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僕のニシャ #39【連載小説】

 この物語はフィクションです。実在するあらゆる個人・団体・学校・組織および事件・事象などとは一切関係ありません。
 また、この作品は2015年にKDP・Amazonで電子出版された作品に読みやすくするため改行や若干の言葉の変更などを加え、分割して順次掲載する予定のものです。以前の電子書籍版とストーリーにおいて変更はありません。
 途中からお読みの方、#1(第一話)から最新話までをまとめたマガジンはこちら↓です。



 次の日、現代文の授業のために教室に向かおうと廊下の角を曲がる時、ニシャが後ろから声を掛けてきた。珍しく笑っていなかった。

 僕は出来るだけ声を絞ろうと思った。ニシャは言った。

「シンタが昨日の夜来た」
「あ?」
「帰ってきたら、ホテルの前にいた」
「そう」
「自分以外とやってるのかって凄い剣幕で」
「ああ、事実だろ」
「うん。そうだって言った」
「うん。事実だからな」
「泣いて、色々わめいて」
「まあ、普通そうだよな」
「無理矢理わたしを連れて行こうとして」
「ああ」
「望都子がいたから、止めてくれて」
「そう」
「望都子は股間を蹴った」
「痛そうだな」
「うずくまってた」
「そりゃあな」
「その間に部屋に戻って」
「うん」
「望都子が傍にいてくれて」
「良かったな」
「わたし、いつヒトシとしたの?」
「あ?」
「そう言ってた」
「それは……別に僕がひとり増えたところで、大勢には影響ないだろ」
「全然違うことでしょ?」
「変わんないだろ?」
「どうして、嘘をついたの?」
「……なんとなく」
「しないことには意味があるんでしょ?」
「……ああ」
「特別な意味があるんでしょ?」
「ああ」
「どうして嘘をつく必要があるの?」
「お前には僕の気持ちなんてわからない」
「そりゃわからないよ」
「……ああ、そうだな」
「でも、傷つくよ。あの子」
「毛野が? あいつ、何言ったか知ってるのかよ、お前とのこと詳細に話したんだぞ、全部。ナニがバジルの匂いがするとか、お前がナニをするかとか。お前は毛野の精液でできてるんだとさ。気持ち悪い」

 僕は、周りの目が気になって、ひときわ声を落とした。

「傷つけてるのは、僕じゃない、お前だ。お前の行動だ。傷つく? あんなこと聞かされるの初めてだったけどな、それで、どんな気持ちになったかお前にわかるか? こっちこそ傷つくんだよ。すごく。僕が傷つくのはどうでもいいのか」
「特別な意味のある選択をして、それが大事なら、傷つく必要なんて――」
「お前が僕をどんだけ強いと思ってるか知らないけどな、僕だって人間だよ。心があるんだ。今までだって、平気だったとでも思ってるのか? お前と同じ価値基準で生きてるとでも思ってるのか?」
「そんなことは――」
「お前のすることがどれだけ僕を踏みにじってるかわかってるのかよ」
「ヒトシ――」
「頼む、もっと真剣に考えてくれ」
「わたし、いつも真剣だよ」
「どこが?」
「何が真剣じゃないって言うの? どうして遊びだと思うの? それなら、ヒトシは清乃ちゃんやまことちゃんや西浦先生のこと遊びだった?」
「そ……それとこれとは根本的に違うことだろ? 僕は少なくともお前みたいにやってないぞ」
「同じだよ」
「同じじゃない」
「同じだ」
「違う」
「同じなんだよ」
「もう、いいっ!」
「ヒトシ――」
「頼む」
「ヒトシ」
「頼むから真剣にレンアイをしてくれ。大生さんのときみたいに」
「ヒトシ……」
「そうしたら、諦められる」

 ニシャが深く息をした。手が僕の頬に伸びようと動いた。

 その手を、ニシャと比べても遜色のない美しい手が、ぎゅっと握った。

 僕たちが振り向くと、そこに昨日とはまるで違うジーンズにシャツ姿で眼鏡をかけた宇良さんがいた。

 宇良さんは僕たちに順番に目を向けた。頭を下げたわけでもないのに、それが挨拶だとわかった。

 僕は、どうも、と言った。宇良さんは、また無表情と笑顔の中間の顔で言った。

「修羅場?」
「いえ」
「予備校内では止めといた方が良いよ。退屈な受験生の良い話題になってしまうから」
「はあ」
「ましてや、こんなキレイな子と」

 宇良さんは、それからまじまじとニシャの顔を見詰めた。ニシャが、くっと身体を固め、宇良さんが握った手を振り解いた。

 それを何でも無いことのように、首を少し傾けると宇良さんは、僕を軽く指さして、ニシャに訊いた。

「この子、あなたのモノ?」

 ニシャが、ほんの少し躊躇った。この手の質問に躊躇うことのないはずの女だった。

 でも、首を横に振るまでの「間」に、僕は気付いていた。

 宇良さんは今度は僕の腕を取った。

「じゃあ、わたしのモノにする」
「え?」
「おいで」

 宇良さんは僕を引っ張った。僕は逆らえず、一緒に教室へ向けて歩き出した。

 振り向いた。ニシャがただ呆然と立っていた。僕は奥歯を噛んで、その姿から目を逸らした。

 宇良さんは、教室の後ろ隅の席へと僕を導いた。僕たちは並んで座った。

「テキスト頂戴」
「はい?」
「君の」
「はあ」
「あらかじめ解いてきてるよね?」
「あ、はい」

 僕は、訳も分からず、自分のテキストを宇良さんに渡した。すると、宇良さんは自分のテキストを僕に渡して寄越した。

「はい?」
「採点は厳しくしなきゃいけないと思う」
「はあ」
「選択問題はともかく、記述問題は、自分ですると、どうしても甘くなるし」
「はあ」
「だから、君のはわたしがする。わたしのは君がする」
「あ、ああ、なるほど……」
「そして、点数の低い者が、食事を奢る」
「え?」
「こういうのは同じレベルの相手じゃないと面白くないから」

 勝負、と宇良さんは僕を見詰めた。僕は少し戸惑っていたけれど、わかりました、やりましょう、と応えた。


 完敗、だった。

 前日の精神的動揺のせいにはしたくないけれど、それにしても僕の出来は酷かった。

 中心地にある地下街の中華料理店で、長い髪を耳元で掻き上げつつチャーシュー麺大盛りを啜りながら、かいかぶりだったかな、と宇良さんは言った。ええ、大したことないんです、と言うしかなかった。でも、確認したけど前日は普通にできてるんだよね、と宇良さんはチャーシューを頬張った。

 一見気を遣わない粗雑な仕草に見えるけれど、きちんとした箸の持ち方とゆっくりした顎の動きが故に、女らしさを損なうということがなかった。

「あと三日は夕食代が浮きそう」
「まだ、やるんですか?」
「やります」
「そうですか」
「今日はたまたまできてなかったって考える方が自然」
「ご期待に添えず……」
「何かあったんでしょ?」
「……はあ」
「メンタルが弱いのはダメ」
「はあ」
「それは鍛えないと」
「はあ」
「もしかしたら、受験前日に失恋するかもしれない。家が焼けることがあるかもしれない。大事なひとが死ぬかもしれない」
「はあ」
「でも受験日は変わってくれない」
「はい」
「どんなことがあっても、その日だけはベストをつくさなきゃならない」
「はい」
「そういうつもりで普段から問題を解かないと」
「はい」

 宇良さんは、レンゲがあるのに、わざわざどんぶりを持ち上げてスープを飲み干した。そして、ふーい、と言って、煙草に火を点けた。

 前日とは違う装いだったけれど、このひとは煙が似合うな、と僕は思った。

 そう言えば、髪はおろしてるし、化粧もしてないな、と気付いた。

 化粧をしている時としていない時でも、印象が変わらないのは、後になって考えるとすごいことだと思う。よっぽど化粧がうまいか、よっぽど造作が良いか、のどちらかだからだ。で、宇良さんは多分その両方だった。

 僕はなんとなく、今日はラフな感じですね、と言ってみた。宇良さんは大して興味もなさそうに、まあ、昨日はあの後デートだったから、ああいうのが好みなんだって、と言った。

 自分にそのつもりのない筈の相手なのに、何故かがっかりしたような気がした。

 相変わらずの自分が、僕はまだ好きになれなかった。

 宇良さんは、煙草の灰を、そっと灰皿に落として、少し、身体を前のめりにした。

「で、あの女の子よね」

 炒飯を突き崩していた僕の手が止まった。それを煙草の煙越しに見ていた宇良さんが、君は正直だね、と言った。そういうわけでも……と応えた。

「いや、正直だ」
「はあ」
「あの女の子、カノジョ?」
「いいえ」
「そう? とても親密に見えた」
「見てたでしょ、ケンカしてました」
「ケンカするほど、っていうじゃない? 日常生活において多くの人は親しい間柄じゃないと怒りをぶつけることもできないもの」
「そうですか」
「片恋?」
「いや、もう、それは……」
「違うの?」
「……ちが……わないですけど」
「まあ、君だと難しい相手よね」

 さらっとひどいことを言われたが、目黒の時のように腹が立つこともなかった。ただ誇れることでも決してなかった。顔が俯いた。

 そして、テーブルの下で足が思い切り蹴られた。

 痛くはなかったが、驚いた。思わず、すみません、と口をついて出た。その僕の顔を見ていた宇良さんが言った。

「しっかりしなさい」
「はあ……」
「じゃあ、傾向と対策を練ろうか」
「は?」
「どんな子なの?」
「そっちですか」

 言えないことが多すぎた。

 ずっとそうだった。

 今になって思うと、大したことじゃなかったのかもしれない。でも、その時の僕にとって、性的なことは重大な問題だったし、一種の汚れだった。

 僕には、どうしてもニシャをキレイなままにしておきたい願望があった。

 例え自分の目にはその罪(もっと良い言葉があるのかもしれないけれど、色々考えてもそれしかでてこない)が見えていたとしても、他の人間には美しく見えるままであって欲しかった。

 その時も、言えない、と思った。

 でも、同じくらい、言いたい、と感じた。

 僕は楽になりたかった。何も考えずに、毛野のように、好きなことを言いたかった。

 そして、できれば、誰かにわかってもらいたかった。

 言えない、言いたい、言えない、言いたい……そんなループが僕の頭の中で続いていた。宇良さんは煙草の火を灰皿で消すと、立ち上がった。そして、飲もうか、と言った。え? と僕は顔を上げた。

「部屋に酒がある」
「は?」
「おいで」

 はあ、と応えた。ほら、とまだ食べている途中だった僕の腕を宇良さんが掴んだ。そして言った。

「おいで。親睦を深めよう……ただし、性的なのは抜きで」

 やっぱり期待がなかったなんて言えない。

 でも、抜き、なら大丈夫と安心したのも事実だ。

 僕は、なんだかわけもわからずに、支払いを済ませて、宇良さんと一緒に店を出た。


<#39終、#40へ続く>

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