「死」とは。死の淵から生還して感じたこと
「死」と「生」・・・
病気になってすぐのころは必死になってサバイブしていた事もあり、「死」に関して何も考えることはありませんでした。
転院し、自分の身体が不自由になっていることを思い知らされてから、「死」と「生」に関することを考え始めました。
「死」は呆気ないことなのかもしれない
朝目覚めて突然身体が不自由になったように、死も突然やって来るのだろうなとボンヤリ考えたことはあります。
ERに到着後、スッと意識が遠のいて運よく翌日、翌々日に目が覚めたけれど、あのまま意識が戻らなければ私は旅立っていたのだろうと感じます。
よく幽体離脱の話を聞きますよね?実は一瞬だけ私も体験しました。
自分を上から見下ろしているという形ではなく、私は斜め後ろから私自身の後ろ姿と、今まさに私の長い髪の毛をバッサリ切ろうとしている赤い聴診器の看護師さんの後ろ姿を見ていました。
髪の毛を切られた直後、見ていた私の意識が飛びました。元に戻ったのかな。って。
それを考えると、「死」とは案外呆気なくやって来るのかもしれない。そんな気がします。
後日談ですが、赤い聴診器の看護師さんは存在したし、彼女の髪型、髪をバッサリ切ったことまで一致したので、本当に抜け出でてしたのだろうと、身内でちょっとした騒ぎになったぐらいでした。
「生」は辛く悲しいことなのかもしれない
「生きること」は素晴らしいこと、それは正解でしょう。
若い時に事故で亡くなりました、病気で亡くなりました。楽しいこと、幸せなことを知らずして命を失ってしまう。
それは不幸だと、そう決めつけることもアリでしょう。
でも、「生き抜くこと」は容易ではない、そう思います。
私は中途半端に障害を持ち生還しました。
「命が助かっただけでも良かった。」と人は言います。うん、それ正解。
大正解だけれども、私にとっては「不正解」だと当時は感じていました。
このnoteを最初から読んでくださっている方はご存じだと思いますが、障害を持った時点で私は死にました。それでも生きている、生きる屍、ゾンビになった気分です。
もちろんもっと重篤で、もっと辛い病気で苦しんでいる方は五万といます。
けれど、人間誰しも自分が可愛いので、独りよがりに考えがちです。
「なぜあのまま死なせてはくれなかったのか!」と父母に言い放つ
子が大病した後に、看病している親がこの言葉を言われたら立つ瀬もないし、大ショックですよね。ええ、ええ、言っちゃいましたよ、私は。
病気になった1年目は、死ぬことばかり考えていました。
大学にも行けて、友達もちょくちょくお見舞いに来てくれ、病院でも若者の代表者的なポジションだったから楽しい入院生活を送っていました。
けれど、外面だけは良くて、私の心の中はどす黒かったです。
だからまあ、世話をしてくれている母と2人きりになったら、暴言ばかり吐いていましたね。感謝の言葉なんて言えなかった。
そして「なぜあのまま死なせてくれなかったのか!」と言い放った時、当然両親はショックを受けていました。
暫くして父が「残された身にもなってみろ。」と絞り出すような声で言ったことが記憶として残っています。
「死にたかったら勝手に死ね。でも、残された人間の気持ちを考えろ。」
と瞬時に伝わって来たので、これ以上何も言えませんでした。
それでも、病気になった本人じゃないのだから、死を望んでしまう気持ちなんて分からないだろうと今も昔も思っています。
けれど、生きたいと願って死んでしまった人が身近にいたので、私は贅沢者だったのだろうかと自問自答を繰り返して来ました。
生は辛い、死は簡単。だけれども。。。
結果的にサバイバーとして適応者だったわけですが、「生き抜くこと」は簡単なようで難しく辛い。
死は怖い。でも、死を選択すれば、そこで苦しみからは解放されるけれど全てが終了してしまう。
どちらが良いのか。。。分かりません。
でも、20数年経った今、こうやってnoteで下手な文章をお届けしているということは、「生きること」「生き抜くこと」を選択し、生きる喜びを享受できたという結果。
色んな後悔はあります、悔しい思いを何度もしてきました。でも、死を選ぶことをしなくて大正解だったと感じます。
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