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僕のニシャ #12【連載小説】

 この物語はフィクションです。実在するあらゆる個人・団体・学校・組織および事件・事象などとは一切関係ありません。
 また、この作品は2015年にKDP・Amazonで電子出版された作品に読みやすくするため改行や若干の言葉の変更などを加え、分割して順次掲載する予定のものです。以前の電子書籍版とストーリーにおいて変更はありません。
 途中からお読みの方、#1(第一話)はこちら↓です。


 

 生徒玄関に立って、僕は雨空を見上げていた。

 別に雨に濡れることがいやだったわけじゃない。さっきから、ぱっと、まがまがしく光っては、数秒遅れで地面を揺らす(ように感じる)雷鳴に、足が竦んでいただけだった。

 ついてない、ついてない、と僕は何度も繰り返し思った。何もかも上手く行ってない。

 ニシャのせいだ、と思った。

 なのに、全部の責任を押しつけるのは、どうにも卑怯なような気がした。少なくともキスはしたのだ。何も無ければ、自分だってニシャとそれ以上のことをしていたかもしれないのだ。掛川を裏切って、父さんを裏切って。僕はそれまで真っ白だったものにべっとりと泥を塗られたような気がした。自然と指が唇に触れた。

 その泥が、甘かった。

 その甘みが、僕を揺らし続けているのが、許せなかった。

 忘れよう、と思った。ニシャがいなかった頃のように、まるでいないかのように、振る舞おう、イットーとリュウもそのうち、あいつがどんな女かわかるときが来る、それまでは待とう、僕はそんな風に自分に言い聞かせた。

 言い聞かせたそばから、肩が叩かれた。僕に平気で触れてくる人間のリストはそれ程長くない。一番予想したくない人間の名前が頭に浮かび、実際その通りだった。

「よ」ニシャが言った。
 僕は応えなかった。
「雨だね」
 僕は応えなかった。
「雷もだ」
 僕は応えなかった。
「帰らないの?」
 僕は応えなかった。
「傘、忘れた?」
 僕は応えなかった。
「そう」
 僕は応えなかった。
「実は、雷怖い?」
 僕は応えなかった。
「手引いて一緒に帰ってあげようか?」
 僕は応えなかった。
「なあんて、幼稚園児のころじゃあるまいし」
 僕は応えなかった。
「ほい」
 ニシャが僕の肩をそれで叩いた。僕は応えなかった。
「清乃ちゃん、まだ教室にいるよ」
 僕は応えなかった。ニシャは、それを僕のポケットに無理矢理突っ込んだ。
「お礼だっけ? なんか約束あるんでしょ? 行ってきなよ」
 僕は応えなかった。
「じゃあね」

 僕は、断固として、応えなかった。

 ニシャは赤い傘を開き、雷鳴轟く雨の中に足を踏み出した。僕はその傘が校門を出ていくまで動けなかった。

 やっとの思いで、硬い手をポケットに突っ込むと、それは長村圭に奪われた筈の財布だった。中を見た。一万円札が、そのままに入っていた。嬉しさよりも、その数日で刻み込まれた悪い想像の回路の方が、先に動いた。それでも、僕はニシャの後を走って追いかけることなんてできなかった。

 僕はそんなドラマチックな男じゃない。今も、その時も。

 僕はふらふらと教室へ戻った。掛川が他の女の子たちと何だかひそひそと話をしていた。というか、掛川は女の子たちの話をただ聞いていた。そして目が合うと、ちょっとごめんと言いながら、僕に近寄って来て、袖を引いて、廊下へ連れ出した。

 もう生徒たちもまばらで、どんな話をしても差し支えない雰囲気はできていた。それでも掛川は声を落とした。

「あのね」
「うん」
「噂が広まってる」
「うん」
「戸廻さんの」
「うん」
「長村圭と」
「うん」
「その……いなかったでしょ? 午後の授業」
「うん」
「昼休みにね、長村の教室に行ったんだって」
「うん」
「それでね、その……」
「うん」
「そのままふたりでどっか行ったんだって」
「うん」
「それで、帰ってこなくて、それで……つまり……その……」
「うん、わかった」
「……そういうこと」
「うん」
「何も、思わない?」
「うん」
「本当に?」

 僕は笑みを作った。我ながら見事な「作品」だったと思う。むしろ掛川が戸惑った表情をした。僕の声も明るく出て行った。

「そうだ」
「何?」
「お礼、するよ」
「え?」
「するよ」
「だって……」
「金、戻って来たんだ」
「返してくれたの?」

 僕は笑みを貼り付けたまま、返答を選べなかった。それらしい嘘を思いつく事さえ。掛川はくっと肩の力を落とした。きっと普段と変わらないその表情で、色んなことを瞬時に考えたんだ。そして、言った。

「使っちゃだめだと思う」
「うん」
「っていうか、あたしにそれを使わないで」
「うん」
「ごめん」
「うん」

 掛川は教室に戻って行った。僕は少し間隔の開いてきた雷鳴を聞きながら、もう少し時間を潰してから帰ろう、と思った。

 学校で時間を潰すなら、図書室が最適だ。でも足が、そこに向かわずに、体育館に僕を運んだのは、何故だったろう? 

 長村圭の顔を見たかったのだろうか。見てどうしようとしたのだろうか。彼は練習着を着て、僕なんかが到底飛べない高さを、自由に舞っていた。彼が寡黙で、お調子者ではなかったこと、部活でも恐れられていて、どちらかと言えば、孤独だったことは、きっとニシャの評判にとって良いことだったに違いない。見ている限り、彼がその午後起きたことを言いふらす素振りも無かった。

 僕はステージで体育座りしながら、あ、ほんとにダンク決めてら、とただ口をぽかんと開けていた。

 小雨になった中を、それでもじっとりと濡れて家に着いたとき、待っていたのは、例によって花菜だった。明らかに不機嫌な表情で、花菜は顔を背け続けた。

「来ても良いって言った」向こうを向いた顔から声がした。
「ごめん、ちょっと、遅くなって……」頼りない声が出た。
「来ても良いって言った」
「うん、来ても良いんだ」
「帰ってこなかった」
「うん、ごめん」
「来ても良いって言ったのに」
「うん、ごめん、ほら今、帰ってきたから」
「もう、夕方過ぎた」
「うん……そうだね」
「嘘つき」
「うん」
「……帰る」
「うん」

 地団駄でも踏むように、花菜は帰って行った。僕はどんどん気分が落ち込んでいくのを止められなかった。僕はコドモだ、と思った。家事を任されて、同年代とは違う生活をして、それが隠れた優越感だったけれど、いざとなると、ただ振り回されて、床に這いつくばって、小さなものとの約束も守れない、コドモにしか過ぎなかった。

 早急にオトナにならなくちゃ、と思った。

 でも、早急になれると思っているところが、コドモの証拠だった。

 夕飯を支度した。父は帰ってこなかった。僕は味のしない食事を最後まで終えることができなくて、ソファーに倒れ込んだ。財布を取り出し、一万円を広げた。戻って来たことを喜ぼうとした。でも、考えれば考えるほど、それは「自分のもの」ではなかった。

 掛川は、あたしにそれを使わないでと言った。

 僕もこれは使っちゃいけないと感じた。

 額面とは別の気味の悪い重みが、そこに宿っていた。

 返そう、と思った。でも、もうニシャには会いたくなかった。ニシャのフリを続ける誰かを見ていたくはなかった。

 でも、そんな心のどこかに期待はなかっただろうか? 僕たちは完全に誰かを拒絶するなんてことができるだろうか? 理解し合えないふたりが、いつかわかりあえる可能性は?

 そんな風に心が揺らぐのは、もしかしたら、ただ自我が固まっていなかったせいだったかもしれない。

 そうだ、きっと僕は期待していた。都合が良すぎても、もっと明るいものを。電話が鳴った。隣からかかってくるはずがない。公衆電話からだった。僕は、その声を聞いて、家を飛び出した。

 暗い公園でも、その居場所がすぐにわかった。それが自分の特技だとは思わない。彼女の、体質なのだ。そう、そういう体質なんだろう。僕には無い。掛川にも無い。リュウやイットーや他のクラスメートにも。どうしたって、眼が彼女をとらえてしまう。とらえてしまえば、囚われてしまう、そういう体質。

 僕は、心の中の葛藤も、拒絶も、何もかもを、踏み越えさせられて、ニシャの前に立った。

 前日、まだ関係の壊れ切っていなかった僕たちが話をした東屋のベンチで、ニシャは空中に目を遊ばせているように見えた。本当に僕にはバリエーションが少ない。で、何? と掛川にもそうしたように、言った。ニシャは、座れば? と首を傾げた。僕は座り、ニシャと向かい合った。

 やっぱり、発光でもしているように、その姿はくっきりと見えた。

 ニシャは口を開いた。

「イットーとリュウとさっきここで話をした」
「そう?」
「仲直りしたよ」
「どうやってさせた?」
「どうって、ただ、わたしの考えを言っただけ」
「だから、何を」
「一言で言うと、わたしは誰のカノジョにもならない、かな」
「納得したのか? それで」
「まあ、よくわからないけど、イットーは泣いてた」
「リュウは?」
「何も言わなかった」
「それだけのことで、本当に納得したとは思えない」
「うん、まあ、仲直りしないと、もうどっちとも二度としない、とも言ったかな」
「はあ?」
「とにかくこれで、全部返した」

 僕の頭は自然とうなだれた。ニシャは「返した」と言ったけれど、それはもう元の形をしていないことは明白だった。

 仮にその年頃の少年の、きれいごとではない性欲が一時的に二人を「仲直り」させたとしても、これもきれいごとではない独占欲と、こちらはきれいごとに分類されるだろう恋心が、二人にそれまでなかった緊張関係を強いるだろうことは間違いなかった。僕は訊いた。

「これからも……その……するのか? 二人と」
「うん。するよ。向こうがしたければ」
「そうですか」

 僕は尻ポケットに手をつっこみ、財布から一万円札をとり出して、ニシャに向かって手を伸ばした。

「え?」
「いらない」
「なんで?」
「僕のじゃない」
「あれ? 違う札だった? こだわり?」
「いや、多分同じ札で、僕のものだったけど、今は違う」
「何それ?」

 僕は立ち上がり、ニシャの顔先にそれを突き出した。ニシャはそれを驚いた様に見たけれど、手を出さなかった。僕は訊いた。

「これ、お前の身体の代金だろ?」
「え? 違うよ」
「違う?」
「飴をね、買って貰ったの」
「は? どこの世界に飴一個で一万払うやつがいるんだよ」
「いるのね、そういうひと」
「嘘、つくな」

 ニシャが微笑みながら、鼻で大きく息を吐いた。

「そうね。飴の食べ方は、教えてあげた」

 そりゃ午後の授業全部さぼるくらい大層特殊な食べ方だったんだろう、と皮肉で返すユーモアはそのときの僕にはなかった。遠回しな示唆が、ただ苛立たしかった。何ソレ、とだけ口をついた。

「まあ、だから気にすることない。折角取り戻したのに、清乃ちゃんにお礼しなかったの?」
「オトナみたいな言い方で、ごまかすなよ」
「ごまかしてないけど?」
「とにかく、バイシュンした金なんか、受け取れない」

 僕はニシャの手を乱暴に取り、札を無理矢理握らせた。ニシャは悲しい顔なんてしない。この後もいつもそうだ。僕だけが、感情を高ぶらせて、怒って、声を荒げる。なのにニシャは笑っている。ケンカにならない。一向にダメージを与えられる気がしない。切実な感情が空回りして、自分に戻ってくる。ニシャは、この時もやはり、笑顔で言った。

「まあ、好きになるのが、ちょっと難しかった」
「そうかよ」
「うん、バイシュンかもね」
「ああ」
「初めてだ」
「ああ」
「イットーとリュウも」
「金取ってたのか?」
「違う違う」
「あ?」
「身体を餌にして、何かをしたこと、何かを強要したこと、代償を得たこと」

 僕は、頭をあげることができなかった。ニシャは言葉にはしなかったけれど、それは、他でもない、僕のためだった。それはもちろんニシャが自分の後始末を自分でしただけとも言える。でも、僕は、ニシャの何食わぬ顔の、その奧にあるものを、想像せずにはいられなかった。

 表面上あまりにも泰然としすぎていて、かえって深い悲しみが潜んでいるような気がしたんだ。

 どうしてあの小さい女の子がこうなった。理由があるんじゃないのか? 何か僕なんかに理解もつかないものが。ニシャは、うなだれ続ける僕を見て言った。

「なんか、色々想像してるでしょ?」
「いや……」
「わたしから、悲しい物語とか読み取ろうとするのやめてね」
「そういうわけじゃ……」
「ならいいけど」

 ニシャはすっと立ち上がった。そして、僕の手を取ると、さっきの一万円札をその上に乗せた。僕は、それを慌てて押し返した。

「いらない、これは――」
「持ってて」
「いや、でも――」

 ニシャが、見詰めていた。柔らかく、真剣に。力が、抜けていくのがわかった。ニシャは、ぐっと握るように僕の手に札を押し込めた。

「持ってて、お願い」

 僕は、もう拒否できなかった。理屈じゃない。そういう女の子なんだ。少なくとも僕にとって。僕は掌の一万円札を握りしめた。それは自分がこの女の子にとって特別だという証拠のように思えた。でもそれはあまりにも頼りない希望的観測だった。

 僕は、強く、この女の子の特別でありたい、とその時思った。

 思ったけれど、どうすればいいのかは全く思いつかなかった。
 
 それが身体の繋がりではないことを、はっきりとニシャは行動でしめしていた。

 なら、なんだ? 
 
 その問いが、文字になって僕の頭の中に質量を持ったような気がした。ニシャが、じゃ、帰ろうか、と言った。うん、と頷いた。

「それとも、してく?」
「しないって、こんなとこで」

 そう、とだけニシャは言った。帰り道、ニシャは僕の手をいつのまにか握り、少し先を僕を導くように歩いた。

 僕はそれも拒否できなかった。


<#12終、#13へ続く>

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