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僕のニシャ #48【連載小説】

 この物語はフィクションです。実在するあらゆる個人・団体・学校・組織および事件・事象などとは一切関係ありません。
 また、この作品は2015年にKDP・Amazonで電子出版された作品に読みやすくするため改行や若干の言葉の変更などを加え、分割して順次掲載する予定のものです。以前の電子書籍版とストーリーにおいて変更はありません。
 途中からお読みの方、#1(第一話)から最新話までをまとめたマガジンはこちら↓です。



 どうでも良い筈のことが、僕の力を奪っていた。

 僕にはあといくつか試験が残っていた。W大の法学部と文学部もその中に入っていた。でも、C大の問題でも受からなかった自分に、W大の問題がどうにかなるとは思えなかった。僕は、諦念より深い脱力感で、もう部屋にいても参考書すら開く気になれなかった。ニシャも僕の前に姿を現さなかった。

 その日、僕はある大学の政経学部の試験のために早く部屋を出た。でも、駅まで行って、もういやだ、と思った。もう何もできない、と感じた。

 僕は買ってしまった切符を握り閉めて折ると、くるりと改札とは逆の方向へ歩き出し、映画館を見つけて、何がやっているのかなど気にせずに入場券を買った。観客は五、六人くらいしかいなかった。任侠に生きる女が死んだ愛する男の復讐を果たす、みたいな映画だった。多分、そんな感じだった。

 当時の映画館は一度入ると何回でも見ることができた。見ていなかったけれど、動けなかった。何も考えなかった。ただ、そこに座り、僕は、ずっと最後の上映が終わるまで、言葉にならないものを、胸の中でこね続けた。

 部屋に入ると電話が鳴った。宇良さんだった。

 君のところのお父さんは怖い声を出すね、電話番号聞くだけなのに珍しく緊張した、と宇良さんは言った。まあ、そういうひとです、と僕は応えた。どう? と訊かれた。順調に落ちてます、と応えた。宇良さんは? と訊いた。明日、本命だよ、と応えがあった。で? と僕は言った。

「君が泣いてる気がしたの。そういう夢を見た」と宇良さんは言った。

 僕は、ふ、と鼻で笑って、泣いてませんよ、と言った。宇良さんも、笑った。

「でも、古文だと、夢に見ると、会いたがってるってことだよね?」
「さあ……フロイトはどう言いますかね?」
「知らないよ。占いには興味も無い」
「精神分析でしょう?」
「似たようなものよ」

 宇良さんが僕の言葉を待つように沈黙した。僕は、ひとつ咳払いをして、言った。

「ニシャが妊娠しました」
「そう」
「僕の子じゃありません」

 宇良さんが、きっとあの表情をした。そして言った。

「おいで。今すぐ」

 僕は応えられなかった。身体が動かなかった。そして、宇良さんが言った。

「いや、行くよ。すぐに。わたしたちは、今、同じ街にいる」

 僕は、見えるはずの無い頷きで、それに応えた。



 いつか、ニシャが触れた唇同士が、言葉も発さないうちに、触れあった。ニシャを悦ばせただろう舌が、ニシャに三度奪われたことのある舌と、濃密に絡み合った。ニシャの指も辿っただろう肌が、熱く、滑らかに、ニシャを知らない肌と擦れ合った。小さな薄茶色い突起に口をつけるとき、これもニシャが吸ったのだろうか、と思った。ニシャのくぼみを抉った指が、ニシャの内臓の熱さに触れられなかった突起を掴んで艶めかしく動いた。ベッドに倒れ込んだとき、「夏の匂い」がした。

 全て過去だった。無垢なものは――無垢でありたいと祈ったものは――全て過ぎ去った。彼女は細くても女らしい両脚を開き、僕の腰に片手を回した。どんな悲しいときでも、きちんと役割を忘れないその部分が滑稽だった。彼女は、それを掴んだまま、その入り口の寸前まで導いて、僕を見詰めた。中間の表情だった。

「これを、入れたら、君は、ここまでの人生で賭けてきたものを全て失う。美しい想いが、全て、無に帰す。積み重ねた時間が、何の意味も無かったことになる。それでもいい?」

 僕は頷いた。もともと何の意味もない、ただの思い込みだ、そう思った。彼女は手を離した。

「なら、導くのはここまで。後は自分の決意で、それを入れて」

 僕は先端をそこに当てた。

 いいのか? それでいいのか? 

 宇良さんが、僕を見詰めていた。およそ、性交のときにあるべき、濡れた瞳ではなかった。鋭く深く僕の胸の内を刺すような光だった。僕は目を瞑った。もう一度声がした。

「もう二度と美しくあれる可能性はないかもしれない。自分の言葉を裏切った醜い心を抱えて退屈な日常を生きていく、その覚悟はある?」

 僕は、また、頷いた。頷いて、動けなくなった。熱いよ、と彼女が言った。手が頬に添えられた。彼女の形の良い乳房の上に、ぼたぼたと、落ちていくものがあった。君の涙は熱い、と彼女が言った。力が抜け、身体が彼女の上に落ちた。乳房の柔らかさに、性的なものをもう感じなかった。僕は、文字にならない声を上げた。僕の頭をしっかりと抱き締める彼女の心臓に訴えかけるように、僕は泣いた。

 その後、あまり言葉は交わさなかった。でも、僕が落ち着いた時、照れ隠しで、訊いた。

「宇良さんって、一体どんなひとなんですか?」
「ん?」
「僕は宇良さんのこと何も知りません」
「ああ、そうね」
「何で三浪なのか、とか、デートしてたのは男なのか、女なのか、とか」
「興味ある?」
「ええ」
「でも、教えない。過去を語るのも、自分について明かすのも好きじゃないから」
「はあ」
「謎が多い方が、いろいろと楽しいよ」
「そんなもんですか」
「相手に対する想像力が消えた時、愛情というのは死ぬものだと思う」
「はあ」
「きっと、そう」

 宇良さんは起き上がり、煙草に火をつけた。煙がゆっくりと部屋の中空を漂っていた。それ、美味しいんですか? と僕は訊いた。吸ってみる? と宇良さんは吸っている煙草を僕に差し出した。僕はつまむように受け取って、一口吸ってみた。苦い、辛い。それしか思わなかった。宇良さんは、僕がその煙草を返すと、忘れるなよ、と言った。

「煙草も酒も、初めて君に教えたのは、わたしだ」

 僕は苦笑した。多分、僕はこの先煙草を吸わないだろうなと思った。

 さて、寝ようか、と宇良さんは言った。僕たちは裸のまま、朝まで眠った。ずっと抱き締められていた。



 朝、僕は試験に向かう宇良さんを駅まで送っていった。

「すみません、本命の前だったのに」
「いや、受かるよ」
「え?」
「君にわたし由来の重荷を背負わせたくもないし」
「はあ、すみません」
「ありがとう、だ」
「あ、ありがとうございます」
「ま、落ちたところで、三浪も、四浪も変わらないよ。……これ笑うところ」
「はあ、は、ははは……」

 宇良さんが、僕の耳に口を寄せた。

「後ろにニシカちゃんがいる」
「え?」
「あーあ、あんな目立つ子が隠れてるつもりだよ、カワイイね」
「はあ」
そして、何かを思いついたように、僕に言った。
「仕掛けをしよう」
「は?」
「君は、わたしとしたことにするんだ」
「え?」
「ニシカちゃんに、そう言うと良い」
「はあ」
「どんな顔するか興味あるし、きっと何年か後に真実を明かした時、大きなサプライズになる」
「そんなもんですかね」
「嘘をつくのはいや?」
「いえ」
「なら、そうすると良い」
「はあ」
「……きっと」
「はい?」
「それでそんな驚きをニシカちゃんに与えるようになったとき、多分きっと三十くらいからかな、そのくらいになったら、君はいい男になると思う」
「はあ」

 じゃあね、と宇良さんは、多分見せつける意味で、僕の唇に軽くキスをして去って行った。

 前にも三十になったらって言われたな、と思った。悪い気持ちはしなかったけれど、三十まであと十年以上もいい男じゃないのか、と思うと少し気分が重くなった。

 それにしても、これって流行ってるのかな、とちょっと首を傾げながら振り向くと、少し離れたところにニシャが立っていた。僕は、見詰めながら、歩み寄り、おう、と声を掛けた。ニシャも、おう、と応えた。

「景子さん、だよね」
「そうだよ」
「何で、いるの?」
「何でかな」
「キス、してたよ」
「そうだな。お前もしたろ?」
「うん」
「だよな」
「そういうこと?」
「悪い?」
「悪くない」
「お前、佐藤ともやってたんだって?」
「……悪い?」
「別にいいけど?」
「うん」
「なら、良いよな」
「うん」

 僕は歩き出した。ニシャがその後をついてきた。そして、少し小走りに僕に並んだ。

「わたしのせい?」
「何が?」
「もう、特別じゃ、なくなった?」
「お前、自分のしてること、わかってる? してきたこと、憶えてる?」
「憶えてる」
「自分は良くて、僕はダメなのか」
「そうじゃない。そうじゃないけど」
「だろ?」
「うん」
「そうなんだよ」
「でも」
「何?」
「わたしは、ヒトシの特別が、良かった」
「勝手なこと言うな」
「特別だったものが、壊れた」
「お前が、壊したんだ」
「そうだね」
「そうだ。大体――」

 ニシャが立ち止まった。僕も立ち止まり、振り向いた。まあ、泣かない女だ。でも、悲しい表情をしていた。見慣れないそんな表情のせいで、僕は言葉が続かなくなった。

「特別だよ、ヒトシは」
「あ、ああ」
「そうなった」
「……うん」
「いつのまにか積み重って、ヒトシは特別になった」
「うん」
「大生さんより」
「うん」
「わたしにとっての特別になった」
「うん」
「たとえ、ヒトシにとってわたしが特別じゃなくなっても」
「うん」
「特別だ」

 最も言わせたかった言葉が現実に発せられて、冬の乾いた空気の中に消えていった。

 いまいち実感はなかったけれど、言わせたのは自分だった。

 自分の長い苦しみの報酬が、いま与えられた。

 複雑だった。

 でも、その複雑な心境の中に、喜びが、たまらない喜びがあるのを、情けない僕は、無視できなかった。

 覚悟、と思った。

「子供どうするの?」
「産む」
「大学は?」
「行く」
「は?」

 滅茶苦茶だ、と思った。でも、ニシャが滅茶苦茶でなかった試しは一度も無かった。

 ため息みたいに笑いが出た。ニシャが僕を見詰めていた。

 相変わらず、見かけだけはメガミさまだな、おい、と僕は心の中で毒づいた。

 クソ忌々しくて、腹が立って、悲しくて、虚しくて、そして、まだ、ニシャが好きだった。

 何も考えない言葉が口をついて、出て行った。

「じゃあ、僕と、結婚しろ」
「え?」
「方便じゃなく、本当に」
「でも、だって……」
「学生結婚で、すぐに」
「え?」
「でも、浪人かもしれないけどな」
「だけど……」
「つべこべ言うな。結婚すれば、その子は、僕の子になる」
「だけど……」
「お前を支えてやれる」
「うん」
「頼まれたからな。章雄さんに」
「うん」
「お前に罪はあっても、子供に罪は無い。片親だと寂しいときが多い」
「うん」
「わかるだろ? 僕たちは」
「……うん」
「結婚しよう、ニシャ」

 ニシャが空を見上げた。どこまでも続きそうな沈黙の後に、わかった、と聞こえた。僕は手を伸ばした。ニシャが僕に視線を戻し、そして、頷いて、結婚しよう、と言った。年貢の納め時、という言葉が浮かんで、なんか感動的じゃないな、と思った。ニシャが僕の手を両手で握った。ああ、これが貧乏くじの感触か、と僕は思った。できましたよ、覚悟、僕は心の中の章雄さんにそう言った。僕はニシャを見詰め、笑った。その笑顔は、恐らく、今までで一番屈託の無い「作品」だった。

 そんなものの視界の端に、近づいて来る人影があった。マスクをしていた。サングラスだった。それは徐々にスピードを上げ、ニシャの背後に、回り込もうとした。別に勇敢だったわけじゃない、ただ反射的に、それとニシャの間へと身体が動いた。次の瞬間、それは、腕を振った。僕の顔が濡れた。それは走り去って行った。わけがわからなかった。僕は袖でそれを拭った。ニシャが、ことを理解できない様子で、え、何、どうしたの大丈夫? と言っていた。顔が熱かった。左目が開けられなかった。あ、ああああ、と声が出た。目が、熱くて、しみて、痛くて、僕はうずくまった。別に何のパロディでも無く、僕は、目が、目がぁ、と叫んだ。誰か、誰か助けて下さい! とニシャの悲鳴に似た叫び声が響いていた。



「相手の顔は見ましたか」刑事は訊いた。
「いいえ」僕は応えた。

 でも、わかる、と思った。言わなかったけれど。

「何か恨まれるようなことは?」
「いいえ」

 いっぱいありすぎますが、多分あいつです、と思った。言わなかったけれど。

「女の子のほうはどう? そっちを狙った可能性もあるし。誰か、心当たりで、良いんですけど」
「いいえ、本当に」

 いや、あいつしかいません、と僕は思った。言わなかったけれど。

「何か思い出したら、些細なことでもいいです、いつでも連絡してください」
「はい」

 実は、思い出してるんですけどね、と思った。言わなかったけれど。

「通り魔かな、やっぱり。手がかりがなくて」
「さあ」

 いやきっとクソのニオイがしますよ、と思った。言わなかったけれど。

「お大事に」

 刑事は去って行った。何を大事にするんだよ、と思った。

 それは、思い切り、叫んだ。



 多分全国ニュースで僕のことが報じられるのはあれが最初で最後だ。

 W大は受験できなかった。でも、父に連れられて帰った家に、三月の中旬、追加合格の通知が来た。C大法学部だった。W大では無かったけれど、父は何も言わずに入学金を出してくれた。褒めてもくれなかったけれど。

 ニシャは、同じ大学の文学部に、合格していた。うん、腐れ縁の貧乏くじだ。

 僕は、父に入学したら結婚することを報告した。父は、そんなに焦らなくていいんじゃないか、と珍しく歯切れ悪く言った。でも、ニシャが、わたしがヒトシくんを支えます、と強く訴えかけた。父は長いこと躊躇って、でも、結局、頷いた。

 僕とニシャは、一緒に住むことになった。うきうきのキャンパスライフを、アツアツの新婚生活と同時に送れる、まったく素晴らしい出来事だった。

 まあ、それも、左目の視界を失ったことの代償として相応なのかは、僕にはわからなかった。


<#48終、#49へ続く>

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