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僕のニシャ #9【連載小説】

 この物語はフィクションです。実在するあらゆる個人・団体・学校・組織および事件・事象などとは一切関係ありません。
 また、この作品は2015年にKDP・Amazonで電子出版された作品に読みやすくするため改行や若干の言葉の変更などを加え、分割して順次掲載する予定のものです。以前の電子書籍版とストーリーにおいて変更はありません。
 途中からお読みの方、#1(第一話)はこちら↓です。


 

「え?」
「だから、イットーもそうしたから、別にいらないよ」

「え」と「へ」の中間みたいな力無い声が喉を抜けていった。人間、本当に驚くと、飛び跳ねて離れるみたいなことはできないもんだ。

 僕は、ゆっくりと、しびれの残る脱力した身体を起こした。そして、ニシャの目を見て、訊いた。

「冗談?」
「いいえ」
「まじで?」
「うん」
「したの?」
「うん」
「イットーと?」
「うん」
「何を?」
「これを」
「いつ?」
「今朝と、昨日?」
「どこで?」
「今朝は学校かな、昨日はパパに呼ばれる前に泊まってたホテルで」
「どうやって?」
「どう、って……。普通に?」
「……あ、そう」
「うん」

 僕は、立ち上がり、また座った。

 そして、また立ち上がった。

 床を見た。

 壁を見た。

 天井を見た。

 ニシャを見た。

 ニシャは上半身を起こした。平然と、ニシャも僕を見ていた。

「じゃあ、イットーのカノジョってことじゃん」と僕は叫んだ。
「そういうんじゃないけど」とニシャは応えた。
「え? したんだろ?」
「うん」
「カノジョだから、したんだろ?」
「カノジョ、って」
「何?」
「一対一みたいの言ってるなら、ちょっと違うかな」
「だって、ほら……」
「何?」
「イットーのこと好きなんだよな?」
「好きだよ」
「好きだから、したんだよな」
「まあ、してみても悪くないなって。そのくらいは好き」
「それ、すげー好きってことだよな?」
「そうなのかな? わかんないけど」
「はあ?」
「イットー、ちょっと緊張しちゃうみたいだから、リラックスできるかなあ、って」
「したんだよな?」
「したよ」
「したら、カノジョだよな?」
「そうなの?」
「そうだよ」
「そうかな?」
「そうだって」
「もういいよ。するならさっさとしようよ」

 まるで、掃除当番のことでも言っているかのようにニシャの表情はあっさりとしたものだった。

 僕が、したくない、なんてことは絶対になかったけれど、でも、もっと重い何かが心をせき止めたのがわかった。

「いや、しない、できない」
「何で?」
「イットーのものじゃん」
「モノ、って」
「そうだろ?」
「うーん」
「友達のカノジョとなんか、できないよ」
「だーかーらー、違うって言ってるじゃない」
「してないの?」
「したよ」
「カノジョだよな?」
「違うよ」
「冗談?」
「本当」
「そう」
「する?」
「しない」
「なんで?」
「いや、しないだろ、普通」

 そこまで話して、何だか引っかかりの無い鉄製の壁に爪を立てているような気分になった。

 僕はふらふらとベッドから離れて、椅子にがくんとへたり込み、机に肘を立てて頭を抱え込んだ。

「キス、しちゃったよ」
「したね」
「知らなかったから」
「そうなの?」
「イットーに何て言えば」
「そのまま言えば?」
「言えるか!」
「ええ?」
「お前、絶対言うな」
「どうして?」
「どうしてって、そんなの……」
「別にたいしたことじゃないじゃない」
「たいしたことだろ? こういう……ことは」
「そうかな?」
「そうだろ? その……イットー見て、わからないのかよ?」
「何を?」
「イットー、お前のこと、すげー好きだろ」
「ほんと? 嬉しいな」
「だから、できない」
「えー?」
「えー、って」
「しようよ」
「できない」
「何で?」
「友達のカノジョだから」
「だからあ――」
「おかしいよ、お前」
「そうかな」
「どうして、カレシがいるのに……」
「違うって」
「イットーは、お前が好きだよ」
「うん」
「お前もイットーのこと好きなんだろ?」
「まあ、ね」
「裏切るのかよ」
「裏切り?」
「やったんだろ?」
「したよ」
「だから――」
「なんか、めんどくさくなってきたなあ」
「お前が、原因だろ?」
「そう?」
「そうだよ」

 僕は、叩きつけるように応えた。右の口角を上げて、ニシャは頭を傾けた。

 まじまじと見た。

 僕は急にその姿が不気味なものに思えてきた。

 知らないひと、だ。知らないひとが、ニシャのフリをして、やって来た。

 僕は、それまでとは別の理由で、言葉に詰まった。そんな僕を見て、ニシャが、呆れ、疲れたような溜息を吐いた。呆れてるのはこっちだ、と言いたかった。言えなかった。その代わり、僕の口からも溜息が出ていった。ニシャが、その溜息に応えるように言った。

「わたし、カレシとか、カノジョとか、よくわかんない」
「そうかよ」
「オットとか、ツマとかも」
「そうですか」
「知ってる?」
「何を?」
「わたしたちを引き離したもの」
「あ?」
「とても幸せだったあの頃を壊したもの」

 僕はニシャの顔を見た。その場にあってはクソ苛立たしい端麗な横顔があった。

 でも、何かを堪えるような震えを、僕はそれに感じた。

 何も言えなかった。

 ニシャは本当に羽根でも落とすかのように、僕に視線を据えた。胸が圧されたような感じがした。そして、ニシャは言った。

「そういうものがなければ、わたしたちはそこに居続けることができたと思わない?」

 僕はその時、尋常じゃ無い心境だった。だから、ニシャが、そこまでの一連の噛み合わない話に、訳の分からないことを付け足したくらいにしか思っていなかった。

 もう、帰れよ、と僕は言い捨てた。ニシャは片目を軽く瞑るように微笑して、ベッドから立ち上がった。そして、あーあ、したかったな、と伸びをした。ふざけんな、と色々渦巻く心の表面で、僕は思った。

「パパの家に居場所が無くてさ」とニシャは言った。
「……部屋、貰ったんだろ?」と僕は訊いた。
「もう、なんていうか、違うんだ。期待はしてなかったけど」
「そうかよ」

 僕はそう応えながら、花菜を思い出していた。あの子に差し出した優しさを、ニシャにも与えるべきか、迷った。でも、それにはあまりにもシャクだったし、しかもいらないお世話だった。

「ま、居場所くらい自分で勝ち取らないと」

 じゃ、帰ろ、とニシャが入り口のドアを開けた時、そのタイミングで父が階段を上りきるところだった。僕は慌てて立ち上がった。

 何も言わず僕ら二人を眺めている父に、僕は焦りながら、いや、この子は、あの、その、変なことしてたわけじゃなくて、その、といかにも後ろ暗いところのありそうな言い訳をしようとした。でも、結局うまいことは言えず、おかえりなさい、と下を見て言うことになった。父は黙っていた。

「これ、隣の……」
「ニシカです。お久しぶりです。おじさま」とニシャは頭を下げた。

 父の顔が、くっと固まった。

「帰りなさい」父はニシャに言った。
「あ、はい、今――」
「ここは、君の入っていい家ではない」

 父は、そう言うと、後は何も言わずに階段を降りていった。うん、帰る、とニシャは言ったけれど、僕は父の怒りを隠して硬直した顔の方が気になって、ニシャを見送ることもできなかった。

 複雑だった。

 複雑だったけれど、その夜、僕は、全て正直に言えば、そこにいたニシャの記憶をたぐり寄せ、かき集めて、男の子の仕事をしようとした。でもうまくいかなかった。

 イットーの顔が過ぎった。

 父の顔が掠めた。

 母のことを思い出した。

 ニシャが僕としようとしたことは、それと同じじゃないか、と憤った。でも、身体には暴れたくなるような欲求が蠢いていて、どうしようもなく、僕は、掛川を妄想した。終わった後、僕はたまらない申し訳なさと、虚しさの中、眠った。


<#9終、#10へ続く>

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