮らしを大切にしている。
一方で、ナイーヴで気にしいで、他人の言葉や表情に敏感なところは今もそのままだ。

10年間、ほとんどの時間をインプットのために費やしてきたように思う。
おかげでたいていの料理は作れるような気がするし、大学1年まで人差し指でタイピングしていたこの手でシステム開発の仕事をしている。
多くの土地で様々な景色を目にし、それに紐づく感情も経験した。
しかし、今も病気と闘っている母の姿を見て、ふと思ったのだ。
そろそろアウトプットを始めてみようかな、と。

記憶があって、それを自分の言葉で語れるということは、当たり前なんかじゃない。
素晴らしいことだ。
自分自身のためにもそうだし、その言葉を欲している誰かのためにもそうなのだ。

だから、アウトプットを始めることにした。
自他共に認める3日坊主の私だが、深く考えずにはじめてのnoteを楽しんでみたい。

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