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僕のニシャ #1【連載小説】

 この物語はフィクションです。実在するあらゆる個人・団体・学校・組織および事件・事象などとは一切関係ありません。
 また、この作品は2015年にKDP・Amazonで電子出版された作品に読みやすくするため改行や若干の言葉の変更などを加え、分割して順次掲載する予定のものです。以前の電子書籍版とストーリーにおいて変更はありません。




 過去――男女平等が叫ばれて久しいけれど、男には定職が、女には貞節が、求められ続けていたくらいの過去。

 つまり、僕の若かった頃。

 若い男の物語につきものの運命の女が、幸運にも、僕の傍にもいて、彼女は彼女のしたいままにふるまっては、僕の若さを壊していった。

 よくある話。何度も、何度も、色んな人が似たような話をしてきただろうし、あなたはきっと飽き飽きしているのかもしれないけれど、もしよければ、僕の話にも付き合って欲しい。

 ちなみに、僕という人間の面白さは皆無と言っていい。僕は取り立てて何をしたわけでもない。彼女抜きの僕自身の経験のみじゃとても物語にはならないだろう。

 でも、彼女のことなら、彼女の傍にいた僕の事なら、興味を持ってくれるひとも、中にはいると思うんだ。

 彼女は、とびきりキュートな幼なじみで、きまぐれで少々繊細さには欠けるけれど、明るくて、前向きで、強くて、そして、誰とでも寝た。

 僕は彼女の恋を――それらを恋と呼べるなら――ずっと見てきたし、認めたくはなくても、彼女に惹かれていなかったなんてどうしても言えない。

 つらかった。

 確かに一時期つらかったけれど、結局僕は彼女から目を背けることができなかった。誰とでも寝る女なんだから、結局お前もやらせてもらってたせいだろう? とあなたは思ったかもしれない。

 でも、僕が彼女とシたのか、シなかったのか、それはこの後ゆっくり語ろうと思う。


 架空の街だと思って欲しい。

 よくある地方都市の外れに開発されたばかりのニュータウンがあった。建て売りの住宅が並んでいて、僕と彼女の家は隣同士だった。

 ご近所付き合いなんてものが、まだ消えていなかった頃のことだから、僕の家族と彼女の家族も、引越して間も無くから親しく交流があった。歳が同じだった僕と彼女は、良いも悪いも、好きも嫌いも無く、トモダチになった。五歳から六歳にかけてのことだった。

 一緒に幼稚園に通い、家に帰っても一緒にままごとやらヒーローごっこをし、疲れ果てると、どっちの家でという区別も遠慮もなく、食事をし、一緒に風呂に入り、同じ布団で眠りについた。

 勿論、後に誰とでも寝るようになるからと言って、その頃の僕たちに性的な交流などあるわけがなかった(性器の見せ合いくらいはしたけれど、それは本当に互いの違いを確認する程度の意味しかなかった)。ただ、ふたりとも一人っ子で、きょうだいのように両親たちが扱っていただけだし、僕たちもそんなものだと無邪気に思っていただけの話だった。

 遊園地にも、科学博物館にも、山のキャンプにも、海にも、二家族で行った。

 僕たちは競って貝殻を拾った。彼女の方が多く拾ったけれど、僕の方が変わった貝殻を見つけるのが上手かった。彼女が僕の貝殻を欲しがるのが、僕は嬉しかった。あげなかったけれど。

 思えば幸せだった。僕を取り巻く全てがあたたかかった。

 そう思っていた。その感覚はずっと僕に残っている。

 脱線になるかもしれないが、どうして幸せな記憶ってのは、具体的じゃないんだろう。そうなのは僕だけだろうか? 嫌な記憶は思い出したくない細かいところまで勝手に蘇って僕を苦しめるのに、良い記憶ってのは、ほわっとしか思い出せない。ああ、幸せだった――で? 何が? っていう感じ。きっと大昔、幸せにほこほこと暮らしてるヤツより、痛い思いを忘れないヤツの方が生き残って子孫を残せたってことなんだろう。僕たちは、少なくとも僕は、そういう連中の末裔だということだ。

 ……じゃあ、あの記憶は、幸せな記憶なのか、辛い記憶なのか、どっちなんだろう、と今も迷う。

 まだ幼稚園が無かったそのニュータウンから隣町へと続く何も無い原野。その中を真っ直ぐと敷かれたコドモには少々遠すぎる帰り道。

 帰りのバス代をついジュースに変えてしまって、彼女とその道を歩いたあの日。

 不気味に黒い雲に覆われた空が時折光っては鳴り、大粒の雨の中でそれにも負けない位大泣きして動けなくなった僕を、まだ幼い彼女が「だいじょうぶ、わたしがいるから、だいじょうぶ」と言いながら引きずる様に導いたその手の温かさ。

 涙で目を殆ど開けなかった僕は、そのぬくもりだけを標に足を前に出した。傘はどこかで捨ててしまった。濡れた靴が気持ち悪かった。どこまでも終わらない道。雨の冷たさ。雷がいつ自分に落ちるかも知れないという恐怖。「だいじょうぶ」と何度も彼女の声が響いた。右足を出す。左足をすすめる。僕がどんどん疲弊していく最中、無意識にそれを数え初めて、百まで達した頃、妙に静かな感じがし始めた。

何かが閉じたような気がしたんだ。

彼女と僕だけしかいない世界。

 安心というのでも、勿論幸せというのでもない、不思議な充足感。掌の温もりが僕たちを溶かして混ぜ合わせてしまったかのような感覚。錯覚。もしかするとそれは完璧な世界だったのかも知れない、と思ったりしたこともある。

 家に辿り着いた僕たちは随分と叱られ、僕は(僕だけが)ビンタされ、おまけに熱を出して寝込むことになった。何の影響も無く元気だった彼女は、何度も僕の枕元に来ては、ニコニコと笑いながら僕を見ていた。

「何だよ」と僕は訊いてみた。
「だいじょうぶだったでしょ?」

 だいじょうぶなもんか、おまえがジュースなんて飲みたがったからだ、と今の僕なら悪態を吐くかもしれないけれど、その時の僕は熱のせいで重い身体の底に、妙に明るい光のようなものを感じていた。

 それが幸せな記憶かどうか、やっぱり僕にはわからないけれど、とにかくそれ以来雷がとても苦手になったことは間違いがない。

 でも、彼女がいた日々はやっぱり大方幸せだったとしか言いようが無い。
多くを忘れてしまったから。

 その時は注意深くならなくても良いくらいそれが当たり前で、失われることがあるなんて思いもしてなかった。 しかも、その幸せな感じが、後になって僕を苦しめる一要素になったりするんだから、本当に救われないように僕という人間はできている。

 そうだ、それは失われたんだ。

 僕たち二つの家族はあまりにも親しすぎた。親しさが昂じて、僕の母と彼女の父親が、越えてはならない一線を越えた。

 そうだと勘づいたのはずっと後だったけれど、それ以前には割とおしゃべりだった父親の口が開かなくなって、毎夜、何かが壊れるような音が響いて、朝になると、顔に青あざができているのに無理に笑う母親がいた。子供にとって、大人の事情なんてものは常に暴力的だ。二組の夫婦に何があったのかは子供の僕にはわからないことだったけれども、確かに何かが決定的に変わったのを、彼女に会えなくなったことで僕は知った。彼女の家に行きたい、 彼女と遊びたいとくずる僕の頭を、硬い笑顔の母親が撫でた。

「我慢してね」
「どうして」

 母の目が一瞬で潤んだのを、僕は憶えている。僕はそれが不思議で、同時にうろたえて、どうしていいかわからず母の顔を見ていた。母は、涙を見せないためか顔を逸らし、ただ、ごめんね、丹詩香にしかちゃんのこと、好きなのにね、ごめんね、と繰り返し謝った。僕はわからないながらもこれ以上駄々を捏ねてはいけないのだと思った。

 彼女に会えない日は何日か続いた。

 僕は二階の子供部屋の窓から、時折彼女の部屋を見た。幼なじみ同士が窓越しに会話するシーンをよく見るけれど、そんな都合良く彼女は顔を見せてはくれなかった。僕は寂しかった。寂しさを堪えながら、眠りに就いた。

 そして、その晩、僕はふと目覚めた。夜だから静かなのは当たり前だったけれど、それとは違う空気の薄さを感じて、訳も無くざわめきが胃の辺りからさあっと沸いてきた。僕はいてもたってもいられずにベッドから飛び起きて、両親の寝室を覗いた。二人はいなかった。ぞっとした。震えそうな足で慌てて階下に降りた。リビングも、客間も、浴室にも、暗闇があるだけだった。

 誰もいない、ということの恐怖を僕はその時初めて体験した。

 あああ、と自分から洩れる叫びが、暗闇の中で少しだけ反響して、すっと消えた。

 わっと鳥肌が立った。僕は何故だか、玄関へと向かい、外へ飛び出した。車が無かった。置いて行かれた、どこからかそんな言葉が頭に響いた。がくがくと脚が震え、身体の先端という先端が痺れた。声が、爆発した。いつのまにか涙がぼたぼたと顎から落ちて、それと一緒に液体になってしまったみたいな身体が地面に崩れ落ちた。

 どのくらいそうしていただろう。僕は目の前に立つその気配に気が付いて顔を上げると、ニシャ(彼女のあだ名だ)が、くりっとしたまなこを不思議そうに見開いて、僕に向けていた。

「ニシャ」と僕は言った。
「ヒトシ」と彼女は応えた。
「いなく、いなく……お父さんも、お母さんも、いなく……」

 意識ではどうにも制御できない嗚咽のせいで、言葉が、完成しなかった。ニシャは僕に近寄り、屈んで、ふわっと僕の身体を片手で抱き締めた。

「家に入ろう?」
「でも、だって……」
「うちも、いないの」
「ニシャのところも?」
「うん」
「どうして?」
「きっと、オトナだけで、遊びに行ったんだ。ずるいね」
「帰って来る?」
「帰って来るよ。ね、一緒に待ってよう?」

 僕は、ニシャの言葉のおかげで、少し落ち着いた。そして僕たちは家に入り、僕の部屋で、両親達を待つことにした。

 ニシャが傍にいることで、身体の慄えは収まったけれど、感情は沈滞して、何か会話を楽しむという気は起きなかった。でもニシャはそんなことなど気にしない風に、気の早い祖母が贈ってくれた僕の学習机の椅子で、機嫌よさそうに、脚をぶらぶらさせていた。そしてしばらくすると、退屈になったのか、机の引き出しから取り出した僕の宝箱を勝手に開けて、キャラクターシールやら、小さくなったシャツから取ったボタンやら、ビー玉やら、いつか海に行った時に集めた貝殻なんかを一つ一つ、意味ありげに検分し始めた。僕はあまり良い気分がしなかった。

「勝手に見るな」と僕は言った。
「これ、海の?」
 貝殻の一つをつまみ、腕を伸ばしてニシャは僕に訊いた。
「だから、勝手に見るなって」
「海だよね、また行きたいね」

 僕はニシャが話を聞かずに貝殻をかざして眺めているのに少しむっとし、ベッドから立ち上がって、それを奪い取った。

「なんでー?」とニシャが不満そうに言った。
「僕のだから」と僕は言った。

 不満げに唇を尖らせたニシャは、すぐににやっと企みのありそうな笑みを浮かべて、僕の宝箱にさっと手を伸ばし、もう一つの貝殻を手に取った。

「あ、それ――」

 もーらい、とニシャは椅子から立ち上がり、僕をからかうように距離を取った。

 ニシャが手に取ったのは、どういう加減でできたものか、小さな貝の殻の中心に子供の指が入るくらいの穴が開いている珍しいリング状のもので、僕が一番大事にしていたものだった。拾った時もニシャが随分欲しがった「逸品」だった。

 僕が取り返そうと腕を伸ばすと、その度にニシャはその手をあげたりさげたり、半身になって遠ざけたりして躱した。僕はかっとなった。かっとなって、ニシャを追い回した。ニシャは笑いながら、部屋の中をぐるぐると逃げ続けた。その時の僕は真剣だったけれど、今にして思えば、まったくの子供のじゃれあいだった。

 いつしか二人は息を切らして、向かい合った。ニシャはまだ笑いながら、すとんとベッドに腰を落とした。僕は、チャンス、と思って、ニシャに飛びかかった。僕たちは、ベッドの上で絡み合いながら、貝殻を奪い合うことになった。

 思春期の頃、とりわけ体験の早さがステータスだった頃、僕はその時の自分を後悔したものだ。何故、それ以上のことをしなかったのか、と。当然子供の僕にはそんな知識も身体的準備も無かったのだから、仕方無いけれど。

 でも、身体が合わさること、脚が絡み合うこと、熱が伝わること、肌が柔らかいこと、息がかかること、自分とは違う匂い、相手を抑えようとして身体に込められる本気の力、そんなことの複合が、特別な、異質な、未知の何かを胸にやどらせたんだ。上手く言えない。何かしなければならないのに、何をしていいのかわからない焦燥みたいなもの。

 ニシャを身体の下に組み敷いた体勢で、僕は動けなくなった。ニシャが笑っていた。心臓がクレッシェンドで高鳴っていくのを聞いた。枕の上で、ニシャは少し首を傾けた。

「こういうの、オトナみたいだ」ニシャが言った。
「え?」僕はニシャの目を見た。
「パパとママ、こういうことたまにしてる。夜に」
「ふうん」
 僕は両親の行為など見たことが無かった。まるで想像もつかなかった。
「貝、取り合ってるの?」
「わかんないけど、こういうことしてる」
「ふうん」

 ニシャは僕の顔を両手で包み、顔を近づけた。そして、まじまじと僕の目をみつめた。

「ヒトシの目は、キレイだ」
「そうかな」
「うん、とても」
「うん」
「わたしが映ってる」
「うん、ニシャにも僕が映ってる」
「不思議だね」
「うん」
「とても、好き」

 ニシャは僕を押しやるようにして避けて、身体を起こし、ベッドの縁に座った。僕も何だか貝殻のことなんてどうでもよくなって、その横に並んだ。ニシャは掌に貝殻をのせて、それを見詰めていた。

「やっぱり、これ、ちょうだい?」ニシャは言った。

 少女であるということを抜きにしても滑らかな深く白い肌の横顔に、長いまつげの黒が、つんと輝いて揺れていた。唇の先にある色彩が僕の知っているどんなクレヨンでも出せないくらい綺麗に儚げにカーブを描いていた。ショートカットの顎までの髪が愛らしい耳を半分かくして匂っていた。

 さんざん取り返そうとしていたけれど、その貝殻が何故か元からニシャのものだったような気がした。僕は、いいよ、と不思議に何のわだかまりもなく応えた。やった、と嬉しそうにニシャは僕を見て、貝殻を乗せた手を差し出し、こう言った。

「じゃあ、つけて」
「え?」
「ママの指輪みたいに」

 言われてみると、確かにそれは指輪らしくあった。そして指輪を渡すということの意味くらいは、子供なりに知っていた。ケッコン、だった。僕はとまどったけれど、早く、というニシャの声に急かされて、その「指輪」を持ち上げた。

「どの指?」と僕は訊いた。
「どこでも」とニシャは応えた。

 僕は、迷って(迷ったフリをして)、ニシャの小さな左手を取り、薬指にそれを通した。そして、思ったんだ。ニシャは、僕のものだ、って。

 多分ニシャは僕を見ていたんだろう。でも、僕はその強い、どこに向けて良いのかわからない、突き上げるような感覚のせいで、ニシャがどんな表情をしていたのか憶えていない。せめて、微笑んでくれていたならいいのに、と後になってその時のことを思い出す度、自分の中の欠けたピースのことを悲しく感じたものだ。

 僕たちの儀式は、しかし、そこまでだった。ガチャガチャと鍵を開ける音がした。

「帰ってきた!」と飛び跳ねる様に立ち上がると、ニシャは部屋を駆けだして行った。

 それまでの状況に糸を引くような未練を感じながら、僕も後を追った。先に階下に降りたニシャの「おかえり、ずるい、オトナだけで遊びに行くなんて」という無邪気な声が聞こえた。多分、それまでの両親なら、ごめんごめん、とか言いながら笑ってニシャを抱き上げるくらいのことはするはずだった。でも、やっぱり、そういうものは失われていたのだ。

 僕が階下に降りた時目に入ったのは、憤然とリビングへ去る父の背中と、これ以上無く泣き疲れてひどく浮腫んだ顔の母親だった。どうしたの? とニシャは首を傾げた。母は少しうろたえた様子で言葉に迷った様子だったけれど、結局ニシャの頭を撫でながら、なんでもないのよ、なんでもないの、と繰り返した。

 僕はそれを見ながら、違う人が来た、と思った。

 誰かよく似た別人が、両親のフリをしてやって来たと感じた。

 僕は動けなかった。さ、ニシカちゃんのパパもママも帰ってきてるよ、帰ろうね、と母によく似た人が、ニシャの背中に腕を回した。

 その時だった。チャイムも無く扉が開いた。乱暴に、無機質に。そして現れたのはニシャの母親だった。いや、ニシャの母親に似た誰かだった。彼女はニシャに触れている僕の母によく似た人の手を思い切り払った。そして、鉈の切れ味を音にしたみたいな声で、こう言った。

「娘まで、取る気?」

 そんな、と母によく似た人の口から洩れたけれど、ニシャの母親に似た誰かは、その声に反応もせず、ぐっとニシャを抱き上げ、百メートルダッシュでもしかねない勢いで家を出て行った。

 去り際、ニシャは僕を見て、左手を挙げた。その時は微笑っていた。

 でも、どう思い出そうとしても、その左手の薬指に「指輪」があったのかどうか、ずっとわからなかった。七十パーセントくらいの確率で無かった様な気がして、後になってずっと僕は居心地の悪い思いをした。ただ、僕の宝箱から、その「指輪」が消えたことは確かだった。

 そして、その夜を最後に、百パーセント、ニシャも僕の生活から消えた。 

<第2話につづく>

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