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僕のニシャ #4【連載小説】

  この物語はフィクションです。実在するあらゆる個人・団体・学校・組織および事件・事象などとは一切関係ありません。
 また、この作品は2015年にKDP・Amazonで電子出版された作品に読みやすくするため改行や若干の言葉の変更などを加え、分割して順次掲載する予定のものです。以前の電子書籍版とストーリーにおいて変更はありません。
 途中からお読みの方、#1(第一話)はこちら↓です。


 

 昼間はおばさんたちが山なりのぬるいラリーを続けている共用のテニスコートも、公園の常夜灯の光がかすかに届くだけの、寂しげな静けさに包まれていた。

 塾が終わった後に、という指定だった。

 フェンス越しに鞄を抱えた掛川を見つけ、そのコートに足を乗せた時、僕はまるで初舞台の役者にでもなったような気がした。手も足も痺れるみたいに感覚がなくて、なのに勝手に動いて、一生懸命暗くてよく見えない女の子の様子から、特別なものを見いだそうとして、期待して、警戒して、怖いのに嬉しくて、どきどきと自分の鼓動を聞きながら、審判台にもたれかかっている掛川の前に、僕は火の上を渡ってきたみたいな気持ちで立った。

 やっぱり、僕は、何? とだけ言った。暗がりで見る掛川の表情は、いつもと変わらなかったけれど、でもなんとなく綺麗に思えた。うん、と掛川は応えた。

「何?」僕はまた訊いた。
「うん」掛川は俯いた。
「だから、何?」
「あのさ」
「うん」
「塾、通わないの?」
「え?」
「塾」
「まあ、まだいいかなって」
「成績良いもんね」
「それほどでもないよ」
「わたしに比べたら」
「そうかな」
「結構、面白いよ」
「塾?」
「先生とか、わかりやすい」
「へえ」
「おいでよ。きっと、もっと成績良くなるよ」
「うーん」
「一緒に教え合えるし」
「うん」
「東高も、狙える」
「うん」
「来なよ」
「何? 勧誘?」
「違うけど」
「うん」
「今日」
「うん」
「……転校生」
「うん」
「可愛いよね」
「うん」
「やっぱり?」
「え?」
「あ、いや……うん」
「で?」
「なんか、すごい可愛い」
「うん、まあ……」
「女神さまって感じ」
「そうかな」
「あたしとは違う人種、っていうか、違う生き物。大人みたい」
「まあ……」
「やっぱり、そう思う?」
「いや、そんな」

 慌てて否定しながら、僕はニシャの姿を思い出していた。僕が掛川を可愛いと思っていたことには間違い無いけれど、二人が同じ物差しの上にいないことくらいは、正直に言うとわかっていた。掛川は更に俯いた。

「なんか、すごく真剣に見てた」
「そんなことない……それは」
「それは?」
「隣に住んでたんだ。名前知ってたから」
「うん」
「でも、知ってる顔と一致しなくて、それで、まあ、なんていうか……」
「そう」
「だから、そういうことじゃなくて……」
「幼なじみ、ってことでしょ?」
「まあ、でも、今日だって話してないし、親同士がちょっと色々あって付き合い無いし、向こうだって気付いてないみたいだったし……」
「気付いてたら?」

 掛川はいつのまにか僕の目を見詰めていた。ふざけたようなぎこちない微笑みに、瞳だけが真剣だった。僕はそれに少し呑まれたような気分になって、目を逸らした。そして、掠れる声で言った。

「関係無いよ」

 そう、と言って掛川はまた視線を地面に落とした。そして、六月だ、と普段の声で言った。

「六月だ」
「うん」
「なんで皆六月に結婚したがるのかな」
「さあ?」
「誕生石は真珠だね」
「そうなの?」
「双子座だ」
「ああ……蟹座もだろ?」
「でも、今日なら、双子座」
「そうだね」
「六月、だよね」
「何? 何かあるの?」

 ちなみに言っておく。僕はそこまで鈍感じゃない。学校では気付かなかったけれど、朝、父に言ってみたように、その日が自分の誕生日であることくらいはわかっていた。

 つまり、彼女がここに呼び出した理由が、何であるかも当然推測できた。
 彼女が今朝学校で渡そうとしたのが、誕生日プレゼントで、それを改めて渡しに来たと考えるのが一番自然だった。

 それにしても、ラッピングにリボンでもしていてくれれば、すぐにそれとわかったのに。きっと彼女なりの照れ隠しだったのかもしれない。それは理解できる。その頃の僕らの常識を鑑みるに、そういうことをするということは、当然、「そういうこと」だった。きっと大げさにして人目にはつきたくなかったということだろう。そこまでは僕の当時の感覚でもわかった。

 しかしながら、僕は章雄さんのように頓着の無い女たらしじゃない。思いっきり気付かないフリをして、で、何? と相手に何か決定的なことを言わせようと、質問を繰り返した。掛川は、は、と息を吐き、審判台から背中を離してすっと立つと、やっぱり、いいや、と僕の方を見ずに出口へと向けて歩き出した。なんだよ、と僕は言った。

 手の中からぬるりと何かが抜けていくような感じがした。僕は慌ててそれを掴み直そうとした。何をしていいかわからなかった。

 だから、もう少し大きな声で、呼び出しといてなんなんだよ、と呼びかけることしかできなかった。

 思うに、あれだけ状況が整っていたんだから、ちょっと勇気を出して、好きだよとかなんとか言えばそれで済んだ話だとは思う。でも、男の子の心理も、女の子のそれと同様、複雑なんだ。

 僕は、それ以上問うのをやめて、掛川の後を追った。

 僕たちは、無言で歩いた。家までの距離が一歩一歩短くなっていく度、がっかりと心が暗くなっていった。

 そして、帰路が別れる角で、じゃあ明日また学校で、と掛川の口が言った時、本当に、本当に、猛烈な脱力感で一杯になった。僕は縋るように掛川の目を見た。掛川は莞爾と笑った。

 そしてそのまま三秒ほど見つめ合っていた時、その場には最も呼びたくなかった彼女が、すみませーん、と言いながら現れた。僕と掛川は同時に彼女を見た。掛川は息を止めたように見えた。

 ニシャ、だった。

「ここって、どこですか?」

 赤い大きな旅行バッグを肩でかけなおして、く、と首を傾げ、彼女は僕らを見ていた。

「戸廻さん?」掛川が言った。
「あれ? 見た事ある人々だ」ニシャは目を見開いた。

 そして、ああ、良かったあ、迷子になっちゃって、と僕たちに近寄り、ごく自然にその両手を掛川と僕の肩に置いた。僕は少し身を捩るようにしてそれを払った。

 女の子に触れられることは色々とまずいことだった。何が、と言われれば答に困る。当時の女の子慣れしてない中学生の一人であるところの僕は複雑だったんだ。

 ん? という顔でニシャは僕を見たけれど、取り立てて気にする風でもなく改めて掛川に身体を向けた。

「クラスのひとだ。そうでしょ?」とニシャは言った。
「そうだけど」と掛川は頷いた。

 そんな返答はどうでもいいといった感じで、ニシャは鞄のファスナーを開け、中にごそごそと手を突っ込んで、飴の包みを二つ取り出し、僕たちの顔の前に出すと、あげる、と笑った。僕と掛川はそのあまりの自然さに、つい、手を出して受け取ってしまった。

 受け取って、掛川と僕は顔を見合わせた。お互いに困惑していた。食べなきゃいけないような気がして、僕は操られたようにそれを口に入れた。掛川もそれにつられた。うん、とニシャはとても形のいい顎を少し引いた。
「えーと」とニシャは人差し指を振った。

「掛川です」

 掛川の声はいつもより少し硬いような気がした。ニシャはそんなことは全く気になっていないかのように、笑った。

「そうそう、掛川清乃ちゃん、飴、もう一個いる?」

 掛川は、親しくない人向けの微笑みで、もういいよ、十分、ありがとう、と応えた。ニシャは、いいねえ、せいの、って綺麗な名前だよね、とポンポンと掛川の肩を叩いた。そう? 何かモノ動かすときとか、小学生の頃みんなにからかわれたからあまり好きじゃないの、それより、丹詩香って名前の方が可愛いと思うけど、と掛川は応えた。ニシャは、にかあ、ととても並びの良い歯を見せて笑った。

「へへ、じゃあ、あげるよ」
「え?」
「なあんてね。さすがに名前はあげられないか」

 掛川が微笑みを崩さないまま、当惑しているのが伝わってきた。

 ニシャははっと気付いたかのように、あ、そうだ、ガムはあげられる、と鞄の中にまた手を突っ込んだ。アメをなめている相手に、更にガムを食わせようなんて、どんな感覚してるんだ、と思ったのは家に着いてからだ。その時は、掛川が慌てて、それもいいよ、ほんとに大丈夫、と断ったのに乗っかって、僕も何度も首を縦に振った。
 
 その僕を見て、ニシャは少し眉をひそめた。そんなに美しく歪む眉を見たのは初めてだったかもしれない。僕の背中に鳥肌が立った。

 僕が彼女の記憶に残っているのか、いないのか、どっちだとしても、僕は安堵と不安に同時に囚われるだろうという言葉にできない予感。掛川がいる、ということが、僕の心情をより複雑にしていることも間違いがなかった。

 僕は、喜びも、落胆も、表に出してはいけないと、瞬間的に思っていた。ああ、とニシャは飛び跳ねでもしそうに、背筋を伸ばした。

「イットーといた人だ」

 やっぱり僕は歓喜し、失望した。

 ニシャは僕を憶えていて、憶えていなかった。え? と掛川が少し訝しげに僕とニシャを見比べた。ニシャは、意識的なのかそうじゃないのかわからないけれど、それに触れずに、だよね? と僕に訊いた。そうだよ、と僕は最大の努力でもってニュートラルな声を出した。

 そして、そこまでの少年心の機微など踏みにじってニシャは訊いた。

「二人は、恋人ですか?」

 ぐっと詰まって、熱くなって、冷たくなって、辛くなって、とにかく何か言わなければと焦る気持ちが、勝手に言葉になった。

「そんなんじゃねーよ」

 あれ、そうなの? とニシャが不思議そうな顔をした。忌々しいほど可愛かった。でも、僕がその時見るべきだったのは、掛川の顔だった。僕はとても大事なモノを、多分、そこで見逃した。そうだよ、と掛川の戯けた声がした。ふうん、とニシャは僕を見詰めていた。

「そうよ、そんなんじゃないの」掛川はもう一度、今度は少し真剣に言った。

 迷ったんでしょう? と促すように掛川はニシャに訊いた。そう、そうなの、二丁目ってどう行くんだっけ? とニシャは、まるで親しい友人にでもするように、掛川に抱きついてその肩に額をつけた。




 残り少ない家への道のりを、僕は、ニシャのくれた飴の酸味を口の中で感じながら、俯いて歩いた。何だか全てが上手く行かなかった。何度も何度も、くそっ、と言った。言うごとに、心が乱れてやりきれなかった。

 結局、あの後、僕が方向を教えると、ニシャは何の未練も無くさっさと歩いて行ってしまった。僕と掛川は、その背中が遠くなっても動けなかった。掛川は、いいの? 多分家に帰るんでしょ? 隣なら送ってあげればいいのに、と言った。僕は、何も言えなかった。でも、ふと気付いて、いや、掛川を送るよ、と言った。これは、まあ、良い対応だったと言える。でも、掛川は笑ってこう言った。

「いらない。恋人でもあるまいし」

 ぼくは、そう、とだけ応えた。これはまずかった。多分無理矢理にでも送って行くべきだった。数年後の僕ならそうした。

 でも、男の子が成長するのは、失敗と時間によってのみだ。その時の僕が失敗したから、今の僕は偉そうに少年だった自分を断罪できる。

 掛川は、じゃあね、と少しだけ手を振った。僕はただ呆然とその背中を見ていた。喉から手が出て、その背中にすがりついてしまいそうなくらいの気持ちだった。

 ああ、ああ、と心は叫んでいた。

 それが聞こえたわけでもないだろうけれど、掛川は、ぴた、と止まった。そして、ああ、そうだ、と大きめの声で言った。何? と僕は掠れた声で応えた。

「あの子、今日話してもいなかったのに、わたしの下の名前、知ってた。それから……」
「それから?」
「町野をイットーって呼んだ」
「あ、ああ、そういえば……」
「変な子だ」
「うん」
「なのに――」
「なのに?」

 掛川は少し曲げた人差し指を顎に持っていき、視線を斜めに落とした。そして少し笑うと、首を振った。

「なのに、なんだよ?」
「教えない」
「あ?」
「ああ、それと」

 掛川は鞄の中に手を入れた。そして、半身だけ向けて、いかにもおざなりに、ぽん、と何かを下手で僕に投げつけた。僕はそれを上手く掴めずに足下に落としてしまった。拾い上げて確認するまでもなく、それはあのペンケースだった。僕は手に握られたそれを見詰めた。

「あげる。変な意味じゃないから。単なる誕生日の、隣の席のよしみの、ソレだから」

 ちょっと眉を上げて笑った掛川は、ぱたぱたと駆けて行ってしまった。

 その後ろ姿に言った「ありがとう」は、きっと聞こえないくらいか細かった。

 曲がり角で、二人の女の子が別々の道に消えていく。

 今思えば、随分象徴的だ。僕は、そんな感じのことをあと何度か繰り返すことになるんだ。

 そんなことには当然気づけない僕は、もしかしたらあったかも知れないカノジョのいる未来が目の前で消えたことに臍を噛みちぎるくらいの想いをしていた。飴が口の中で重かった。全部コレのせいのように思えて、僕はそれを思い切り噛み砕いて飲み干した。

 そして、家の前まで来て、顔を上げると、そこに神津の家を見上げるニシャがいた。僕は立ち止まった。凜と、穏やかに、でも強く、ニシャは佇んでいた。何やってんだ、とすら、僕は考えなかった。

 我ながら、残酷だった。掛川のことが、瞬間、ホワイトアウトした。

 どうしても視界から外せないものがそこにあった。街灯の頼りない光と家々からカーテン越しに洩れる明かりしかないのに、まるでスポットライトでも当たっているかのように見えた。ニシャはそういう人間だった。特別だった。その特別な唇が、動いた。

「神様って信じる?」

<#4終、#5へ続く>

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