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僕のニシャ #45【連載小説】

 この物語はフィクションです。実在するあらゆる個人・団体・学校・組織および事件・事象などとは一切関係ありません。
 また、この作品は2015年にKDP・Amazonで電子出版された作品に読みやすくするため改行や若干の言葉の変更などを加え、分割して順次掲載する予定のものです。以前の電子書籍版とストーリーにおいて変更はありません。
 途中からお読みの方、#1(第一話)から最新話までをまとめたマガジンはこちら↓です。



 そして、十二月の雪の深夜。僕がしていたことと言えば、もう言うまでもない。オナニーと勉強だ。

 あれが普通なのかわからないし、今ではそんな精力も無くなったけれど、僕は、勉強が一区切りつく度に、ひとりの手慰みをしていた。一晩に、三回、四回はしていたように思う。

 でも、その頃になると、それは、体調と心理面を整える健康法くらいに思っていた。小便や大便なんかの排泄と大した変わりもない価値しかなかった。ごみ箱に捨てなければならないティッシュではなく、いつでもトイレに流せるトイレットペーパーを使うという経験による知恵もついた。

 その日も、僕はそれをトイレに流して、部屋に戻った。それでも、なんとなく落ち着かなかった。センター試験を受ける国公立志望の生徒に比べると、まだそれほど差し迫ってはいなかったけれど、確かに受験日は近づいてきていた。

 冬の講習はいかないことに決めていた。家でしっかり暗記に励んだ方が良いと判断したからだ。でも、やっぱり行った方が良かったのかもしれない。やらなければならないものがあまりにも多いような気がし始めて、上手く集中を保てないことも多かった。

 その時もそうだった。僕は机の前で、ため息をついた。外の空気でも吸いに行くか、と決めた。僕はコートを着、階下に降り、扉を開けた。雪が静かな夜の中を舞い降りていた。空を見上げ、深呼吸した。息が白かった。ぶるっと身体が震えた。散歩でもするつもりだったけれど、寒さのために、やっぱりやめよう、と家に身体を向けた。

 その後ろから、ヒトシ、と呼び止められた。驚いて振り向いた。ニシャが嬉しそうに笑っていた。

「どうした?」
「ん、気分転換」
「あ、そう」
「ヒトシは?」
「気分転換」
「同じだ」
「だな」
「うん」

 僕は、家に入ろうとした。ニシャは、え? もう戻るの? と意外そうに言った。ああ、やっぱ、寒い、と僕は応えた。ええー? 折角だから、少し歩こうよ、とニシャが言った。やだよ、と僕はぞんざいに言った。

「わたしは歩く」
「そう」
「わたしひとりだと危ない。痴漢がいるかもしれない」
「ああ、相手がな。確かに危ない」
「ひどい」
「そうだろ?」
「そうだね」

 僕は、振り向いて、ニシャの横に並んだ。ニシャが僕の手を取った。握り返して、歩き出した。

 いつから僕はこれを自然に受け入れられるようになったんだろう、と思った。

 わからなかった。

「何学部志望だっけ?」と僕は訊いた。
「ん? 何学部でも良い」
「あ?」
「ヒトシが受けそうな大学の偏差値の低めな学部に願書出す。二部とかも」
「あ、そう」
「別に一生研究したいものがあるわけじゃないし」
「まあな」
「ヒトシは? 公務員でしょ?」
「一応、な」
「市役所? 警官? それとも中央官僚?」
「いや、よくわからん」
「したいことないの?」
「したいこと、か」
「うん」

 改めて色々考えてみた。以前、教師はどうか、と思った事はあった。西浦先生がいたとき、それも悪くないような気がした。でも、彼女が去って、心が落ち着いてしまうと、それもぼんやりとしたものになり、いつしかどうでも良くなっていた。

 夢を持て、と皆が言う。自分の物語を描きだせ、などと言う。

 でも、僕にはそんなことできそうになかった。

「強いて言うなら」
「なら?」
「一生、大学の受験勉強していたい」
「なにそれ?」

 けらけらとニシャが笑った。僕も微笑んだ。

 いつしか僕たちの足は、いつかの公園に向いていた。久しぶりに来たなあ、近いのに、とニシャが言った。そうだな、と僕は応えた。公衆トイレの前で、ニシャは、ここでイットーとかリュウとかとしたなあ、と呟いた。呆れて、僕はため息をついた。

「ヒトシとも、しそうになった」
「そんなこともあったな」
「あの時も冬だった」
「ああ」
「何で途中でやめたの?」
「衝撃の発言があったからな」
「そうかな?」
「そうだ」
 眉を上げて、ニシャは僕を見た。僕は横目でそれに応えた。
「でも少なくともその時はしてもいいと思ったんだよね?」
「……あ、まあな」
「ヒトシに何が起こったか、だよね」
「何って、そりゃ――」

 僕は、言葉を止めた。そして僕はそこまでの人生について想いを巡らせた。

  僕自身が何かした、という事は殆どなかった。何か起きたとするなら、それは「ニシャが起こった」のだ。章雄さんの言葉を借りるなら、ニシャという貧乏くじがいつのまにか手に握られていたのだ。

 ニシャがそんな思索など気付かない様子で、僕に笑いかけた。

「してく?」
「しないよ」
「三度目の正直、ってことも」
「あ?」
「ここと、ヒトシの部屋と」
「ああ」
「どうする?」
「しない」
「うん」

 僕たちは四阿まで来た。ここもいつか僕たちに色々あった場所だった。ニシャは雪を払い、ベンチに座り、長い足をぱたぱたと動かし、何かなつかしいねー、と笑った。僕も向かいのベンチに座った。

「清乃ちゃん、元気かな?」
「さあ」
「ほんと、高校に入ると、全然中学の頃のひとと会わないよね」
「会ってるだろ、お前」
「ん?」
「僕」
「ああ」
「それと長村圭」
「あ、そうだった」
「……そうなのか」
「うん」
「どうなの?」
「ん?」
「どうするの? 長村」
「長村、すごい活躍してて」
「うん」
「高校卒業したら、実業団に入るって」
「へえ」
「そしたら、結婚しようって」
「ほう」
「断った」
「まあ、そうだよな。お前はな」
「一生、面倒見てやるって言われた。支えてくれって。大学なんて行かなくていいって。いい加減俺だけのものになれって」
「はあ」
「長村のお父さんって、社長なんだって」
「へえ」
「っていうか、良くわからないけど、それはまあ表向きで」
「ん?」
「誰だかとサカヅキをどうのこうのって」
「あ?」
「だから、引退しても大丈夫だからって」
「それって……」
「でも、断った」
「あ、ああ……それで向こうは納得したか?」
「うん。話せばわかるひとなんだよ。案外。大学入るまでは会うけど」

 なんというか、さらっと明かされたが、自分が知らずに本当に恐ろしいものを頼ってしまっていたことに、気温とは違う寒さが背筋を走った。

 でも、まあ、そうだ、長村だって、あの時はコドモだった。親を頼るしかなかっただろう。でも、彼は、ちゃんとニシャを救った。きっとちゃんと頭を下げて、自分の責任で。

 僕は、そんなこともできなかった自分が情けなさ過ぎて、かえって可笑しくなり、くくく、と笑った。何? とニシャが不思議そうに訊いた。別に、と僕は応えた。

 僕は、自分と同じようにニシャを自由にさせ、更に、そんな簡単に、惚れた女を手放してやれる長村に感心していた。彼は本当に、オトコ、だった。僕には、やはり、できそうもないことだった。もはや、何一つ、彼に勝る部分など自分にはなかった。

 ニシャが少し上を見上げるようにして、言った。

「でも、帰ってきて良かったな」
「うん?」
「色々楽しかった」
「お前はな」
「ヒトシは楽しくなかったの?」
「僕は、勉強だけだった」
「わたしがいたでしょ?」
「お前、自信あるのな」
「違うよ。自信じゃないよ」
「あ?」
「ヒトシのことを信じてるだけだよ」
「……お、おう」
「ヒトシの誓いを。気持ちを」
「恥ずかしい事言うなよ」
「わたしは、ヒトシの前では、特別でいられる」
「だから、恥ずかしい事言うなって」
「それを、信じられる」

 ニシャが、僕の目を見詰めていた。きっとニシャが僕の目に映っている。それをまだニシャはキレイだと言うだろうか? 僕も、ニシャを見詰めた。僕なんか映ってなくても、美しい瞳だった。

 ニシャが首を傾けた。何? と僕は訊いた。

「ねえ」
「何?」
「キスくらい、良いと思わない?」
「は?」
「二回、したじゃない」
「そりゃ……」
「キスしても、童貞は童貞でしょ?」

 僕は戸惑った。何だか、空気が濡れたような気がした。僕は、ばばば、馬鹿じゃないの、と口ごもった。ニシャが立ち上がって僕に歩み寄った。

「あのさ、例えば、ここに饅頭がひとつあるとするだろ?」
「ん」
「これは絶対食べちゃいけないって言われてるとするだろ?」
「ん」
「それを一口だけ囓ったら、一口でも、それは食べたことになるだろ?」
「ん」

 つまり――、と僕の、上手くもないたとえ話を繰り出す口が、塞がれた。まるで男が女に強引にするように、腰を曲げたニシャの両手が僕の顔を掴んで、上から押し込むように、でも、柔らかく、唇が僕を吸った。どこかでサイレンが鳴っていた。でも、すぐ聞こえなくなった。それくらいのキスだった。ロマンティックって、きっとああいう気分だ。多分、キスするときの「普通」の女の子の気持ちがわかったような気がした。百戦錬磨、経験豊富な舌の動きが、僕をこじ開けて、そして、離れていった。

 ニシャが、楽しそうに、僕を見下ろしていた。そして言った。

「色々思い出したんだ」
「あ?」
「小さい頃、ヒトシが何をくれたか」
「……ああ」
「あれ、結婚指輪のつもり?」
「え?」
「物置にわたしの昔の持ち物まとめてあったんだけど」
「うん」
「その中の宝箱にね、あった」
「ああ、そう」
「小さな、貝殻の、指輪」
「そう……」
「うん。今は、大事にね、部屋に置いてある」
「そうか」

 僕の胸が、爆発しそうだった。手足が痺れて、熱くて、涙腺が、壊れそうだった。僕は、完全に攻略された。でも、若かったのだ。それを認めたくなかった。僕は必死に普段通りを演じた。男は悲しい。そんな時でも、興奮のシルシが硬くなっていた。

 顔を背け、で? 何? と言った。それだけだけど、とニシャが嬉しそうに言った。僕は立ち上がった。

「帰ろう」
「うん」

 ニシャは僕の腕をぎゅっとしがみつくように掴んだ。

 本当に浮かれていたのだ。ニシャの胸の無さを再確認はしても、周りの様子がおかしいことなんて、気付かなかった。帰ってもう一回しなきゃならないな、とくらいに思っていたのだ。

 サイレンが、徐々に大きくなった。ニシャが、あれ? 煙、と言った。それで、僕も初めて気付いた。空の麓が真夜中なのにオレンジ色に光っていた。そして、そこから、まがまがしいグレーの煙がもくもくとわき上がっていた。僕たちは顔を見合わせた。

「家の方だ」
「ああ」
「まさか?」

 僕たちは、駆けだした。悪い予感が、僕たちの繋いだ手を、引き離した。そして、それは、予感だけで済まなかったことを、僕たちはパジャマ姿の近所のひとたちの背中の後ろから見上げて、知った。

 火に魅入られるひとがいる、と言う。

 でも、その火が美しいものだなんて僕は決して思わなかった。


<#45終、#46へ続く>

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