未発表の小説「無明」からの一部抜粋
私が書いた未発表の小説「無明」からの一部抜粋です。
又、これは私自身の考察でもあります。
「……近代人から現代に至るまでの個人の陥った悲劇は思考の不徹底にある。所謂悟性的思考の限界が即個人の限界であるとは単に心情にのみに関る問題にすぎない。悟性的思考による観念は自己を保持する為の精神衛生上としての一種のニヒリストを造り出し、自らそれを演じる。
つまり、相対主義という衣装を身に纏う事によって他者や自らにも距離を置き、壊れやすい繊細な神経を防御する。さらに言えば、この自己欺瞞は自己感情の自制力の幼稚さに基づいた臆病さの裏返しである。その意識状態が一般に科学的合理性と呼ばれている実体でもある。さらにその己自身の足場を冷徹な批評精神は自ら解体する。その結果、自己は自ら感覚界の足場を喪失して方向性そのものを失う。究極的な生存の自己否定は即、死である。ここに個人の生存に対する論理的自己矛盾が生じる。
人間の個人が所有する既知概念に対して、一切の価値転換を企てたニーチェの超越者に対する否定精神は現実の世界に対する弱者の心理の核と分析した。だが、逆も又、真なのである。この相対的思考の意識状態、観念に彼は呪縛された。否定も肯定も無い意識は思考停止せざるを得ない。だが、自己という対象は依然として存在する。この存在の自己矛盾が足場と化して無限に繰り返す観念的二元論となれば思考自体が空転する。常に自らも他の事物としての対象として在る限り、自らの土台を形成する土台自体が相対化される。ここに心情が絡まれば狂気は自明である。
やがて、自己意識の乱心は拠って立つ足場として自然の摂理である獣の本性の一つである権力の意志という概念に容易に引き付けられる。これも人間が観念上、作り上げた自己保存の一概念にすぎない。己自身が自ら否定した、あまりにも人間的なものの範疇以上でも以下でもない。
その方向性のない獸の本性に似た抽象的相対意識の土台には唯物論が潜んでいる。この思想とも言えぬ幼稚な意志の発見は論理の整合性を具えているかのような錯覚を生じさせる。だが、これは自然科学に依拠する一考察であって厳密な思考による人間生存を支える思想とはなり得ない。だが、そこから個々人の軟弱な連中は我が意を得たり、とばかりに実体の無い亜流を生み出す。その代表的な哲学概念が不条理という矛盾を含む、実体なき歪んだ言葉である。いわゆる実存主義とは物神思想の異名である。衣食住に基づく世界観においてのみ役に立つにすぎぬ。
ましてや不条理自体はこの世には存在しない。単に混乱した思考の結果生じたこじつけの結論にすぎない。単なる一概念、一視点のものの見方にすぎない。この近代と言う個人の思考の錯乱から生じた不条理とは生存自体が『無意味が意味』である、という事を指す。その無意味が意味であると言うのが小賢しい知識人の常識となり、意志の方向性の喪失がこれ以降急速に蔓延した。人生自体が無意味な生であれば何をしようが個人の勝手である。これが自由という概念と結びつくとそこに精神の堕落、怠惰が生じる。これは自明の事である。
個人の個人による精神的自立。その探求としての方法として、無意識の意識化、自覚の徹底による苦悩と実験。さらに歩を進めれば関係の純粋な関係自体が表現の主体となる。これが抽象表現の探求と意味の因果関係である。
だが、その前に表現の一つとして半端なシュール・レアリストの発想、表現が生まれた。フロイトやブルトンらの如き浅はか単純愚劣な考察、この泥沼的観念想念の戯れは伝染病のごとく広まった。単なる一実験が本流と支流との区別すら付かぬ錯覚が生じた。基準が無いのが基準となった。その後の抽象表現に至っては方向性の喪失以上でも以下でもない。いわゆる、何もかもがごっちゃにされたのである。抽象表現に至った作家自体が何故『抽象表現形式』が生じる必然性があったのか、という自覚が全くないのである。
これは哲学とて例外では無い。知的錯乱が常識となったのである。
無意識の自覚化とは、聞こえは良いが本来の目的が曖昧かつすでに砂上の楼閣を土台とした危険な視点であった。かの格言『深淵を覗く者が深淵と化す』である。それも混乱と錯乱の区別も付かぬ泥沼へと落ちた事すら気が付かぬ状態にあり、さらには一切の尺度も無くして如何なる判断が下せるのか!それこそ乱心の極みである。
――全ての近代人の悲喜劇は、この悲惨な状況の厳密さに欠けた思考による批評意識の毒に由来する。しかもその毒は現代でも依然と続いていて、すでに麻痺状態にある。この状態からいかに脱するかが、我々の課題であろう。だが、後戻りは何人も許されぬ。さらには、単に無私の精神とは表現の前提にすぎず、さらなる不屈の意志と苛烈な情熱が不可欠である…」