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僕のニシャ #11【連載小説】

 この物語はフィクションです。実在するあらゆる個人・団体・学校・組織および事件・事象などとは一切関係ありません。
 また、この作品は2015年にKDP・Amazonで電子出版された作品に読みやすくするため改行や若干の言葉の変更などを加え、分割して順次掲載する予定のものです。以前の電子書籍版とストーリーにおいて変更はありません。
 途中からお読みの方、#1(第一話)はこちら↓です。


 

「どうしたの?」ニシャが首を傾げた。
「そんなあたりまえのことみたいに……」
「え? 別にたいしたことじゃないじゃない。昨日も言ったけど」
「あ?」
「ついてるものを使って何が悪いの?」
「ついてるものって……そりゃあ、ついてるけど……ついてるけど、まだ年齢が……」

 廊下に響く自分の声に驚いて、僕は声を潜めた。

「じゃあ、大人になるまで、鍵でもかければいいじゃない、縫って閉じとけばいいんだ、法律で。大体自分だって、昨日その気になったくせに。自分にもできることを、わたしには止めるの?」
「そりゃあお前が……誘ったから。それに……しなかった」
 声が余計小さくなった。ニシャは階段のところまできて、立ち止まった。
「でも、やろうとした。やれる準備はできていた。それは事実。年齢のことを言うなら、それは、やったも同じことでしょ?」

 怯む僕に、ニシャがぐっと顔を近づけた。そうでしょ、と言ってニシャは僕の額を指で押した。

 その笑顔に、僕はかっとなった。

「わかった、そうだ。その通りだよ。そうじゃなくて、だから、普通、ひとりだけとするもんだろ? そういうことは」
「どうしてひとりとだけしなければならないの?」
「それは……だから、それは……テイセツとか、ドウトクとか……」
「何ソレ?」
「アイジョウ……そうだ愛情だよ、たったひとりを想って、たったひとりに想われて、そうしてするもんだろ? 愛情の証だろ? お前、イットーとリュウのどっちが好きなんだよ」
「どっちも好きだけど?」
「はあ?」
「どっちとも、別にいやじゃない」
「その程度の気持ちでやってるのかよ」
「その程度の気持ちでもできるのは何故?」
「は?」
「誰とでもできることを、誰とでもして、どこが悪いの?」

 ぱっと、目を見開いてニシャは首を傾げた。言い合いの売り文句でも買い言葉でもなく、素直に、まるで、幼児が母親に尋ねるように、ニシャは僕を見詰めていた。僕は、目を逸らした。

「オカシイよ」
「そうかな」
「インラン」
「そう思いたければ」

 ニシャはそう言うと、階段に足を乗せた。

 僕は、自分の中に、ニシャに対して言い返せるだけの考えも言葉もないことが悔しかった。

 悔しさに混じって、この幼なじみに対する期待とか、好意とか、独占欲が渦巻いていて、そのどれもが満たされないものであることを僕は言葉でなく、理解した。

 ただ、口が動いた。

「そうやって、誰とでもやる女が、子供と夫を捨てて家を出て行く」
「ん?」ニシャは少し顔をこちらに向けた。
「残された人間が、その女を必要としていた人間が、どんな気持ちになるかなんて考えない」
「それで?」
「どんなに悔しいか、どんなに寂しいか、どんなに悲しいか、お前みたいな女には絶対理解できないんだ」

 ニシャはすっと完全にこちらを向き、階段を下りて、僕に近寄った。そして、あの飴の包みを差し出した。

 僕の手はそれを払った。何も言わず床に落ちた飴を拾い上げると、ニシャは掌を僕の頬に当てた。僕はそれも振り払った。でも、すぐにまたニシャは僕の頬を触った。何度押しのけても、ニシャはそうした。

 押しのけながら、でも、その場を動けなかったのは、もしかしたら、本当は触っていて欲しかったからかもしれない。拒絶しても、繰り返し触れてこようとするその気持ちと意志を確かめたかったからかもしれない。

 ニシャはとても、とても優しく微笑んだ。

「寂しかったんだね」

 ぐっと、息が詰まった。

 ニシャは、そして僕を見詰めたまま、悔しかったんだね、寂しかったんだね、悲しかったんだね、と繰り返した。僕はまた言葉を失い、目を逸らした。

 破裂しそうだった。涙腺が壊れそうに思った。でも、耐えた。男は泣いちゃいけない、皆がそう言っていた。僕もそう思った。いつのまにか両手で包まれていた顔を振って、僕は階段を上った。

 後ろから、ごめんね、と小さな声がした。

 僕は振り向かなかった。

 教室の手前まで来たとき、激しい物音がした。異変に敏捷に反応できるひととできないひとがいるとすれば、僕は後者だ。ん? とくらいは思ったけれど、そのまま教室に入ろうとした。

 しかし、入れなかった。中からの悲鳴とともに、掴み合い、もつれ合いながら、二人が出て来たからだ。

 イットーとリュウだった。

 お互いを罵り合い、ケンカの理由を確認しながら殴り合うシーンをよく見るけれど、実際にはそんなことは殆どない。二人は襟元を絞めるように掴み合いながら、顔を真っ赤にして、互いをにらみつけていた。

 例え口上が無くても、理由はわかった。後ろからついてきていたこの少女のせいだった。

 慌てるより先に、ため息が出た。クラスの数人が、その始末を確かめようと入り口から顔を出していた。止める気なんかさらさらなさそうだった。僕が止めるしかない、そう思った。

 おい、やめろよ、と声をかけた。聞こえていたとしても、それでやめるわけがない。僕は、これがお前のしたことの結果だ、という思いを込めて、ニシャを振り返った。ニシャは少し驚いたように目を見開いて、おーケンカだ、と言った。事態を収拾するのにこの女はまったくあてにならない、と諦観した僕は、二人を引き離すために割って入ろうとした。

「やめろよ」と僕は叫んだ。

「!」とか「……」とかしか表現しようのない音が、二人から発せられた。荒い息が僕にもかかった。あの二人のどこに? というくらいの力が拮抗して固まっていた。僕は言った。

「お前ら、無駄だよ、こんなことしても。誰とでもやる女なんだよ、そういう女なんだ」
「っさい!」

 イットーが僕を押した。僕はよろけ、二人の身体はそれで離れたけれど、そのせいで、リュウに拳を振るう間ができた。きっと本人の期待したほどにはきれいにヒットしなかった。イットーを怯ませることもなかった。

 すぐにイットーはまたリュウの襟元を掴んだ。リュウは子供が駄々を捏ねるかのように手を振り回した。何発かは僕にも当たった。それでも止めようとした僕は、もつれ合う二人に圧されながら二歩、三歩と後ずさりすることになった。真剣さがそのままの強さで僕を圧していた。

 だから、後ろを気にする余裕なんてなかった。壁なんて無いはずの方向に、壁があった。

 次の瞬間、髪の毛が何かに掴まれた。視界の端から、大きな足がイットーの腹に埋まって行くのが見えた。イットーがうずくまるのより先に、岩みたいな拳がリュウの顔面に飛んでいった。リュウが崩れ落ちた。

 僕は首が伸びるような思いをしながら、髪の毛を掴むものに手を伸ばした。手だとわかった。でも、自分と同じ種類の手ではなかった。それは僕の頭を引き上げ、その持ち主に向けさせた。そこに至って、僕はようやく「やばい」と思った。

 長村圭、だった。

 それを認識したときに、僕はその後起こるだろうことを覚悟した。



 一言で言うと、ボコボコにされた。

 二言だと、ひどく、ボコボコにされた。

 三言なら、ひどく、ボコボコにされて、財布をとられた。

 僕だけが! 

 主に胴体を殴られたり蹴られたりしたおかげで、顔には殆どダメージがなかったけど。

 訴えたらいい、先生に言うべきだ、と言うひともいるかもしれないが、コドモにはコドモの世界で起きたことをオトナに告げ口するべきじゃない、という暗黙の了解があるし、自分が圧倒的に負けて、その上チクるなんて屈辱以外の何ものでもなかった。

 負けた? いや、勝負にもなってない。天災とか、事故に巻き込まれたようなものだ。そう思うよりなかった。

 なんとか立ち上がって、呆然と立ちすくんでいたイットーとリュウを睨んだ。相当恨みがましい目つきだった筈だ。二人は少し目を合わし、そして、それでも仲直りはできないと言わんばかりに顔を背けて、それぞれ別の方向へ歩いて行った。

 ニシャが、おお、やられたねー、と言った。僕は、そのとき人生で初めて、よくテレビで聞く、このアマあ、という台詞を実際に呟いた。

 あくまで、呟きでしかなかったけれど。

 皆は、もう給食を終えて、昼休みそれぞれの娯楽を楽しんでいた。多少僕に同情と憐れみと好奇心の目を向けながら。僕は席に着いた。掛川がパンと牛乳を僕の机に置いて、言った。

「坂上の分、あの二人がばらまいちゃった」
「うん」
「取っといた。食べて」
「うん」
 掛川は僕の身体を眺めた。
「足跡、いっぱいついてる」
「うん」
「はらってあげる」

 掛川はそう言うと立ち上がって、僕の学生服の背中を軽く叩いた。叩き続けた。イットーもリュウもいなかったせいだろう、ニシャが何食わぬ顔で僕たちに寄ってきた。僕の学生服の汚れを払い続けながら、掛川は言った。

「誰のせいかしら?」
 ニシャは少し眉を上げて、応えた。
「わたし?」
「そう思う?」
「そうね」

 その二言、三言の遣り取りが、どれほどハイコンテクストなのかは、僕にはわからなかった。それどころじゃない痛みと動揺と悔しさで、自分の都合の言葉が、二人の会話とは関係無く出て行くのを止められなかった。

「お金、とられちゃった」
「うん」掛川が頷いた。
「折角、父さんがくれたのに」
「うん」
「うちは、滅多にそういうことないのに」
「うん」
「珍しく、父さんが、くれたのに」
「うん」
「お礼……できなくなった」
「うん、いいよ。大丈夫」
「今日、するって約束したのに」
「うん」
「ごめん」
「いいよ」
「ごめん」
「いいよ」

 僕の学生服の汚れが落ちたのを見て、掛川が穏やかな微笑みを浮かべた。

 今度こそ、泣きそうだった。キスで裏切り、妄想で汚し続けている相手が、誰よりも僕に優しかった。

 情けなかった。恥ずかしかった。僕は膝の上で痺れる拳を握りしめた。ところでさ、とニシャが平常運転の声を出した。僕は顔を上げた。通常営業のニシャの顔があった。何? と僕は訊いた。

「やっぱり、ふたりは恋人同士だよね?」とニシャは訊いた。
「え?」僕と掛川が同時に応えた。
「うんうん」
「こんなときに何言ってるの?」掛川が、抑えた声で言った。
「いや、そうだよなー、と思って」
「違うって言ったでしょ?」
「そう?」
「そう」
 ニシャは少し斜めに目を上げて、何でも無いことのように訊いた。
「で、いくら入ってたの?」
「え?」
「財布」
「……一万円と小銭」
「ふうん、金持ちだねー」

 そう言いながら、ニシャは離れていった。

 僕は呆気に取られて、その背中が教室を出て行くのを見ていた。ふと気付いて掛川の顔をのぞいた。同じように、掛川もニシャを見ていた。その目元がいつもよりつり上がっているように、僕には感じられた。

 昼休みは終わった。イットーも、リュウも、いつのまにか席についていた。僕はじわりと熱を持った痛みを忘れたくて、現実逃避するみたいに真剣に授業を受けた。でも、何も聞こえなかった。振り返らなかった。

 だから、ニシャが午後の間、いなかったことに気付かなかった。


<#11終、#12へ続く>

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