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僕のニシャ #10【連載小説】

 この物語はフィクションです。実在するあらゆる個人・団体・学校・組織および事件・事象などとは一切関係ありません。
 また、この作品は2015年にKDP・Amazonで電子出版された作品に読みやすくするため改行や若干の言葉の変更などを加え、分割して順次掲載する予定のものです。以前の電子書籍版とストーリーにおいて変更はありません。
 途中からお読みの方、#1(第一話)はこちら↓です。


 

 当然、幼なじみが迎えに来るなんてことはないのだ。翌朝、僕はいつも通りひとりで家を出た。

 キスをした。

 初めてだった。

 ある種の大人の階段を上る、それは素晴らしいできごと、の筈だった。
 
 なのに、心が重かった。
 
 重いのに沸き立って、沸き立つのに重かった。
 
 ニシャをどう捉えればいいのか、どの程度の距離感が相応しいのか、自分はニシャにとって何なのか、イットーとどんな顔をして会えばいいのか……。

 初学者なのに、いきなり応用問題を突きつけられたようなものだった。困って、悩んで、結局、そういう初学者らしく、深い溜息とともに問題を放り投げた。

 そして気付くと、花菜が僕の隣を歩いていた。僕は取り繕うように、おはよう、と言った。花菜は挨拶を返さずに訊いた。

「何考えてたの?」
「いや、別に」
「気付いてくれなかった」
「ごめん」
「おはよう、って言ったのに」
「いや、ごめん」
「女子のこと?」
「え?」
「女子のことだ」
「いや、違う……と思う」

 自信なく消えていく声が、我ながら情けなかった。

 と言うより、浮気した男が恋人に問い詰められてる時の感じって、あんな気持ちじゃなかろうか。僕にはもとよりそういう甲斐性は無いけれど。

 女子のことだ、ともう一度花菜は言った。

「だから、違うってば」と僕は言った。
「あのひとが」と花菜が言った。

 どきり、とした。あのひと? と訊き返した。花菜は、じとりと僕を見た。

「あのひとは、あのひと」
「ああ」
「あのひとが」
「うん」
「今日、ママと仲良くしてた」
「そう」
「二人で並んで、朝ご飯作ってた」
「そう」
「楽しそうだった」
「そう、それで?」
「なんか」
「うん」
「なんか、いやだった」
「そうか」
「うん」

 今度はどんな魔法を使ったんだ?

 まさかキスでもしたっていうんじゃないだろうけど、と頭に過ぎった。花菜が、僕を見ていた。僕は、眉を上げて、笑ってみせた。花菜が少し口を尖らせたせいで、僕はまた間違った反応をしたことに気付き、無理矢理表情を落とした。

「今日、行ってもいい?」花菜は訊いた。
「あ、いや、その、夕方までなら――」僕は慌てた。
「行ってもいい?」
「あ、はい……どうぞ」

 花菜は大きく鼻で息を吐くと、じゃあね、と、まだ分かれ道でもないのに、駆けだしていった。僕は、ガリガリと頭を掻きながら、その揺れるランドセルを見送った。その背景に重たい雲がじわりと膨らんでいて、僕は、傘を持って来た方がよかったかな、と呟いた。




 梅雨が無いからと言って、雨が降らないわけじゃない。

 四時限目の途中、僕が何気なく顔を向けると、雨粒の掠った直線が音も無く窓に刻まれ始めていた。

 濡れてるな、と思った。雨だけのことでもなかった。朝、教室に入った時、クラス中の注意力を集めていたあの三人のことだ。

 イットー、ニシャ、そしてリュウ。

 イットーがシモネタをやめたみたいに、リュウはその日、本を読んでいなかった。それだけで、悪い予感がした。

 それだけじゃなく、イットーとリュウがニシャを挟んで、いかにも彼女の興味を奪い合うように、はしゃいでいた。ニシャは、やあ、と僕に手を上げた。やあ、と複雑な気持ちでお愛想して、イットーとリュウに視線をやると、二人そろって、笑顔をぎこちなくして、視線を逸らした。僕も、そうなった。

 あ、邪魔者だ、僕、と思った。

 掛川が、ある意味ニシャに解放されて、席にいた。こちらでも、僕は目を合わせることができなかった。黙って座ると、掛川が訊いた。

「何かあった?」
「え?」

 何かは、あった。僕についても、イットーについても、ニシャについても、そして、僕の直感が正しければ、おそらくリュウについても。

 ぎくりとしたことを悟られないように、僕はできるだけ平然と、掛川を見た。掛川は柔らかめの無表情で、僕の目をのぞきこむと、ふうん、と言った。どうして女の子は、あんなに意味ありげな相づちを打てるんだろう。僕は慌てた。

「べ、別に、何も、ないけど……」

 また語尾が頼りなく消えていった。

 ところでさ、と掛川は話題を変えた。追い詰めといて、とどめを刺されないのも、居心地が悪かった。僕はそれほど図太い男じゃない。隠し事に耐えられるだけの神経を持ってないのだ。アレを最も打ち明けてはいけない相手だからこそ、言ってしまいたい衝動が、胸の壁を乱暴に蹴っていた。

 まるで気にしていない風に、掛川が言った。

「今日は持ってきた?」
「え?」
「あれ」
「あ……」

 ペンケースのことだとわかった。もちろん、忘れた。思うと同時に、そのままが口をついた。掛川がちょっと意地悪な顔をした。

「もちろん、って何?」
「いや、ちが――」
「腹立つなあ」
「ごめん」
「腹立つから、お礼して」
「は?」
「誕生日まで、待てないから、なんかお礼して」
「いつ?」
「すぐ、今日、放課後」
「何を?」
「何でもいいよ」
「何でもって言われても……」
「あ、もしかして、お金無い?」
「いや」
「あ、無ければ……いいけど」

 今度は掛川の声が消えていった。本当は自信が無いのに、相手の気持ちを確かめるように、自分の勇気を試すように、僕たちは強気なフリをする。でも、噛み合わなくて、急激に不安になる。それが、その頃の僕たちの「レンアイ」の形だったのかもしれない。

 僕については、もう、「ジュンスイ」でも「イチズ」でもなかったけれど。

 そうだ、少年にだって、打算はある。自分の中の気持ちに目隠しをして、手に取りやすい方を選ぶことだって。

 僕は、いや、それならあるんだ、と言った。父のくれた一万円札があった。色々欲しいものもあったけれど、女の子と使うのも悪いことじゃないような気がした。それはニシャに対するあてつけでもあったような気がする。

 伝わらない当てつけだったけれど。

 僕は、尻ポケットから財布を取り出して、何が欲しい? と訊いてみた。中を確認する横から、掛川は僕の財布を覗き込んで、うわあ、と言った。

「何がいい?」と僕はまた訊いた。
「どうしたの? それ」
「いや、誕生日だから、父さんが」
「すごい」
「だから、何がいい?」
「やっぱり、自分のもの買うか、貯めときなよ」
「いや、全部は使えないけど」
「うん」
「何か、そんなに高くないものなら」
「いいの?」
「いいよ」
「ほんとに?」
「うん」
「いいのかな」
「いいってば」
「……じゃあ、考えとく」

 そして、そのまま僕たちは黙り込んだ。ニシャたちの不自然な明るい声が響いていた。

 それが朝のこと。

 僕は一向に集中できずに、授業中もぼんやり座っていた。最後列の席のニシャに気を取られながら、イットーやリュウを時折見た。その背中が、どうにも普段と違うような気がして、ざわざわと胸が騒いだ。

 チャイムが鳴った。じゃあ、ここまで、と言い、角倉先生は教室を出て行こうとして、扉の前で思いついたように、僕の名前を呼んだ。

 給食の準備をし始めたクラスメート達の間を縫って、僕は先生のところまで行った。ああ、と先生はついでに思い出したように、戸廻、戸廻も、とニシャを呼んだ。ニシャは少しきょとんとした顔つきで、立ち上がり、手でも伸ばして引き留めたそうな、イットーとリュウを残して僕たちの方に来た。先生は、うん、と頷くと、飯の前に職員室行こう、と言った。

 僕はどきどきしていた。まさか、昨日の出来事が、不純な異性のなんとかに引っ掛かっていて、しかもそれがもう知られているのか、と思ったからだ。

 それなら、イットーの方がもっとすごいことをしている。しかも学校で。

 なんで僕? ニシャと並んで先生の後について行きながら、時折、ニシャの顔を見た。ニシャは、ん? と微笑んだ。僕は唇を噛みしめて目を逸らした。ニシャは僕の肩をつついた。僕はそれを苛立たしく払った。

 この後何度も思う事になるけれど、ひとの気も知らないで、と僕は心の中で独り言ちた。

 戸廻はちょっとここで待ってて、と先生は職員室の入り口で、ニシャに言った。冷静に考えればアレが生放送されていたわけでもなく、先生の用事はどうやら違うことらしかった。僕はほっとした。職員室の机で、いかにもかったるそうに首を回すと、先生は言った。

「何か、考え事でもある?」と角倉先生は訊いた。
「いえ、特に」と僕は応えた。
「ぼーっとしてたろ?」
「いえ」

 ひとに注意できるとも思えない、やる気の無い表情、やる気の無い目が、僕を覗き込んだ。僕は、苦々しく笑って、頭を軽く下げた。

「すみません」
「いや、いいんだけどさ」
「すみません」
「ほら、お前、ぎりぎりだろ?」
「はい」
「まあ、だからさ、授業態度が良ければ、心もち、優遇してやれるじゃない?」
「はい」
「そういうこと」
「はい」
「で、三者面談」
「はい?」
「お父さん、大丈夫?」

 その頃、まだ、片親しかいないというのは、珍しいことだった。だから、父の都合を訊こうとしているのだとわかった。でも、僕はわからなかった。

「どうでしょう?」僕は応えた。
「うん、訊いといてくれるか?」先生は言った。
「はい」
「ほんと、微妙だからさ」
「はい」
「まあ、そこらへん話さなきゃなんない」
「ええ」
「いいんだろ? 東で」
「……あ……ええ」
「何だ?」
「いえ」
「なんだよ?」
「はい……その、聖モア、とか……受けたいな、とか」
 先生は、は、と息をついた。
「それは自由だけど」
「はい、すみません、あの、ただの希望というか、無理ならいいですけど」
 先生は、少し椅子を廻し、向き直って言った。
「聖モアなら、内申はそれ程重要じゃない」
「はい」
「逆転はあり得る」
「はい」
「でも、試験問題がかなり特殊」
「はい」
「高校の範囲とか当たり前に出てくる」
「はい」
「そういう勉強してる?」
「いえ、まだ……」
「そう」
「はい」
「まあ、そういうことも含めて、お父さんと話をしよう」
「はい」

 できるだけ都合のつく時間にするからさ、と先生は言い、じゃあ、戸廻呼んで、と追い払うように手を振った。ニシャは壁に凭れて、廊下の天井に視線を遊ばせていた。僕は目も合わせずに言った。

「呼んでる」
「うん」

 ニシャはぱっと壁から背を離すと、僕の肩を叩き、待っててね、と言った。

「え?」
「ここで、待っててね」

 そう言うと、ニシャは颯爽と職員室へと入っていった。

 まったくニシャという少女はどんな仕草をしても「颯爽と」見えてしまう。
 
 例えば、どんなに落ち込んでいても、そんな風には絶対思えない。それが得なことなのか、損なことなのか、考えたのは、ずっと後のことだ。

 その時の僕は、イラッとしながら、でも、その「お願い」に逆らうことができず、ニシャがそうしていたように、職員室前の壁に凭れることになった。

 五分も待たず、ニシャは出て来た。おまたせ、そう笑うと、僕がついてくるのが当たり前だと言わんばかりに歩き出した。まあ、ついていくのだ、他にどうしようもなく。僕はニシャの斜め後方から訊いた。

「何の用だったの?」
「ん?」
「先生」
「ああ、ここの制服いつ買える? とか、三者面談はどうする、とか、今日の給食嫌いなモノ入ってて食いたくないからこのまま仕事する……とか?」
「それだけ?」
「他に何があるの?」

 ニシャに関しても、「素行の問題」はバレていなかった。

 本当に今現在の僕の価値観で思うと、それ程ひどく反倫理的なことじゃないのだけれど、その時は、自分たちがとんでもない秘密を抱えていると思えて仕方無かった。

 少なくとも僕は、そう思っていた。

 少し安堵し、すぐに、問題が解決したわけではないと思い至って、むしゃくしゃと胸が騒いだ。その胸騒ぎの中に、リュウについての悪い予感もあった。僕は訊かずにいられなかった。

「したのか?」
「え?」
「リュウと」
「何を?」
「だから……その、イットーとしたこと」
「したよ」

 あっさりと認めるその振り返った笑顔のせいで、がっくりと身体から力が抜けた。いきなり足が重くなった。 


<#10終、#11へ続く>

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