見出し画像

僕のニシャ #5【連載小説】

 この物語はフィクションです。実在するあらゆる個人・団体・学校・組織および事件・事象などとは一切関係ありません。
 また、この作品は2015年にKDP・Amazonで電子出版された作品に読みやすくするため改行や若干の言葉の変更などを加え、分割して順次掲載する予定のものです。以前の電子書籍版とストーリーにおいて変更はありません。
 途中からお読みの方、#1(第一話)はこちら↓です。


 

 僕は、はっと我に返って、きょろきょろと周りを見渡した。誰もいなかった。自分への質問だろうと判断できたけれど、僕は応えられなかった。ニシャは、家を見詰め続けていた。

「神様って信じる?」

 もう一度、ニシャが訊いた。僕は、こちらを見てもいない相手に、自信なさげに首を振ってみせた。それが見えたのかどうなのか、ニシャは続けた。

「神様って、よっぽどのマヌケか、相当性格の面倒くさいヤツだと思う。全知全能の筈なのに、不完全な人間を作った。ヘビにそそのかされたくらいで、堕落するような。全知全能なのよ。そんなことわかってなきゃいけないじゃない? そうならないように作れるはずだったし、そんな機能やら器官を作るべきじゃなかった。それがあることで、何が起こるかくらいわかっていなきゃ、全知全能とは言えないでしょう? 自分のミスを棚に上げて、追放したり、その子孫に生け贄を求めて忠誠を確認したり、思い通りにならないからって、ぶっ壊したり。その上自分が作ったものに未練たらたらで、本当には全滅させたりしないし。とても完璧な存在だなんて、言えないとわたしは思う。だから、神様は全知全能じゃない。ただの、マヌケで、しかも性格が面倒くさいヤツ」

 僕は、ニシャが何を言っているのかわからなかった。何故そんな話をするのかも、理解できなかった。ただ、見ているかどうかすら怪しまれる頷きを小さく返すことしかできなかった。

 ニシャは、少し、身体を動かした。それだけのことが、まるで大事件でも起きたかのように、僕を緊張させた。

「もしくは、本当に全知全能だとして、この不完全さが意図通りだったとしたら……」

 ニシャは、人差し指を立てた。

「そいつは、もう完全に頭がおかしい」

 あらゆる言葉や物語を破壊するような微笑みが、いつのまにかそこにあって、僕を見詰めていた。例外なく、僕のソレも、粉々になった。ただ呆然と、僕は立ちすくんでいた。

 なあんてね、とニシャは呟くと、すっと足を前に出し、家の扉の前へと立った。僕はそれでも動けなかった。

「君は、目がキレイだね」

 ニシャがそう言った。僕の手が何気なく目に動いた。自分には見えないものだった。どう反応していいかわからなかった。だから、その背中を僕は見続けていた。ふっと息を吐いたようにニシャの肩が動いた。

 ただいま、とニシャは言った。誰に言ったかわからなかった。

 でも、僕は、おかえり、と言ってみるしかなかった。

 その後ろ姿が、どうにも泣いていたような気がして、その晩僕はなかなか眠りに就くことができなかった。気付くと、夜遅く帰ってきた父親が、吐きながらうめいていた。僕は心配になって、階下に降り、トイレの前に立った。

「大丈夫?」
「……う、うう」
 父はへたりこみ、便器の中に顔を突っ込んで、胃液すら出なくなっても嘔吐を繰り返した。僕は背中をさすった。父は苛立たしげにそれを払った。

 父は酒の強いひとではない。それでも、いつもはこんな風になることなどない。僕に想像できるのは、自分が隣の家について、余計なことを言ったからだ、ということくらいだった。

 ごめん、と声が出た。

 父が便器の中で何か言った。俺は、俺は……と繰り返した後に続くはずだった言葉は、空っぽの嘔吐で消えた。僕はそんな父をどうしていいのかわからず、そのまま部屋に戻った。

 許さない、だったろうか、悔しい、だったろうか、寂しい、だったろうか、ぼんやりそんなことを考えているうちに、僕はいつのまにか眠っていた。




 翌朝、父は朝食を食べずに家を出た。残ったおかずにラップをして冷蔵庫に収め、使わなかった茶碗を食器棚に戻して、僕も家を出た。

 その日は、家の前に誰もいなかった。いつものことなのに、なんだか物足りなかった。ニシャと登校が重なるのを期待したか? そこでいかにも幼なじみらしい会話が為され、一気に距離が近づくのを望んだんじゃないか? 

 イエス、だ。今ならそう言える。

 強がりや見栄やかっこつけが、当時の僕の心に除去しがたくあったとしても、天秤がそちらに傾いていたことは間違いがない。

 だから、角を曲がり、前日と同じように電柱に凭れて少女がいた時――少女しかいなかった時――僕は落胆の溜息が出そうになるのをすんでで堪えることしかできなかった。花菜は言った。

「やっぱり、あった」
「うん」

 花菜は僕の横にすっと並んで歩き出した。僕は一応気を遣って、彼女の速度に合わせることにした。花菜は僕の顔も見ずに俯いたままだった。

「知らないひとが来た」
「うん」
「お姉ちゃんなんだって」
「うん」
「知らないひとなのに」
「うん」
「ごはん一緒に食べてた」
「うん」
「知ってた?」
「何を?」
「あのひと」
「昔ね。まさか戻ってくるとは思ってなかったけど」
「どんなひと?」

 僕は考えた。そして、思った以上に、ニシャがどんな人間なのか、まったくと言っていいほど憶えていないし、知らないことに驚いた。どんなひと? と花菜はじれったそうにまた訊いた。

「そうだなあ……ああいうひとだよ」
「わかんないよ、それじゃ」
「ごめん、僕もわからない」
「そう」
「うん」
「……パパはすごく嬉しそうだし、ママは何か怖い顔してる」
「うん」
「部屋、変えられる」
「うん?」
「全部、あのひとのものだったんだって」

 ああ、あのまま使わせてたのか、と子供の頃には随分と慣れ親しんだ部屋を僕はイメージした。

 いかにも大人が女の子に与えそうな、可愛らしい部屋。

 何だか甘いミルクみたいな匂いがしたけれど、あれはニシャの匂いだったんだろうか。僕はなんだか猛烈にあの匂いを嗅ぎたいと思った。

 花菜が知らぬ間に僕を見ていた。疚しい気分になった。ははは、と僕は笑った。花菜が眉をしかめたせいで、それが間違った反応だったと僕も神妙な顔に戻った。

 確かに、ベッドも棚もクローゼットも全部捨てて新しいモノに入れ替えるのは不経済だったかもしれないけれど、こうなってみればデリカシーに欠けているようにも思えた。章雄さんらしいと言えば、その通りだった。でも、この子の父親を非難するようなことは言いたくなかった。自然、口は開かなかった。

「ママはすごく怒ってて」
「ん?」
「あのひともいらないって言ってて」
「うん」
「でも、パパはそうするって」
「うん」
「張り切っちゃって」
「うん」
「なんか、いやだ」
「何が?」
「いろいろ」
「いろいろ、かあ」
「そう、いろいろ」

 今日の分の会話は終わったと言わんばかりに、花菜は口を閉じた。そうして、僕たちはまた通学路の岐路で、手を振って別れた。

 教室に入ったとき、僕はその緊迫した雰囲気にすぐ気付いた。皆が何かを遠巻きにしていた。何かとは、言うまでもなく、ニシャだった。

 ニシャが朗らかに、楽しそうに笑っていた。

 そりゃあ、ニシャだって笑うだろう。それはいい。でも、僕が少なからずショックを受けたのは、その相手がイットーだったからだ。

 二人はテレビか何かの話をしていた。

 シモネタじゃなく! 

 そして、時々ひそひそと耳打ちしあい、そして、ごく自然に肩なんかを突き合っていた。何と言っていいか、ふたりだけの世界、とでもいうべき空間がそこにあった。

 僕は席に鞄を置き、いつものように本を読んでいるリュウの傍へ寄った。よう、と声を掛けると、ああ、と返事があった。何を話していいか、わからなかった。リュウが抑えた声で言った。

「面白いよ」
「え? その本?」
「違うって、あの二人」
「あ……そう?」
「というか……」

 リュウはくっと僕の耳をつまんで、顔を引き寄せた。
「クラスの連中。皆が、聞き耳たててる」
 
 僕は目立たないように教室の中を見回した。確かに一見それぞれが親しい友人と会話しているように見える。

 でも、あの二人が声のトーンを落とすと、それにつられて、会話が止まる。そして、二人が声を戻すと、安心したように、話し始める。

 僕はそういうものを不快に感じたけれど、聞きたくなる気持ちが自分にもあることは否定できなかった。

 表情をできるだけ変えずに、リュウを見た。リュウは眉を上げて、小便行こう、と僕を教室の外に連れ出した。

「俺さ、いつも一番に教室に入るだろ?」とリュウは言った。
「そうなんだ?」と僕は応えた。
「家にいると、姉貴達がうるさくて集中して本読めないしさ」
「うん」
「馬鹿にされるから」
「うん」
「だから、早く来るんだ」
「うん」
「でも、今日は一番じゃなかった」
「うん」
「あの二人がいた」
「……へえ」
「なんていうのかさ、なんていうか……」
「何かしてたのか?」
「いや、そういうんじゃないんだ。でも……」
「でも?」
「なんか、親密な感じがさ」
「親密?」
「いや、イットーなら、エロい雰囲気とでもいうのかもしれないけど、空気が濡れてる感じがして」
「濡れてる……」
「あ、邪魔者だ、俺、みたいな」
「ああ……」
「いや、戸廻はさ、君も早いねー、とか言って、俺にも話しかけて来たんだけど」
「けど?」
「イットーが」
「イットーが?」
「なんかすごい複雑な表情でさ」
「うん」
「あいつのあんな顔見たの初めてで、何かものすごい拒絶を感じたんだ」
「ふうん」
「で、仕方無く教室から出て体育館にいたんだけど」
「うん」
「バスケ部が朝練やってた」
「へえ」
「あいつら、朝からよくあんなに動けるな、って感心したり」
「うん」
「長村圭がダンク決めてた」
「まじで?」
「スゴイ運動能力だ」
「まあ、そりゃあ……」
「まあ、それはいいんだけど」
「うん」
「戻って来たら、あんな感じでさ」
「うん」
「うん」
「うん」

 互いに言いたいことはあるのに、言葉にはできない感じがして、僕とリュウは何度も、交互に、うん、うん、と言い合った。最後に、リュウは、ま、そういうことだからさ、と歯切れ悪く呟いた。
 僕は、また、うん、と応えた。そうするくらいしかできなかった。

 僕たちが教室に戻っても、まだ二人は楽しげに会話していた。僕は、することもないので、席に着いた。

 掛川がいた。よう、と声をかけてみた。よう、と返ってきた。

 ただ学校外で会った、ということが、その頃の僕らにとってどれだけ一大事だったか、掛川の微妙にぎこちない仕草が示していた。

 本当に、本当に、あの頃の自分を残酷だと思う。どうでもいいとまでは言わないけれど、自分の興味が、昨日までは誰より可愛かった掛川から、離れてしまっていることに、僕は無自覚だった。関心が薄れたことで、むしろ僕は気安くなった。

 昨日はありがとう、と僕は言った。掛川は、別に、とだけ応えた。そして、一時限の用意をしようと鞄に手をかけた時、僕は、はっ、とした。あのペンケースを持って来なかった。

 僕はおそるおそる使い古された缶のペンケースを机にのせた。それを目だけ動かして掛川が見た。僕は、できるだけ普通に見えるように、同時に、他のクラスメートに聞かれないように、言った。

「いや、なんていうか、うん……ごめん」

 掛川が肘を机に立て、その手の甲に顎をのせた。顔は向こうを向いていた。

「何のこと?」掛川は言った。
「いや……なんていうか」
「そういえば」
「うん」
「昨日、びっくりした」
「うん」
「ちゃんと帰れたのかな」
「さあ」

 僕は精一杯知らないふりをした。掛川は、帰れたからここにいるのか、と呟き、少し頭を傾けて、ふん、と息をついた。何だか見透かされている感じがした。僕はごまかさなきゃならないと思った。

「お礼しなきゃ、と思って。誕生日いつ――」
「いらない」
「え?」
「わたし、春休み中だし」
「三月?」
「そう、早生まれの遅い頃。卒業式の後」
「じゃあ、その頃必ず……」
「忘れちゃうよ、きっと」
「いや」
「忘れちゃう」
「そんなこと……ない……と思う」

 掛川が、とても優しい顔をして僕を見ているのに僕は気付いた。何か、恐ろしかった。そう、と掛川は、また、顔を逸らした。

「びっくりして、全部忘れたんでしょう」
「え?」
「戸廻さん、キレイだもんね」
「いや、その……」
「いいの?」
「何が?」
「町野」
「……イットーがどうしようと、僕には……」
 ちらと掛川がイットーとニシャに目を遣った。
「何か、あっちの方が、よっぽど恋人みたいじゃない?」
「……うん」

 僕たちは同じように俯いた。その微妙な緊張感を踏みにじる声がした。


<#5終、#6へ続く>

「スキ」などの反応があるだけでも、とても励みになります。特に気に入って下さったなら、サポートもよろしくお願いします!