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僕のニシャ #30【連載小説】

 この物語はフィクションです。実在するあらゆる個人・団体・学校・組織および事件・事象などとは一切関係ありません。
 また、この作品は2015年にKDP・Amazonで電子出版された作品に読みやすくするため改行や若干の言葉の変更などを加え、分割して順次掲載する予定のものです。以前の電子書籍版とストーリーにおいて変更はありません。
 途中からお読みの方、#1(第一話)から最新話までをまとめたマガジンはこちら↓です。



 ひと月後、二学期の期末試験が近づいていて、僕は、やはり自習室で勉強していた。

 それにしても、西浦先生に教わった教科書を書き写すという方法は良い、と僕は思った。自分が機械にでもなった気がする。心が静まる。写経ってのも、つまり、こういうことだろうか、なんて考えたりもした。

 まことが隣にいた。
 
 まだ、一応、付き合っていた。

 僕はニシャにとうとうはっきり気持ちを伝えてしまったけれど、恋人になったわけでもなかった。そして僕が誰と付き合おうが、ニシャはその不実を責めたりはしない。気にもしない。お互いさま、だ。

 いいかげんだと、自分を思う。でも僕たちは戒律や契約に縛られて生きているわけじゃない。

 でも、単純なところを言えば、寸前までいったことを境に、まことがより親しげに、嬉しそうに僕に接してくるのを、すげなく拒絶することが、心理的に難しかっただけなのだ。良いタイミング、そういうものを僕は待っていた。

 新條が、ふらりと自習室に入って来て、後ろの席に座り、僕の椅子を蹴った。

「なんだよ」
「面白い話ない?」
「ないよ」
「つまんないやつ」
「俺たち、勉強してんだけど?」
「ふうん」
「お前も、しろよ。そのために来たんだろ?」
「はいはい」

 新條は自分の鞄から教科書やら辞書やらを取り出したのに、その上に突っ伏すように顔を埋めた。そして、言った。

「お祭りも後味悪かったよね」
「ああ?」
「実行委員長たちが補導されちゃってさ」
「……ああ」
「退学に停学、だもんね」
「ああ」
「学祭、来年はやらないらしいよ」
「ああ」

 当然だ、あいつを英雄になんてしてたまるか、僕はそう思った。

 でも、手をくだしたのは僕じゃない。僕はニシャとのあの話の後久しぶりにかつて通った中学校に行った。片倉は、相も変わらず、やる気のなさそうな顔だった。僕は、彼と学校の敷地をぐるりと歩いた。

 彼はニシャに起きたことを聞いても、やっぱりやる気の無さそうな顔を変えることはなかった。

「後夜祭、とかするよな?」と彼は訊いた。
「わかりませんけど」と僕は応えた。
「酒飲むよな」
「ですかね」
「戸廻に飲ませたんだろ?」
「ええ」
「そりゃ、自分たちだって飲む」
「はい」
「酒になんか混ぜてたかもしれないしな」
「……わかりませんけど」
「煙草も吸うよな」
「ええ」
「それ以上もあるかもな」
「……わかりませんけど」
「時間とか場所とかいくつか確認して、連絡くれや」
「はい」

 彼が言ったのは、それだけだった。別れ際、校門で、僕は訊いた。

「戸廻と続きますか?」
 彼は、その質問に直接は応えず、こう言った。
「俺、昔の同級生と結婚すんだよ」

 じゃあな、また来いや、と言って彼はやる気の無い歩き方で去って行った。

 学祭が終わった夜、警察と学校長他教師たち、それとPTA会長、役員、運動の記事をのせた新聞社など、どこをどう突いても決して不祥事を隠蔽できないように、目黒たちの「非行」に関する匿名の通報があった。そしてバー・ブリッジに警官が踏み込み、その後、学校関係者全てを巻き込む大騒ぎになった。

 ニシャが行った時には、店は閉まっていたそうだ。変なの、とニシャは言った。変だね、と僕も応えた。

 一方、誰がチクったのか、一部実行委員会のメンバーが犯人捜しをしていた。コミカルだった。実行委員会の評判は、地に落ちた。

 それを冷めた思いで眺めながら、でも、片倉はやる気無さそうにやる気のある対応をしたのかと思うと、そっちの方が面白かった。

 でも、それだけでは問題は解決にならない。

 もっと深刻なことがある。ニシャの物語を乗っ取ろうとするやつがいる。どうやって、ニシャを守りながら、そいつをどうにかするか、僕は考えた。

 連中がしたことは犯罪で、出るところに出れば、それは当然裁かれることだったかもしれない。でも、それではニシャがされたことが公になる。ニシャの内心までは量りきれないけれど、少なくとも社会的な重荷を背負うことになる。こういう事件の偏見は、むしろ被害者に向けられる。時々忘れそうになるが、ニシャだってまだ高校生の少女なのだ。戦えない僕は、誰かに戦うことを強いるなんてできなかった。

 でも、どんなに考えても、他に良い案は浮かばなかった。

 闇討ちでもするか、と思った。でも、暴力は僕の最も足りない能力のひとつだった。何回も打ちのめされてきた。あの時も、滅茶苦茶にやられたな、と思った。一方的だった。あんな腕力があれば、人生変わったかもしれない……。

 そして、長村圭なら? と僕は思いついた。

 その思いつきは苦かった。自分でやれないことを、他人にやらせる。あまりにも、卑怯だった。卑屈だった。汚くて、重かった。

 でも、身体は動いた。当時はまだ個人情報にうるさくなかったから、卒業アルバムの最後に生徒の連絡先一覧があった。六組だったな、と思った。容易に彼の電話番号を見つけた。

 迷った。躊躇った。手が震えた。

 でも、僕はその汚くて重い塊を呑み込んでしまう覚悟を、決めた。

 僕は、名乗らず、でも、ニシャに起きたことの全てを話した。少なくとも写真とネガを取り戻さなければ、ニシャが酷い目にあい続けると訴えかけた。必死だった。何度も声が裏返った。最後はすがりつくような涙声になった。彼は、黙って話を聞いていた。中学の時もそうだったが、何を考えているのかはさっぱりわからなかった。彼は、僕の話が終わると、切るぞ、とだけ言った。うん、と応えようとしたときには、通話は途絶えていた。

 そして、何も変わらなかった。

 少なくともカナハシに関わる事件が新聞に載るということもなかった。

 僕の周辺も概ね平穏なものだった。時折、学祭が来年は行われないことを悲しむ声が聞こえた。楽しかったのにねー、と誰彼言った。その度に心が沈んだ。一般生徒に罪はない。僕は、自分のために、自分のやりきれない気持ちのためだけに、全てを壊した。僕はそんな声が聞こえるたびに、心の中で、ごめん、と言い続けた。

 でも、ニシャは元気だった。深い話はしていなかったけれど、僕にとってそれだけが救いだった。

 ところでさー、と新條が言った。何? と僕は言った。

「ところで、いつまでそんな女と付き合ってんの?」

 僕の手が止まった。き、とまことが新條に振り返った。新條は僕の耳を掴んで振り向かせた。

「あんたに言ってるんだ」新條は言った。
「何言ってんの?」僕はとぼけた。
「何言ってるんですか?」まこともそう言った。
 新條が僕の顔を見詰めた。そして、少し眉をしかめた。
「戸廻のこと好きなんでしょ?」
「ミス東なんて恐れ多くて」

 そう応えた僕の横で、まことが立ち上がった。何? と新條が低い声で言った。

「ヒトシくんはわたしのものです。戸廻さんじゃなく、わたしを選びました」

 あ、そ、と新條はそれを軽く受け流した。そして、机に出したものをしまい始めた。

「坂上ぃ」
「あ?」
「戸廻だからね。『モテてる』のは。あんたじゃない」
「は?」
「勉強しようと思ったけど、帰るわ」
「あ……おう」

 入り口まで行って、新條は立ち止まった。

「坂上」
「あ?」
「あんた、オトナにでもなった?」
「は?」
「曖昧になった。目が」
「はあ?」
「いやなオトナの目」

 新條は、じゃあね、と背中で手を上げて、教室を出て行った。

 まことが、すとん、と席に腰を落とした。僕たちは、何も話さず、時間まで勉強を続けた。

 帰宅しようと玄関へ向けて、まことと歩いているときだった。曲がり角で、ニシャと鉢合わせした。ああ、ヒトシ、まことちゃん、とニシャは嬉しそうに僕たちに近寄った。まことが不自然に目を逸らした。

「恋人同士だ」とニシャが言った。

 まったくいつでもこうやって心の機微を踏みつけるやつだ。僕は苦笑するしかなかった。そんな僕の袖をまことがぎゅっと掴み、すぐにしがみつくように腕を取った。おお、いいね、いいね、とニシャは冷やかすように言った。

「どうした? こんな時間まで」と僕は訊いた。
「んー、なんとなく?」とニシャが応えた。
「なんとなくってなんだよ」
「あ、そうだ、皆で帰ろう、ね?」

 ニシャが楽しそうに笑った。まことがしがみつく腕に軽い痛みを感じた。まことは言った。

「わたしたち、これから、図書室に用事があるんです。ふたりだけの」
「あ、そう? じゃあ、しかたないねー」

 淡泊だ。僕は、頭を振った。

「ないよ」と僕は言った。
「ん?」
「ないから一緒に帰ろう」

 まことが、唖然と僕とニシャの顔を交互に見た。

 そ? と言ってニシャが歩きだした。僕も、そうした。

 まことの手を振り払って。

 僕が少し振り返ると、泣きそうな顔で、図書室の方向へ歩き出すまことが見えた。でも、悲しくなるくらい未練は無かった。



 バス停に向かうニシャの背中に、僕は、少し歩かないか? と訊いた。いいよ、とニシャは立ち止まり、僕が追いつくと、僕の腕を取って、また歩き始めた。

 もうすぐ雪が降るよ、とニシャは言った。

「雪、好き?」と僕は訊いた。
「ん、好きだよ」
「うん」
「っていうか、雨も、曇りも、風も、雷も、好き」
「雷はやだな」
「そう? 雷ってかっこいいじゃない」
「落ちたら死ぬ」
「落ちないよ。滅多に」
「その『滅多に』があるかも知れないだろ?」
「ないよ」
「あるって」
「そうかな」
「ああ」
「まあ、でも……そういうときは手を引いてあげるよ」
「ああ、頼む」
「ん?」
「何?」
「なんか素直」
「そうかな」
「うん」

 僕は、ため息をついた。ニシャが、それ、良くないよ、と言った。

「僕、変わったか?」

 眉を上げて、ニシャが僕に顔を向けた。

「別に、特に?」
「目は、どうだ? 変わったか」

 ニシャは、僕の前に回り込むようにして立つと、まるでキスでもしそうなくらい顔を寄せて僕の目を覗き込んだ。そして、頷いた。

「変わらない。わたしが映ってる」
「そうか」

 ヒトシは目だけはキレイ、とまた歩き出した背中に、目だけかよ、と僕は不平を言った。そして俯いて、またため息をついた。僕は訊きたいことを訊くために、長い前置きをする癖がついた。できるだけ自然に見えるように、技巧を尽くす癖。未熟な偽物の技術。

 僕はその時、いやなオトナの目をしていただろうか? 

 本当は自分が無力なコドモ以外の何物でもないことに打ちひしがれていたのに。

「長村とまだ会ってんの?」僕は訊いた。
「ん? 会ってるよ」
「どんな話すんの? あいつと」
「うーん、特に?」
「へえ」
「でも、最近、またちゃんとバスケできるようになって、ちょっと嬉しそう」
「ふうん」
「ありがとうって言われた」
「ん?」
「結構他の人からは、責められたんだって。推薦なのに自覚が足りないとか」
「怪我は仕方無いだろ? 事故だもん」
「でも言われたんだって」
「へえ」
「だから、変わらず支えてくれてありがとう、って」

 是非、そのシーンを見たかった、と僕は思った。あの男がどんな顔してそんなことを言うのか、感動的なくらい想像がつかなかった。

 支えたって言っても何もしてないんだよね、とニシャが言った。そうか、と僕は応えた。でもね、長村は偉いんだよ、怪我した手を使わない体力作りとか、使える手だけでボールを扱う練習とかやめなかったんだー、強いよね、とニシャが感心したように言った。僕も、ああ、と頷いた。そういえばさー、とニシャが言った。

「何?」
「この前、もう心配するな、って言った。何も心配いらないって」
「あ、そう」
「なんのことだろ?」
「わかんないのか?」
「うん」
「頭悪いからな」
「うん」
「嬉しそうに頷くな。馬鹿にしたんだ」
「うん」

 僕は本当はカナハシのことについても訊こうと思っていた。でも、長村の言葉で、僕は察してしまうことにした。僕にはできない、わからない、知らない方法で、彼はニシャを守った。

 自分で物語を作らなかった者には、知る喜びも、解決篇のカタルシスも、達成感に酔う権利も無い。ただ神々が舞った跡に立ち尽くすだけだ。

 漠然とした安心と、ヘドロのような自己嫌悪。

 皆がオトコになっていく。自分の手で。自分の足で。僕だけが、いつまでもニシャの光に空虚にしがみつくだけで、動けずにいる。

 多くが去って行く。そして、この光さえも、太陽が昇り沈んでいくように、やはり僕の傍から去ってしまうのではないか、とふと思った。震えそうになった。

 僕の腕を取るその手に、僕は自分の手を重ねた。

「でもやっぱりなんか変だ」とニシャが言った。
「お前に言われたくないな」と僕は応えた。

 ニシャが、ねえ、折角だからなんか食べて帰ろうか、と訊いた。僕は、頷き、笑いながら、奥歯を噛みしめた。


<#30終、#31へ続く>

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