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やらないと嫌になっちゃうから
「やらないと嫌になっちゃうから。」
もつすぐ70歳になろうかという母の口ぐせで、還暦を過ぎたあたりからよく耳にするようになった。
年に何度か、私は夫と子供たちを連れて隣県にある実家に泊まりで帰省することがある。
実家は観光地の近くにあり、夫も子供たちも大変楽しみにしてくれてはいるのだけれど、両親の負担になってはいけない。
準備なども大変だろうから、たまには近くにある旅館に泊まろうかと言うと、母は必ずこう返す。
「うちは大丈夫だから、泊まりにおいで。それに、やらないと嫌になっちゃうから。」
実家には私以外の親族が遠方から泊まりにくることも年に数回あり、母はパートで毎日ではないものの仕事もしている。それに関して負担はないのか周囲に聞かれると、やはり同じように返すらしい。
「やらないと嫌になっちゃうから。」
仕事も親族との付き合いも、一度やめてしまうと再び始めるのが億劫になってしまう。だから、細々とでも続けて、習慣として自分の日常に残しておく。
そういう意味らしい。
同じくらいの年齢の母の友人には、仕事や孫の世話から一度遠のいてしまったきり、もう出来なくなってしまった人がたくさんいるらしい。
再びやりたい、できるかもと思ったとしても、体力面の不安や精神的な負担、面倒くささなど、様々なハードルをこえてそこにまた飛び込んでゆくのはとても難しいことだという。普段からそういう話を聞いている母は、この言葉を肝に銘じているそうだ。
そうか、歳を重ねるとそうなってくるのか。
と、
私はまだまだ遠いこととして他人事のように聞いていたのだけれど、ここ数年でその言葉を染みるほど実感した。
コロナ禍で妊娠出産をした私は、公共の交通機関はなるべく使わないよう車で移動し、大好きだった旅行も控えた。出産前にパートも辞めていたし、普段から電車には乗らない生活をしていたので、特に問題はなかった。
無事に出産を終えたのは各企業がリモートワークなどを手探りをしながら始めた中で、どんどん状況が変わる毎日。仕事も、自分に何ができるのかよく考えて落ち着いてから探そうと思っていた。友人たちはみな遠方に住んでおり、約束をしては第○波がきたからと延期になるのが常、そんな感じで毎日が過ぎた。
そして何年かがすぎて今年の冬、用事で少し先の駅まで電車で行くことになったとき、全く気の進まない自分がいた。
単純にもう、面倒くさかった。
私はどうしてしまったんだろう、あんなに移動や旅が好きだったのに。小さい子供もいたしインフルエンザも流行っていたので感染対策が必要だとかそういうこともあったけれど、ICカードをチャージするのも長い階段を上り下りするのも、すべてが億劫に感じた。
ため息をつく私の隣で、仕事で毎日電車に乗る夫は何でもないことのようにこなしていたから、たぶん習慣の問題なのだ。
しかし、
面倒だなと思いながら電車に乗って出かけると車窓から見える景色は美しく、規則的なリズムの揺れは心地よかった。このままどこまでも行ってしまえそうだと思えた。
やってみたら何ということはなく、けれど、やってみるまでの面倒な気持ちや気の進まなさは今まで感じたことのないものだった。
きっと仕事を始めることや、友人と会うこともそうなのだろう。まさか、楽しいと思っていたことがたった数年で面倒なことに変わってしまうとは思わなかった。習慣を再び始めることは、こんなにもエネルギーが要ることだとは。
少しずつ日常の戻りつつある暮らしの中で、私はこれから、それらのものを取り戻していかなければならない。きっと放っておいたらいつまでもそのままで、どんどんいろいろなものから遠ざかって、最終的には引きこもってしまうのだ。
これが母の言う、
「やらないと嫌になっちゃうから」
か、と打ちのめされた思いだった。
かつて私は、この言葉を少しネガティブな意味で捉えていた。
そんなに気が進まないけど、先々はもっとそうなるから少しでも歯止めをかけたくて。
というような。
でも今は、少し違う。
やめるのはいつでも出来る、それはたやすい。でも、その習慣の先には少しだけ楽しいことが待っているかもしれない、人生に新しい道が開くことがあるかもしれない。その可能性を信じていたい。手の中に残しておきたい。
そういう風に聞こえる。