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心臓病になりたかった君へ


私は物心つく前に母を亡くした。幼い私は、幼心に自分がふつーじゃないことを憂いていた。
同級生の家には母親がいて、授業参観にも母親が来ていて、習い事のお迎えに母親が来ている。

小学校低学年の頃、母の日だか授業参観だかに合わせた図工の授業で「母親の似顔絵」を書くことがあった。母親がいない私は、悲しくて、虚しくて、ふつーじゃない自分が嫌で嫌で仕方なかった。先生に「僕はお母さんいないよ。」と言うと、「おばあちゃんでもいいよ。」と先生は言った。なんで私だけ、母親の絵を描けないのか。それがわからなくて、だけど死んだ母の絵を描くのも違う気がして、結局祖母の絵を描いたことを覚えている。

私は幼少期から母の話を沢山聞いてきた。チーズ狂だったとか、私の名付け親なのに年賀状で漢字を間違えるお茶目さんだったとか、この料理のレシピは母から教わっただとか、お酒を飲むとすぐ真っ赤になっただとか、昔はこのアパートに住んでいただとか、このイルミネーションは私が母のお腹の中にいた時にも見にきていただとか、オープンのスポーツカーを運転してただとか、安物を買うより良いものを買って長持ちさせたい派だったとか。だから脳内に想像する母の像は比較的明瞭だったと思う。そして、お墓参りも仏壇に手を合わせることも頻繁だったから、母が確かに存在したことと、死という概念の理解が早い子だったように思う。

だからこそ、私は泣いた。アルバムに残る母を見て。小学校6年生の時に1度だけ見せてもらった、母のまだ生きていた時の肉声の残っている動画を見て。高校生の頃に見つけた母子手帳の母の字を見て。夢の中に生きている母が出てきて。幾ら理解していても、母という存在への実感が希薄だった私は、確かに母を感じたとき、溢れんばかりの涙を落とした。

私は母がいないことで、幼い私は自分が何者かとても悩んでいた。自己同一性が欠如していた。幾ら親戚から母の話を聞いても、その母はもういないし、結ぶ像はそれでも曖昧だった。だから、母との共通点を見つけることが好きだった。

母は生まれついて心臓に病を抱えていた。そして、私が生後半年の頃だ。深夜に急死した。享年33。その命は燃え尽きた。

勿論私も心臓の検査を受けていたそうだ。私は検査の結果、遺伝もせず、心臓になんの問題も抱えていなかった。ある時、幼い私が「僕は心臓病じゃないの?」と父に聞いた時に「大丈夫だよ。ちゃんと検査したよ。」と、一言。それが、何故か少し悲しかった。今ならその理由はすぐにわかる。

本当は、心臓病の一つくらい、母とお揃いにしてほしかった。そう思っていた。質問をされた父は私が死を恐れているのではないかと、そう思ったかもしれない。だが、違う。私は確かな母との繋がりが欲しかったのだ。

私は、ある時は母を恨んだ。私をおいて死んでいったことを。ある時は感謝した。この世に自分の命を賭して、健康に産み落としてくれたことを。そして、自分のことも恨んだ。アルバムに写る赤子の自分は無知で、無力で、母が死んだのに笑っていた。何も理解せずに、だ。写真に写る周囲の人間もまた、笑っていた。撮影していた父の顔だけはわからない。



私は、成人後も「本当は母親が生きていて、家族仲良くしている世界線」の夢を見る。その夢は全て繋がっていて、物語は進展していく。そんな夢を続けて見てしまうものだから、私は本当にそんな世界が存在するんじゃないだろうかと、非現実的な妄想を度々している。だが、もしかしたら順番は逆なのかもしれない。

私は幼い頃から、母はまだ生きているのではないかと、最初から心の奥底で思い続けていたのだろう。だから、そんな夢を見てしまうのだ。願い続けているのだ。だから、それが形となって夢を見る。リアルな夢を見るときは、大抵願わなかった願望が、叶った世界だ。

しかし、一度も、私が心臓病を持って産まれた夢は見たことがない。多分、見たとしてももう覚えていない。多分、そういうことなのだろう。

この文章を彼に贈る。
心臓病になりたかった君へ。


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