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【連載小説】Words #17

 この物語はフィクションです。
 作中の人物・団体・学校・事件、及び各種名称、方言などあらゆるものは、創作であり、実在のものとは一切関係がありません。  
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 そういう流れで、僕は、いよいよ公にも倫生高校を目指して勉強することになった。
 僕自身に、経堂の友情に応えようとする意気込みがあったことは間違い無いけれど、今となっては、母の方がずっとその気になってノリノリであり、絶対合格するのよ、などと鼻の穴を広げてけしかけられると、僕は自分の意志と希望が乗っ取られたような気がした。
 指先の感覚が薄らぼやけている。自分が、自分の気持ちを生きていないような、そんな違和感。いらだち。
 僕はそんなものを正視していられなかった。ごまかす必要があった。だから、僕自ら勝手に遠い距離を選んだかほ里を視界の端に置きながら、週末ごとに、真沢と「デート」をした。
 デートを重ねる度に、僕にはわかることがあった。僕と真沢はよく似ていた。本当は。
 真沢のことは「女勇者」だと思っていたけれど、実は、あの一連の行動こそが例外で、それ以外普通の時は、どちらかと言えば、内気で、遠慮がちで、むしろ臆病だった。
 あの時、あの廊下の事件の時、僕とのネームプレートの時、彼女は変わろうとしたのだ。おそらく。勇気を持って。
 で、それが精一杯だった。そして、臆病者同士が、何度「デート」しようが、親密さは生じなかった。お互いの前にラインを引きあって、それを越えることができなかった。
 話題が無かった。ずっと、それぞれに独り言を呟きあった。
 元々思い込みと勘違いのようだった好意が、少しずつ僕の中から蒸発していった。
 退屈だった。かほ里のことばかり、恋しくなった。なのに、僕は「デート」をやめなかった。
 遠藤が嬉しそうに言う。
「佳織ちゃん、楽しかったって!」
 僕は、その顔を、複雑な想いで見詰める。僕はどう考えても、真沢を楽しませた自覚がない。ただ、一、二時間一緒に独り言を呟き合っただけだ。
 でも、少なくとも遠藤には、真沢がそう言ったのだ。否定する理由も術もない。
 いや、そんなことは実はもうどうでもいい。僕は、少しそわそわしながら、遠藤を見詰める。遠藤はその視線に応えるように、自分のがま口を取り出す。
 ああ、それに視線が行ってしまうのは、かっこ悪い。でも、どうしても期待に引き寄せられる。
 そして、そこから、折りたたまれた五千円札が出て来て、僕の手に渡される。いや、悪いよ……などと口が動く。でも、僕の正直な腕は、それを押し返そうと動くこともない。
「いいの。本当に。二人には、幸せになってもらいたいの」
 などと遠藤は言う。
「いつか、きっと、返すから」
 などと僕も言う。返すあてなど、どう考えてもその時の僕にはないのに。
 そして、僕はその「デート費用」を、別のものに流用する。
 具体的に言えば、母に取り上げられたCDを買い直すことに。僕はもう躊躇もしない。
 そして、僕は自分が一番大事にしているものが何かを、改めて思い知る。
 話がしたい。話す事なんて、何も思いつかない。ちゃんとした話なんて、そう言えば、したこともない。
 もっと正直になる必要がある。
 そばにいたい。その、匂いと熱を感じたい。イヤフォンを耳に掛けて貰いたい。かほ里は、何故か、僕という存在を拒絶しない。
 いや、本当は、違う。彼女が、僕と違う男のそばで「咲いている」姿を、僕は見た。だから、僕の期待するものなんて、はなからない。
 でも、触れてくる。身体的に。
 そこに他のどんな意図もないのはわかってる。犬をなでるくらいのことなのだと。
 でも、その心地良さのためなら、僕はイヌでいてもいい。イヌでいたい。
 そんな風に、捩れる身体と心を、僕は堪えきれなくなる。彼女が都合の良いきっかけをくれるのを待ちきれずに、僕は、また彼女の前に情けなく立った。
 彼女が鼻で笑う。気まずい僕が立ったままなのを、眉を上げて顎で椅子へと促す。
 僕は、座る。イヤフォンが耳にかかる。
 永遠が、そこに響いている。
 気の利いた会話を思いつけずに、僕の身体は硬いまま震えている。
 もう一度、鼻で笑う彼女。
 そのまま僕たちは、視線をそれぞれに違う方向に向けて、ただ、永遠を聴く。
 言葉がない。いや、言葉が溢れてくる。
 でも、その中に、僕の言って良い言葉がない。僕に向かって咲かない花に、捧げていいものなんか、ない。なのに。
 何気なく机に置いていた手。
 どうしてそれを、彼女は。
「どこで悪さしとったん?」
「……悪さ、って」
 彼女のいない視界、湿る左手。からかうように、解きほぐすように、冷たい肉が、僕の指を割る。それを根拠に意気地の無い僕が、言葉を返す。
「そっちこそ」
「ん」
「あのオトコと、どんな悪さしてるわけ?」
「……」
 僕の手を掴んだ柔らかい冷たさが、わずかに、止まる。
 そして。
「どのオトコのことかな」
「は?」
 僕は、ついに、彼女の顔を見る。本気か冗談かわからない枯れた笑みが、同じように、僕を見詰め返す。僕の笑顔が歪む。それを小馬鹿にしたように鼻で笑うと、彼女は、教室の壁に、その向こうまでを眺めるような視線を遠く投げた。
「冗談」
「うん」
「見たんか」
「うん」
「そうか」
「……うん」
「そうか」
「うん……」
「……そうか。だからか」
「…………うん」
 微かなため息が、ずっとリピートされ続けている永遠に雑じって聞こえる。それが、あまりにも僕の知っている彼女にそぐわない、頼り無い少女を表現した。
 胸が痛い。
 その理由に、僕はいない。
 彼女が言った。
「悪いこと」
「うん」
「悪いこと、全部してるんやけ」
「……うん」
「……全部」
 その「全部」の中身を、問いただしてつまびらかにする話術など、僕にはない。
 だけど、わかる。下世話なことしか思いつかなくて、でも、それが、そう間違ってもいないことが。
 壁の向こうに投げ出された彼女の視線の先に、ただ、あのオトナの男しかいないような気がする。
 僕は、いない。
 僕は、いない。
 僕は、いない。
 僕は。
 彼女が想像させたものが、僕の隠したい部分を切なくさせる。
 それを今すぐどうにかしなくちゃならないのに、目の前の、その、発端は、それを受け入れてなどくれない。
 それを言葉で確かめて、砕け散る勇気もない。
 だから、僕は俯き、じっと固まったまま、薄暗い炎に焦がれ続けた。
 その冷たい手が、僕の輪郭をなぞり、穢れた深みを掘り下げ、核心を握り、その結末まで擦り続けてくれるなら。
 でも、唐突に、彼女は言った。そんな肉の希いを、見破って、弄ぶように。
「なあ」
「……何?」
「なんか、書いて」
「……え?」
「なんか」
「……書けって……そんな急には……」
 僕が戸惑って彼女の顔を見ると、彼女は、握ったままだった僕の手をゆらし、ふくれ面で、なあ、なんでもいいから! と駄々を捏ねてみせた。まるで幼女の演技でもしてるみたいに、僕には見えた。
 もう、コドモには戻れないのに、コドモみたいな衝動に震えているような。
 そして――。
「なんか……」
「……」
「なんか、キレイな言葉、書いてくれんなあ……」
 ついに、言うのだ。彼女は、ふと我に返るみたいに、いつのまにか、哀しげに枯れて。
 僕には、わかる。それが、何かとてもシリアスなものだと。
 でも、同時に、思い知る。自分は、自分をどうにもできないのだと。
 目の前にどんな深刻な哀しみが震えていたとしても、自分の身体に宿る、たかが小さな塊の欲求に呑まれてしまうものなんだと。
 何度も、何度でも、似たようなシーンを繰り返してしまうのは、そのせいなのだと。
 僕は忘れない。もしかしたら、美しく撮影できたかもしれないその光景の中に、薄汚い衝動しかなかったこと。僕のココロの中に置かれたカメラが、何を撮していたかを。
 衝動を叶えるための勇気がなくて、仕方無いから、鞄からペンとルーズリーフを取り出す。でも、僕の手は、ただペンを握り絞めているだけだった。
 きっと彼女は充分に待ってくれたのだ。でも焦燥と衝動に挟まれた僕に、彼女の望む「キレイな言葉」など、紡ぐことなどできなかった。
 そんな僕に、少し、諦めたような笑みを向けて、彼女は立ち上がる。僕の耳から回収したイヤフォンを、自分の耳に掛け、鞄を持ち、彼女は躊躇いも無く離れて行く。それを見上げ、狼狽し、焦った口に、ごまかしの言葉を発する余裕もない。
 僕は、言う。およそ考え得る最悪の言葉を。
「ぼ、僕は!」
 彼女は、立ち止まり、少し振り向く。
「キレイじゃないんだ」
「……ん」
「君と、一緒にいると、どんどんきたなくなるんだ」
「……ん」
 彼女は、イヤフォンを外し、そして、僕を真正面に見詰める。
「だから」
「ん」
「つまり」
「ん」
「うまくいえないけど!」
「ん」
「僕は!」
「ん」
「君といると、おかしくなる」
「……ん」
「どきどきする、わくわくする、ムズムズする」
「ん」
「触られたら、気持ち良くて、もっとしてほしくて」
「ん」
「僕も、そうしたくなっ……て」
「……ん」
「でも、僕がそうすることはできなくて……」
「ん」
「もっと、もっと、触って欲しくて、足りなくて」
「ん」
「ずっと、君のことを考えて、君の身体のことばかり、考えて」
「ん」
「君と一緒にいると、どんどんきたなくなるんだ」
「ん」
「でも、そうなりたいんだ」
「ん」
「君と、セ、セ、セ……」
 コトバが詰まる。どうでもいい嘘なら、どんな甘ったるくて、情けなくて、他人からの剽窃だとしても、躊躇わないのに。
 彼女は、僕を見下ろしている。これ以上の恥を晒さなくてもいいように、立ち去ってくれたならいい。
 彼女が微笑う。見上げて目を合わすことすらできない僕にも、それが感じられる。
 枯れた、でも、柔らかなものがそこにある。
 ふと、いつのまにか近づいて来た彼女の掌が、僕の頭にのる。僕の身体に、心臓があることを、その鼓動が改めて伝えてくる。
 僕は、生きている。たぶん、他のどんなときよりも。
 自分の中に生まれた葛藤を握りつぶすように、あるいは祈るように、僕は机の上の両手を握り合わせた。彼女が、まるで天上から降る光の雨みたいに、声を洩らす。
「言うてみ」
「……」
「言うてみ、て」
「……」
 その掌が、柔らかく僕の髪を掴む。
 痛みが、甘い。
 僕の上げられてしまった視線の先に、無表情に、揺れる潤んだヒカリ。それが伝えてくるものを、僕はどうしても拒否なんてできない。
 そういうノロイ。
「何が起きるか、その先を言うてみ」
 もう一度、彼女は言う。僕は、言ってしまう。
 言わされてしまうのだ。どんなに拒否しようとも。
 それがわかる。言ってしまえば、もう二度と、白い無垢の時代を装うことなどできないなんて、知らずに。
「……セ」
「……うん」
「セック……」
「……」
「君と!」
「……うん」
「……君と……」
 口ごもりそうになる僕の顔を引き寄せて、彼女は僕に額を寄せる。
 それ、を期待する心が全てを忘れて、恥じらいも躊躇いも踏みにじる。
 僕の喉奥に充填されたコトバが、しかし、噛みしめた顎に引っかかったまま暴れていて、僕は、ぐうっと奇妙な音を鳴らす。みっともなさに、僕の瞳は滲む。
「……」
「頑張れ」
「……僕は」
「頑張れ」
「僕は、君と……」
「ん……」
「……僕は君と、せっ……」
「……うん、頑張れ」
「……クスがしたい」
 言った! とうとう言ってしまった。
 あああああああああ。
 僕は、それ以上何も考えたくなかった。
 だから、ただ無意味で、味がなくて、乾燥した「あ」を脳内で叫んだ。
 彼女は、呆れたように笑い、合わせた額を、まるでイヌにでもするかのように擦りつけて、そして、言った。
「ようやく言うたな」
「……」
「いろんなこと言うて」
「……」
「一生懸命取り繕って」
「……」
「いろんなコトバで着飾って」
「……」
「でも、とうとう全部脱いだ」
「……」
「ようやく」
「……」
「好きだ、愛してる、君がキレイだの、切ないだの、なんだかんだなんて、結局、あんたの今言うたのの、飾りなんやけ」
「……」
「ほんとは、虫唾が走る」
「……」
「でも、あんた、いま、ようやくハダカになってみせたんやけ」
 彼女は僕の頭を抱く。その息づかいが耳にきこえる。キスくらいの事件なら当然、起きてしまいそうな温もりが確かに僕に伝わっている。
「ちゃんと、ハダカになってみせたんやけ」
「……」
「わたしもちゃんとハダカにならんとな」
 喉がなる。卑しい欲情の音だ。でも、それが勘違いなのだと、彼女は、言う。
「わたしもしたい」
「……」
「わたしもセックスしたい」
「……」
「すごい、したい」
「……」
「でも、あんたやないんやけ」
「……」
「わたしがセックスしたいんは、この世にただひとり、あのオトコだけなんやけ」
「……」
「コトバで着飾って、鼻持ちのならない、本当のことなんて何一つ言わない、かっこつけだけの中身のないあのオトコだけなんやけ」
「……」
「そう」
「……」
「わたしがしたいのは、あのオトコだけなんやけ」
「……」
「あのオトコとだけ、したかったんやけ」
「……」
「あんたに同じようなことさせて、言わせて」
「……」
「少しは濡れるかとおもたけど」
「……」
「濡れたらいいなとおもたけど」
「……」
「でも、ダメやったんやけ」
「……」
「あのオトコだから、だったんやけ」
「……」
「虫唾の走るコトバでも、あのオトコから出るだけで、濡れるんやけ」
「……」
「だから……」
「……」
「だから、コトバなんてほんとはどうでもいいんやけ」
「……」
「そして、それ以外のオトコなんて、人間ですらないんやけ」
「……」
「……あんたも」
「……」
「イヌみたいにカワイイと思わんことないけどな」
「……」
「イヌとする趣味はないんやけ」
「……」
「ごめんな」
「……」
「まえも言うたけど、だから、あんたとはせんよ」
「……」
「……」
「……」
「でも――」
 彼女は、言いかけたコトバを、ふと呑み込んで、そして、そのついでとでも言うように、僕の頭を放した。
 僕は、ただ呆然と、彼女を眺め続けていた。
 笑顔が、いつものように枯れていて、いつもと何も変わらなくて、僕はたったいま自分が決定的に拒絶されてしまったことに、気付かなかった。
 でも、そうだ、もし僕がフラれたというのなら、改めてそこで気付く必要もない。ただ最初から、僕は拒絶されていただけのことなのだから。
 オトコ、としては。
 かほ里が教室を出て行く。何の言い訳もせずに。何の余韻も残さないように。ただ自分を冷酷なままにして。
 その時の僕にできることなど、気まずい自分をかほ里に晒さなくてもいいように、教室の外で再び顔を合わせることを避けるための充分な間を開けて、帰宅するくらいのことだった。

 僕は家に帰って、母親と向かい合った。
「母さん」
「何?」
「僕、倫生に受かる」
「そうしてちょうだい」
「そしたらさ」
「何?」
「そしたら、安いやつでいいから、電子ピアノを買って欲しい」
「……」
 母が、不愉快そうに眉を潜める。僕の心はその表情に萎縮する。でも、僕には、どうしてもそれがいるのだ。それがなければ、僕はきっと、ずっとイヌのままなのだ。
「昔、僕にピアノをやらせようとしたじゃないか」
「……そうだけど」
「どうしても練習させたじゃないか。いろんなことを我慢させて」
「……それは」
「絶対にやめさせなかったじゃないか」
「……」
「僕は、もう一度やってみたいんだよ」
「……でも」
「そんな簡単に、やめてもいいものを、あんなに僕にやらせたの?」
「……」
「必ず、倫生に受かるから」
「……」
「その後も、勉強するから」
「……」
「だから、受かったら、電子ピアノを買って欲しい」
 僕は、母の、それなりに痛いところをついたのかもしれない。母は、少しきまずそうな表情で目を逸らすと、そうね、受かったらね、と応えた。僕は、ありがとう、とだけ言って、部屋に戻った。
 僕は、倫生に受かる。
 そしてピアノをやって、イヌではないものになる。
 僕は、そう、思った。
 大いに何かに勘違いしていたのだとしても。

<#17終わり、#18に続く


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