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僕のニシャ #2【連載小説】

 この物語はフィクションです。実在するあらゆる個人・団体・学校・組織および事件・事象などとは一切関係ありません。
 また、この作品は2015年にKDP・Amazonで電子出版された作品に読みやすくするため改行や若干の言葉の変更などを加え、分割して順次掲載する予定のものです。以前の電子書籍版とストーリーにおいて変更はありません。
 途中からお読みの方、#1(第一話)はこちら↓です。



 小学生時代、何も無かった。
 言った通り、僕自身は何の面白みも無い人間なんだ。

 ニシャが彼女の母親とともに消え、ついでに僕の母親も消えたけれど、それが僕という人間に深みを与えるとか、ニヒルな影をまとわせるとか、触る者皆傷つけて、雨降りの日に捨てられた子猫だけに感情移入するとか、そういうことは一切無かった。

 ただ、母親がいなくなった分、料理ができるようになったとか、掃除や洗濯もするとか、スーパーの安売りに詳しくなったとか、そういうことはあったかも知れない。成績は少し良かったけれど、それだって特技と言える程のものでは決してない。

 でも、ヘタに特技なんて無い方が、人生は安定する。それは妻を寝取られたことだけが特徴の父親が、毎月きちんと役所から給料を貰ってきていたことからもわかる。

 僕は父親のあとをついで、いつか公務員になるんだ、と思っていた。きっとコネも利くに違いない、そのくらいの打算はできるようになって、僕は小学校を卒業した。

 ニシャを忘れられずに……とでも言えば、少しは格好良くなるのかもしれないけれど、やっぱり、会っていないと忘れるもんだ。僕にはどこまでも面白みが無い。それは中学に上がっても、同じだった。
 
 そうして僕は、人がよく悩ましいと言う十四の頃も素通りして、十五歳になろうとしていた。


 その数日のことは良く憶えている。その後の人生に続く、ある種の不幸の始まり。

 上手いひとなら、「『なんとか』の三日間」とでも名づけるかも知れないけれど、僕には無理だ。

 その最初の日。六月の爽やかに晴れた十五度目の誕生日。

 僕はいつものように四個の卵を半熟に焼き、粉末だしで麩の味噌汁を作り、納豆をといて、食卓に並べた。父は何も言わずに、まるで溜まった決裁待ちの書類に判子を押し続けているみたいな顔で、それを口の中に片付けた。無駄だとは思った。思ったけれど、僕はまだコドモだった。だから、言ってみた。

「今日、誕生日なんですけど」

 父は僕を見た。僕はちょっと顔を傾けて、その目を覗き込んだ。

 感情というか、感動というか、息子が歳を取るということの感慨とか、そういうものの全く無い目だった。

「そうか」

 父はそう言うと、立ち上がった。立ち上がって、背もたれに掛けてあったスーツのジャケットから長財布を取り出すと、そこから一万円札を抜いて、テーブルにすっと置いた。そして、そのまま何も言わず、ビジネスバッグを持って出ていった。

 僕はその一万円札がどういう意味合いのものなのか考えてしまったが、多分文脈からいって、くれるということなのだろうと判断して、結局家計用ではない自分の財布に収めた。

 こういう冷淡な親の態度に傷つく話を良く聞くけれど、やっぱり面白みの無い僕はそんなものだと思っていた。

 一万円もくれるだけで十分じゃないか、クリスマスや正月だって、何もくれなかったんだから。

 そう、母が家から去ってからというもの、父は、まるでそういうことが許せないといわんばかりに、お祝い事というものを一切しなかった。

 きっと父は仮にも子供を一緒に作るくらい愛した人に裏切られたことで、深く傷ついた。傷ついて、そこから回復することを、回復してしまう自分を、許せなかったんだ。

 いつもプレゼントをもらえなくて、ちょっと損をしたような気分はあった。

 でも、今回はくれた。

 中学生の僕に一万円の価値が無いなんて絶対言えないことだったけれど、それ以上に「くれた」と言うこと自体、父が回復し始めている証拠のように思えて僕には嬉しかった。僕はいつもと同じように、いや、いつもよりちょっと機嫌良く鼻歌なんか歌いながら朝食の後片付けをして、家を出た。


 何を買おうかな、と考えながら玄関を出ると、目の前の道に赤いランドセルを背負った長い黒髪の小学生がいた。僕の目から見れば、やっぱりコドモにしか見えなかったけれど、多分、それなりの美人になる要素は間違い無くその見かけに現れていた。

 血筋かね、やっぱり、と僕は思いながら、おはようと言ってみた。返事は無かった。

 彼女は慌てて顔を逸らし、小走りに僕の家の前を通り過ぎて行った。まあ、そうだよな、と僕は苦笑して、歩き出した。何も考えずに角を曲がると、さっきの小学生が電柱に凭れていた。僕は今度は何も言わずにその前を通り過ぎた。二、三歩進んだ時、後ろから、おはよう、と可愛らしい声がした。僕は立ち止まって振り向いた。僕は彼女の目を見詰めたけれど、彼女は、コドモながらにきまずそうな顔をして、目を合わしてはくれなかった。

 僕は、おはよう、花菜かなちゃん、と応えて、歩き出した。

 ちょっと待って、と彼女は言い、小走りに僕の後を追ってきた。僕は立ち止まった。歩きながらで良いよ、と彼女は僕を追い越して行った。僕はその後に付いていくことにした。どのみち途中までは同じ通学路だった。

「お隣とはおつきあいしちゃいけないんだって」と花菜は言った。
「へえ」と僕は応えた。
「知らないふりしなさいって」
「ふうん。章雄さん……お父さんが?」
「ママが」
「そう」
「なんで?」
「なんでかな?」
「おかしい」
「おかしいね」
「なんか知ってる?」
「いや、知らない」

 僕は嘯いてみせた。それに、おおざっぱな事情は勘づいてはいたけれど、直接に父親から聞いていた訳でもなかった。

 大体、君のパパが僕のママとセックスしたせいで、君のパパの前の奥さんが君の腹違いのお姉さんを連れて出て行ったからだよ、なんて小学生に聞かせていい話じゃない。

 だからって今の奥さん――庸子ようこさん――が花菜に付き合っちゃだめなんて言う理由も希薄だとは思った。まあ、僕の父親に道で会う度厳しい顔で挨拶を無視されていれば、そういうこともあるかもしれなかったけれど。

 花菜はいつの間にかそんな思いを巡らせている僕を、立ち止まって見詰めていた。

「いや、本当に知らない」と僕は言った。
「嫌われてる? わたし」と花菜は訊いた。
「いや、少なくとも、僕は嫌ってないよ」
「本当に?」
「うん」
 コドモなりに何か納得したのだろう。小さく頷いて花菜はまた歩き出した。僕もそうした。俯きながら歩く花菜の背中に僕は訊いた。
「お父さん、元気?」
「よくわかんない」
「え?」
「最近、ちょっと変」
「ふうん」
「何か、夜遅くまで、ケンカしてる」
「お父さんとお母さん?」
「うん」

 章雄あきおさんというひとは、母をオトしたことからもわかるように、モテる。ニシャの母親が出て行ったすぐ後に、すでに花菜を妊娠していた庸子さんと再婚したくらいなんだから相当だ。

 少し近寄り難いくらいの端正な容姿で、同時に驚く程気さくで人なつっこい性格だから、そのギャップと言うヤツに女はクラクラするんだろう。きっと話しかけられたら、自分がお姫様になったような気がするのかもしれない。

 女ならざる身には本当にはわからないけれど。

 だから、きっとまた女だな、と僕は思った。家庭を持っちゃいけないタイプの人間だからこそ、早々に家庭を持てると言う矛盾――おつかれさま、と僕は誰に対してでもなく心の中で言った。

 そういったことを小学生相手に問いただすわけにもいかないので、僕はなんとなく空を見上げて黙り込んだ。この地域、この季節ならではの薄い青が悲しくなるほど均一に広がっていて、僕はどこか落ち着かない気分になった。花菜がぽつりと言った。

「今朝、ママ、すごくイライラしてた」
「ふうん」
「何か、起きるかも。教えてくれないけど」
「そう?」
 花菜は、また立ち止まって、僕に振り向いた。少し不安げに、口元が歪んでいた。
「何かあったら、たすけてくれる?」
 僕は、少し眉を上げて、考えるフリをした。心の中を量るような瞳が僕を見詰めていた。
「たすけてくれる?」もう一度花菜は訊いた。
「できる限りで。まあ、大したことは――」
「良かった」

 僕の言葉を遮って、そう言うと、花菜はまた先を歩いて行った。そしてそのまま僕たちは何も喋らずに歩いた。

 小学校と中学校の通学路が別れる角で、花菜はバイバイと手を振った。その笑顔は、まるで、小学生じゃないみたいに僕には見えた。


「よう、ロリコン」

 靴箱から上履きを取りだそうとした僕の背中を町野一灯まちのいっとうが叩いた。

「何だよそれ」僕は顔を顰めた。

 イットーは自分の上履きを放り投げるように簀の子に落とした。

「やっぱりアレか、ランドセルが良いのか?」

 おそらく、花菜と歩いているのを、遠くからでも見ていたんだろう。僕は溜息を吐いた。

「隣の子だよ」
「幼なじみだな」
「そんなに親しくない。たまたま一緒になったんだ」
「おにいちゃん、そんなに大きいの、わたし、こわれちゃうよお」

 僕はもっと深い溜息を吐いた。イットーはそういうヤツだ。見るもの聞くもの全て、シモネタに変換する。時に芸術的なくらいだ。芸術的なんていうと、ゲイの術って凄そうだよな、とか当たり前のように応えるヤツだ。

 その時も何食わぬ顔でイットーは教室へ向けて歩き出した。僕はその背中に言った。

「よく、あんな小さい子で妄想できるな、変態」
「俺は、胸がでかい方が良い」
「そうかよ」
「でも、小さいのも好きだ。いや、本当は別に無くたって良い」
「あ?」
「大事なのはやらせてくれるかどうかだ」

 この童貞め、と僕の口からもっともっと深い溜息が出た。そのせいで、向かってくる人影に一瞬気付くのが遅れた。イットーは素早く身を避けたが、僕はそれにぶつかってよろけた。

 す、すみません、と顔を上げると自分よりゆうに二十センチは高いところから、無表情な目が見下ろしていた。

 ああいう威圧感っていうのは、どうしたら身につくんだろう。規則違反の短い学生服、太いボンタン、細くて白いエナメルのベルト、かかとを潰して履いた上履き、そういう上辺のことばかりじゃない。その手の人物が醸し出す重いオーラ。

 何かを思いつくよりも早く、身が縮こまって動けなくなった。もう一度、謝ろうとした。すみません、の、す、を発声した瞬間、ポケットから飛び出した彼の拳が僕の左頬にヒットした。

 多分、手加減はあったのだ。でも、僕はぱーんと視界が真っ白になって、よろめいた。そんな僕を、何もなかったかのように後に置いて、彼は去って行った。

 長村圭おさむらけい。同じ三年の不良。バスケ部では一年の頃から既にレギュラーのセンターで、当時の三年生をパシリに使っていたとか、普通の生徒のことは殴りまくる体育教師が彼だけには手を出せないとか、高校生五人相手のケンカに勝ったとかそういう噂の絶えない人物。

 僕は頬を抑えながらその背中を恨めしげに見送るのが精一杯だった。いきなりの不幸に、唇が痺れていた。手が震えた。どうしていいのかわからなかった。

 痛い、悔しい、悲しい、やりかえしたい、でも無理……色んな言葉と感情が結局行き場も無く胸の中にどろっと溜まった。

 それが、弱い者が引き受けざるを得ないものだったのかも知れない。まだ、そんな諦めは僕の中に根付いてはいなかったけれど。

 イットーは僕の肩をぽんぽんと軽く叩くと、長村圭じゃ仕方無い、アソコもでかそうだし、と呟いた。

 僕とイットーが、まだ授業前のざわめきに満たされた教室に入った時、遠藤隆えんどうりゅうは自分の席で何か本を読んでいた。いつものことだ。

 イットーが、リュウ、と声を掛けると、面倒くさそうに顔を上げて、おう、と彼は応えた。何、それ、エロい? とイットーが訊くと、お前はいつもそれな、とリュウは呆れた様に笑った。その頃、今みたいに、無料の動画なんてなかったから、僕たちはいつだってオカズに飢えていたし、イットー程じゃなくても、僕だって、そういったものの匂いに敏感で、貪欲だったことは確かだった。

 でも、リュウは性欲にまつわる少年の悶絶のようなものを漂わせることは無かった。彼は静かに本を読み、静かにそこにいて、静かに何かを考えていた、のだと思う。

 イットーがリュウの肩を揉む様に掴んで訊いた。

「あれ、国語便覧に載ってた、なんとか、た、せくすありす、ってエロい?」
「うぃた・セクスアリスな」リュウが応えた。
「エロい?」
「全然」
「なんだ」
「でも、お前は読んでみた方がいいかも知れない」
「エロくないならいい……やっぱ読書は、秘肉が兀立した肉茎で激しく突かれて顫動するようなのが良いな、あ、そうだ、サドは? マルキドサド」
「このあたりの本屋に無いよ、そんなの」

 二人が、交わす会話についていけずに、まだ疼いている頬をさすっていると、後ろから僕の頭がこつんと叩かれた。

 振り向くとそこに掛川清乃かけがわせいのがいた。短くて深い色の黒髪がガラスでできた天使の輪みたいに輝いていて、大きめのメガネの奥でつぶらでもはっきりとひらいた目がいたずらっぽく濡れている子。

 隣の席の女の子。一年の時も同じクラスで、でも、三年になってようやく初めて話した子。

 話してみると案外「わかる」ヤツで、くだらない話でも、何故かもりあがってしまう不思議な子。

 それが恋だったのかと改めて問われたならば、今の僕の答は、多分、「そうだ」。

 でも、あまりに自然に、同時に急激に近しくなっていたために、恋愛の成分を抽出するのがどうにも難しくて、彼女と話すのがとりわけ楽しい、としかその時の僕には思えていなかった。

 掛川は、僕の頭を小突いておいて、わざと素通りするように、イットーに言った。

「町野、お前は死ね」
「なんだあ。愛の告白か?」
「そう、愛するわたしのために死んで」
「そうしてやりたいのはやまやまだけど、俺にはまだ成し遂げてない夢が――」
「ろくでもない」
「なんだよ。まだ言ってないよ」
「どうせ、エロ、だろ?」
「ああ、誤解されてる」
「じゃあ、言ってみろよ」
「恥ずかしいな」
「ほら、エロだ」
「お前にだけなら言う」
「言ってみろ」

 イットーはふん、と鼻で息を吐くと、掛川に近寄り、耳元に口を寄せて、何かを呟いた。

 僕は、その一連のやりとりを見て、心がぎゅっと締め付けられた。

 妬いていたのだ。彼女が自分以外とも上手に話せるということに。イットーに。

 でも、棒立ちでそれを見続けることしかできなかった。え、それどういう意味? と掛川が訊いた。イットーがより近く耳元に顔を寄せて、また何事かを囁いた。掛川が少し固まり、イットーの顔を見て、そして、僕の顔を見た。彼女の少し広い額まで真っ赤だった。え? と僕は彼女の目を見た。彼女は視線を落として俯き、僕の腕を取って、歩き出した。ははは、勝った、と背中でイットーの声がした。僕は彼女に引きずられて、え? え? と繰り返すしかなかった。

 席についた僕たちはなんとなく、目を背けたまま、黙り込むことになった。僕はイットーが何を言ったか、気になって仕方なかった。内容はともかく、彼らふたりにしかわからない秘密が目の前でできたことが耐えられなかった。

 僕は、ついに訊いた。

「イットー、何言ったの?」
 掛川は、膝の上でぎゅっと拳を握り込んで、俯いた。小さな声がした。
「言わせる気?」
「いや、言いたくないなら、聞かなくても……」

 本心とは別の言葉が出て行った。聞きたいに決まってる。おそるおそる彼女の顔を覗くと、掛川は慌てて顔を背けた。

「ちょっと、町野を甘くみていた」
「……うん」
「本当にわたしは甘かった」
「うん」
「ところで」
「うん」
「六月だ」
「うん」
「中間テストも終わった」
「うん」
「坂上は、結構よかったよね」
「まあまあ、かな」
「東高?」

 掛川は視線を合わせず志望校を訊いた。

 東高というのは、その街で一番の進学校で、良い大学に行きたければ、あくまでその街を出ないならほぼ唯一の選択肢となる。僕は公務員志望であったから、当然大学進学も視野には入ってはいた。僕は正直に応えた。

「東と北のぎりぎりのところかな、先生が言ってた」
「行けたら東?」
「うーん、行けるならどこでも……でも……」
「でも?」
「聖モアとか憧れる」
「遠い街だ」
「遠いね」

 この地方に於いて、私立というのは殆どの場合、公立校の滑り止めだった。でも、聖モア学園高等学校は、各市町村から優秀な生徒を集めるれっきとした進学校として、名を馳せていた。この街の成績の良い男子たちは小さな頃から、東高に行くのか? それとも聖モアか? と大人達から質問され続ける。

 ミッション系で自由な校風で、寮があって、男子校だ。

 取り立ててお洒落に興味があったわけではないけれど、わけもなく制服というものに反抗心のある当時の中学生の一人だった僕は、そこには制服が無いということもなんとなくかっこよく思えていたんだ。少し黙り込んでいた掛川が言った。

「東にしなよ」
「行けるかどうかわかんないんだって」
「北でも良い」
「うーん」
「聖モアはやめなよ」
「なんで?」
「わたしのおじさんが卒業生」
「へえ」
「バナナ会というのが、あるらしい」
「ふうん、何それ」
「秘密の組織なんだって」
「へえ」
「寮に入った可愛い男子は、あるとき先輩からバナナを渡されるそうだ」
「うん」
「それを受け取ると、それは了解したことになるらしい」
「何を?」
「男子校だから」
「だから?」
「女の子いないから、さ」
「うん」
「その代わりに」
「代わりに?」
「……」
「……」
「ちなみに、近所の女子校には、いちご会というのがあって」
「あって?」
「決して表沙汰にはならないけど、二つの組織の間には血で血を洗う抗争が……」
「ごめん、さっきから何を言っているのかわからない」
「六月だ」
「うん」
「この国には梅雨というものがあるらしい」
「うん」
「ここは無いよね」
「まあ、そうだね」
「アレだ、国語の教科書とか、テレビとか、季節の話題されても、ピンと来ないよね」
「まあ、そういう時もあるかな」
「で」
「で?」

 僕は、話をはぐらかされたような気がしたけれど、ようやく彼女の方に顔を向けることができた。つられて彼女もこっちを向いた。必死に無表情を保とうとしている顔が、震えているように僕には見えた。

「六月だ」彼女はまた言った。
「で?」僕もまた訊いた。
「だから、これ」

 彼女は机の中から、さっと紺色のものを僕の机に置いた。僕はそれに視線を落とした。布製のペンケースだった。僕は、瞬間、それがどういったものなのかわからず、訊いた。

「僕のじゃないけど」
「あ、そう」

 僕はそれを彼女の机に置いた。彼女は肩をいからせるようにして、更にぎゅっと拳を握った。そして、いやいやいや、と首を振ると、ばっと僕に視線を合わせた。

「いや、そうじゃなくて――」

 彼女が慌てて、それを僕の机に押し戻そうとした時、チャイムが鳴った。まるでチャイムが鳴るのを廊下で待っていたんじゃないかというタイミングで担任の角倉先生が教室に入ってきたせいで、彼女はそれを再び机にしまわざるを得なくなった。

 皆が慌てて席に着く中、僕は掛川の横顔を見詰め続けていた。真っ白い歯が、女の子らしい薄い色素の唇をほんの少し噛んでいた。どきどきした。きっと僕は今晩その唇がすることを妄想するだろうな、と思った。男の子の諸事情で、僕は早く帰りたくなった。

 しかし、一日は始まったばかりだった。委員長が言う起立、礼、着席、に合わせて朝の挨拶が終わると、角倉先生は、クラスが自分を注目しているのを確認し、新任三年目とは思えないやる気のない声で言った。

「えっと、転校生がいますんで、紹介します」

 おいで、と開け放しだった扉の向こうに先生が呼びかけた。

 多分、その瞬間教室の色が変わった、とか、一陣の爽やかな風が吹き込むようだったとか、そんな風に書くべきなのかもしれない。確かに彼女は可愛い。僕のその後の人生も含めた女の子の記憶ファイルの中でも一、二を争うことは間違い無い。

 少女漫画みたいな頭身で、ショートボブの髪が小さな顔を包んでいた。小さい顔なのにそれを大きく、注目すべきものにしている、目、鼻、唇のパーツは、それぞれ取り外して飾りたい位の形だった。更にそれらが精密機械の職人が繊細に組み立てたみたいに完璧に配置されていた。一瞬彫刻かと思いたくなりそうなほどなのに、でも柔らかく、微笑みが浮かんで、どこか人なつっこい親しみさえ備えていた。手足はどこまでものびやかに流麗な曲線で拵えられていて、見慣れない制服ごしにもわかる腰の細いくびれは、彼女のその頃の唯一の欠点とも言える胸の膨らみの低さすらカバーして、女であることを主張していた。

 でも、そういうことは、後になって観察したから言えることで、その時の僕は掛川が何を言おうとしていたのかの方がずっと大事な事だったから、彼女のことなんてどうでもよかったんだ。

 だから僕はその時少なくとも二つ、誰かが恋に落ちる音(そんなものがあれば、という話だけれど)を聞き漏らしてしまっていた。かっ、かっ、かかっ、と角倉先生は黒板に、お世辞にも上手いとは言えない字で、その名前を書いた。

――戸廻丹詩香とめぐりにしか

「とめぐりにしか、さんです。ご家族の都合で、今日からこのクラスで一緒に勉強することになりました。戸廻さん」

 彼女は促されて教壇に上り、すっと教室内に視線を走らせると、軽く頭を下げた。なんとなくその板書された名前と彼女の姿を見ていて、はっ、と僕の頭の中に、大きなエクスクラメーションマークとクエスチョンマークが並んで浮かんだ。

 丹詩香? 

 もしかしてあのニシャ?

<#2終、#3へ続く>

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