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【連載小説】Words #18

 この物語はフィクションです。
 作中の人物・団体・学校・事件、及び各種名称、方言などあらゆるものは、創作であり、実在のものとは一切関係がありません。  
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 そんな決意は飽きっぽい僕の中でも消えなかった。勉強した。そして、受験日が、もうそこまで来ていた。
 倫生は、志望者が各地方に散らばっているために、各主要都市に試験会場を設けていた。僕の住んでいた街でも、試験は行われる。
 受験にかこつけて親から離れて旅行してみたかったような気がするけれど、それを正当化する理由はどうしても見つけられなかった。市内のなんたらセンターとやらが会場として指定された受験票を僕は恨みがましく眺めたものだった。
 いや、そんなものを悠長に眺め続けられる学力的な向上はその時にいたってもなかったような気がする。過去問やら塾で課される対策問題は相変わらず自分にとっては難しいままだったのだし。
 正直に言えば、倫生を目指すのであれば、少なくとも中学入学の時点からそれに向けての学習をする必要があったのかもしれないと思う。
 だが、後の祭りだ。受からなくてもいいなんてことは思わなかったけれど、僕はその頃ずっとふわふわふわふわとした気分で、一体自分が何をしているかよくわかっていなかった。緊張というと、何か凝り固まったようなイメージがあるけれど、たぶん僕の緊張は、ああいう地に足のつかない空に浮かんでいるかのような感触で顕れていたのだろう。
 とにかく、僕は、相当に、空を飛んでいた・・・・・・・。試験前最後の授業が終わり、塾の階段をふわふわと降りるそんな僕を、品川が呆れた様子で強くこづいた。僕は腹も立たなかった。
「なんだそのふやけた顔」
「あ、そう?」
「なんかいいことでもあったのかよ」
「いや、別に」
「は」
 皮肉っぽく鼻で笑うと品川は、僕の腕を引いた。
「何?」
「いいから!」
 僕の足は地面から浮いているみたいに、品川に逆らえず動いた。
 実際、何も考えていなかった。抵抗するも、従うも、自分の中にまるで意志がないようだった。だから、品川が急に立ち止まったとき、僕はその背中に思わずぶつかった。それで、やっと意識は自分の視界を取り戻した。経堂が、僕たちの目の前にいた。まあ、当然いる。同じ特進クラスなのだから。経堂は笑っていた。
「おつかれ」
「おつかれ」
 同じく笑顔になった二人が、どこかよそよそしい挨拶を交わすのも、僕にとってはどうでも良かった。品川の腕が僕の腕をさらに強く掴んだ。経堂は、まるで外国映画の俳優みたいに首を傾げてから笑顔を軽く振ると、僕の肩に手を置いた。
「よろしく頼むよ」
「は?」
 僕は経堂が何を僕に「よろしく頼む」のかよくわからなかった。でも、その表情を追おうにも、彼はそのまますっと離れて帰る方向へと歩き出してしまって、僕はその意図を読み取ることができなかった。
 だから、僕は品川の顔を見た。笑顔だった。だけど、僕はその笑顔に何故か苛立ちのようなものを感じた。むしろ、怒り、のような。
 だからと言って、僕の脳にその理由を考えられるリソースは残っていなかった。ただ引っ張られ、運転手がドアを開けるクルマの後部座席に押し込まれて、品川と並んで座ることになった。
 品川は、シンドウ、こいつの家まで乗せていってあげて、こないだのバスで行ったとこ、と当たり前のように、初老の運転手に命令した。
 そして、品川は深く、ため息をついた。僕は、慣れない高級車のやたら座り心地のいいシートに、余計ふわふわしながら、品川を眺めた。
「何? なんか用?」
 品川は、呆れたように僕を眺め、そして、イライラと顔を一度顰めると、またため息をついた。そして、ケンカでも始めるかのような口調で、訊いた。
「倫生、受けるの?」
「うん」
「やめなよ」
「は?」
 意味がわからない。そして、その時の僕は自分が意味がわかっていないということをわかっていなかった。
「なんで?」
「なんでって、それは――」
 シートから背を思わず離して、品川は僕を睨み、でもその後のコトバを続けられずに、ううう、とじれったそうにうめいた。僕は、再度訊いた。
「なんで?」
 真剣な目で、一度、僕の顔を強く見回し、品川は、もう一度ため息をついて、乱暴にシートに身体を埋めた。
「何?」
「別に」
 今度は投げやりにそう応えると、彼女は窓の外に視線を遣った。
「あんたさ、どうしても倫生行くの?」
「え、そりゃあ、第一志望だし……」
「本当に、倫生行きたかった?」
「え?」
「もし、東も受かったら、それでも倫生に行く?」
「……そりゃあ、第一志望だし……」
 突然僕のコートの襟元が掴まれた。でも、品川の視線は流れる窓の外の風景に注がれ続けていた。
「な、何?」
「それは、ほんとに、あんたが決めたの?」
「いや、だから、そりゃあ、経堂に誘われたのは――」
「だから!」
「なに? なんなの?」
「だから、あんたは本当の本当に倫生に行きたいのか、って訊いてんの」
「……」
「それは、あんたの、あんたの本当の意志なのかって」
 何を訊いてるんだ? こいつ。
 僕は、倫生に行きたい。きっかけは経堂だったかもしれないけれど、今の僕は倫生に行くこと以外に考えられない。そのために、僕は勉強してきたのだ。受験票まで届いたこの段階で、いまさら方向転換などありえるはずもない。
 僕は、そう思った。
「そうだよ」
「そう……」
 品川は僕の襟元を放し、そして、唐突に、力の抜けた肩を僕の肩に預けた。
「行くなよ」
「は?」
 聞き間違えか、と思った。もしくは勘違いか、と感じた。まるで、戦地へ赴く恋人に対するコトバのようにも取れたから。いやいや、有り得ないけれど。でも、都合良くモテたい自分が、喉を震わせる。
「どういう、意味?」
「そういう、意味」
「は?」
「倫生ってさ」
「うん」
「言うほど、良くない」
「え?」
「うちの父親がさ、倫生」
「へえ、すごいな。先輩なんだ――」
「で! 言うわけ」
「……うん」
「もう学校入った瞬間から、周りは皆競争相手でさ」
「……」
「そりゃあ、ギスギスしてるんだって」
「……」
「寮なんか、一年の時には百人部屋で」
「……」
「生活時間やら何やら全部管理されてて」
「……」
「プライバシーのカケラもなくて」
「……」
「オナニーすらできないって」
「……は」
「で、二年になって初めて、四人部屋になるらしいんだけど」
「……」
「毎日同じ狭い部屋にいたら、どんなに仲の良いトモダチだって、イヤなところが目につくようになって」
「……」
「互いのクセやら習慣やらがどうしようもなくウザくて、そんで成績に嫉妬したり、馬鹿にしたり、最後は、殆どの連中が、口もきかない、目を合わせるのすらいらだたしいくらいになって卒業するらしい」
「……は?」
「『卒業の時、もう、あいつらの顔見なくていいと思ったら、あんなに嬉しいことなかった、医学部に受かったのより嬉しかった』って言ってた。父親が」
「……」
「そういうこと、知ってた?」
「……いや」
「そのくせ、現役合格率は、東よりほんの少しいいくらいでしかないの」
「……」
「それでも、行く?」
 僕は、思わず品川を見た。その横顔が、どこか硬く、俯いていた。いつか、経堂が言った話とは、ずいぶんと乖離していた。僕は、少なからず混乱した。
「僕の知ってる話とは随分違う」
「うん」
「そういうひとたちもいる、って話だろ?」
「うん。そうかもしれない」
「それはついてなかったかもしれないけど、逆に親友になったひとたちもいるだろうよ」
「そうかもしれない」
「僕は、そうはならないよ」
「だから――」
 く、と僕に顔を向けた品川が、眉を顰めて、僕を苛立たしげに見詰めた。僕は、まだ身体の底の方がふわふわとしていて、そして、やはり、彼女の真意のことなどわからなかった。だから、つまらないジョークのつもりで言った。
「そんなこと言って、本当は僕がいなくなるのがさみしいんだろ?」
 口をゆがめて、鼻で笑って、品川はまた視線を逸らした。
「そうだよ」
「……は?」
「さびしいから、行くなって言ってんの」
「は? 何言ってんの? 冗談――」
「さびしい、って言ってんだよ」
「あ……はい……」
「東にしとけよ」
「それは……」
「東がいいよ」
「でも、もう決めたん――」
「東には!」
「……うん?」
「……わたしがいるよ」
「……」
「わたしがいる」
「……」
「だから、東に、してよ」
 いつしか品川の肩が、頭が、身体が、僕の半身にべったりと寄せられていた。
 この会話、この状況で、それが、好意の表明でない、と言い切れる十五歳がいるなら、僕は拍手を送りたい。
 ドキドキした。その時の僕の頭の中に、かほ里も、真沢も、いなかった。ただ女の子の熱と匂いと柔らかさが僕を融かし続けていた。
 でも、そんなものに素直に溶けきってしまうわけにもいかなかった。かほ里も真沢もいない頭の中に、経堂はちゃんといたから。だから、僕は言った。
「僕は、倫生に、行く」
「……そ?」
「うん……受かるかどうかは、わからないけど、受かったら、必ず」
「そ、か……」
「うん」
「うん」
「……」
「……」
 その後、あの最寄りのバス停で、僕は降りた。僕は人生で初めて、運転手にドアを開けて貰った。そんな立場にそれ以来一度もなったことがないけれど。
 でも、そんなことなどどうでも良かった。頷きあって、コトバを失ったその後、僕の手を掴まえた彼女の手の名残が、いつまでも僕の手を湿らせ続けていたから。
 僕が、そのまるで彼女に乗り移られたような手で何をしたかなんて、もう別に言わなくていいだろう?


<#18終わり、#19に続く


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