親愛と礼儀と傍観者

 親しき中にも礼儀あり。
 礼儀があるから愛がある。
 だから礼儀のない人は、例外なく全員愛のない悪人だと思っている。
 礼儀と言っても、大層なものを求めているわけではない。
 ただ、ただ少し会話の中に、付き合いの中に相手を思いやる気持ちがほしい。
 いや、正確には私を思いやってほしい。
 そうでなければ、そこに存在している私は、ただの人間になってしまう。替えのきくただの棒人間。誰にでも同じに映るそれは、果たして価値があるのだろうか?
 価値がほしいだ。
 だから、私は頼み事を断れない。
 仕事にしてもそうだし、飲み会の誘いにしてもそうだ。気持ちの中でやりたくない、いきたくないと思っていたとしても、私は口の自分の気持ちとは裏腹に、元気よく返事をする。まるで別人が口の中に住んでいるみたいに、心と体は裏腹だった。
 やりたくない。いや、明らかに自分の仕事ではない雑用をやって、いきたくもない飲み会から帰ってきた時、疲弊した心は、死を意識し始める。
 いや、ここでも心と体は裏腹。
 心はもう死んでいる。
 それなのに、体は生きていえる。
 なぜ?
 夜寝て、朝起きると、そこには新しい日々の始まりを知らせるあかりが存在する。
 それは、何かを救うあかりだったはず。
 誰かの味方になるはずの存在……。
 関わる人全員が、私の人生の傍観者だ。
 誰も、私の物語に入ってきてはくれない。
 そして、私もまた誰かの物語の傍観者でしかない。
 誰かを救ったことも、
 誰かに救われたこともない。
 そして、それはこの先もそうだという確信と、絶望がある。
 馬鹿みたいな思考だろう。
 だが、馬鹿にできないからこそ、私は今日も愛を求めて生きていく。
 だけど、私は知っている。
 私の愛と、他人の愛は違う。
 私が求める愛は、親愛には、礼儀が存在する。
 果たして、死ぬまでに、それに出会うことはあるのだろうか?
 もし出会うことができたとしたなら、私はそれに礼儀を持って対応したいと思う。

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