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僕のニシャ #47【連載小説】

 この物語はフィクションです。実在するあらゆる個人・団体・学校・組織および事件・事象などとは一切関係ありません。
 また、この作品は2015年にKDP・Amazonで電子出版された作品に読みやすくするため改行や若干の言葉の変更などを加え、分割して順次掲載する予定のものです。以前の電子書籍版とストーリーにおいて変更はありません。
 途中からお読みの方、#1(第一話)から最新話までをまとめたマガジンはこちら↓です。



 試験はさして外的なトラブルも無く、幾つか終わった。

 先に受けていた大学の合格発表も一つあった。落ちていた。 

 ショックだった。それまでは妙な楽観があった。八つも受ける。どれかは大丈夫だろう、と。教室では皮肉で「エース」と呼ばれたけれど、僕には傲慢にもその自覚が無いわけじゃなかったし、模試だって悪い成績じゃなかった。だから、大丈夫、僕はなんとなくそう思っていた。なのに、一番簡単な滑り止めだと思っていた学校に落ちた。

 僕は焦った。やばかった。ニシャの件で、父にあれだけ啖呵を切ってみせたのに、あっさりと落ちた。どうしていいかわからなかった。動揺し、狼狽し、緊張した。もう、できることなんて殆ど無かった。参考書やノートを開いても、上手く集中ができなかった。もうだめだ、と心が騒いだ。次の試験は、もう、ひどく固くなって、自分が何をやっているのかわからなかった。

 甘かった、と思った。冬期講習も行っておけば良かった、と後悔した。全部、遅かった。




 C大法学部の受験会場で、カップ麺の佐藤和孝と会った。

 彼だって僕とニシャの悪い噂を知っていただろうけれど、きっと受験の不安と緊張が、そんなものをどうでも良くしていたに違いない。そういう顔をしていた。

 彼は、俺、ここ本命なんだよ、と言った。

「え? だって、お前私立文系じゃないじゃないか」と僕は言った。
「いや、切り替えたんだ。数学と理科がダメで、ちょっと点数足りなくて」
「へえ」
「それに、ここ司法試験合格者いっぱい出してるだろ? なんか憧れるようになっててさ」
「ああ、弁護士?」
「それもいいけど、裁判官ってのもいいかなって」
「へえ」
「とにかく、親も納得させられるのは、ここしかない。なんとしても入りたい」

 シリアスな彼の表情を見ながら、わいせつ事件の被告に同情的な裁判官になりそうだ、と思ったが口にしなかった。代わりに、まあ、頑張れ、と僕は言った。彼は、頑張ろう、と自分に言い聞かせるみたいに、呟いた。その気持ちは僕にもわかった。落ち着け落ち着け、と僕は何度も思った。

 その試験は、講習で解いたようなW大の問題より、ずっと素直だった。もちろんすごくできたとは思わなかった。一度書いた答えが、どうしても間違っているような気がして、僕は何度も書き直したりした。そのことが却って自信を失わせた。試験後、僕には不安しかなかった。

 佐藤と一緒に帰りの電車に乗った。佐藤は、できた、思ったよりできた、受かったかもしれない、と安堵と喜びの表情で言った。そうだと良いな、と僕は他人事のように相づちを打った。

 それ以外は、特に事件もなかった。緊張は続いていたけれど、なんとか日程をこなした。ニシャが、あまり元気じゃなさそうなのが、少し気になったけれど、受験だ、そういうこともある、と僕は思った。




 時が淡々と過ぎた。そして、佐藤と受けた件の大学の合格発表の前の晩、僕は佐藤と一緒に発表を見に行く約束を電話でした後、ニシャと夕食をしにでかけた。居酒屋と食堂の中間のような店だった。安い定食が色々豊富にメニューにあり、僕たちは大体そこで食事をすることが多かった。

 僕が全部を平らげても、ニシャの皿には、まだあじフライが、そのままに残っていた。食べないの? と訊いた。うん、食べる? と応えがあった。じゃあ、もらう、僕はそう言って、あじフライに噛みついた。

 ニシャが僕を見ていた。微笑んでいた。ニシャにしては頼りない笑みだった。僕は、何も、感じなかった。

 何も、だ。

 店を出ると、ニシャは今日はここらへん少し歩いてみない? と言った。いいよ、歩こう、と僕はニシャの手に、自分の手を伸ばした。躊躇うように、ニシャが僕の手を取った。

 東京には、僕たちの街の、いわゆる繁華街のようなところが、幾つもある。そしてそのどれもが僕たちの繁華街より大きくて密度が高い。僕は取り立てて深く考えずに、そんな街並を眺めながら歩いた。しばらく歩いて、少しひと気の無い、おそらく住宅地と呼べるところを歩いているとき、ニシャが言った。

「妊娠した」
「僕の?」

 処女懐胎は聞いた事があるが、童貞が子を作ったというのはあまり耳にしない話だ。もちろん僕の子では無いのはわかっていた。ニシャが冗談で言っているのでもないことも、表情から知れた。でも、僕の口からはそんな言葉が、何故か、出て行った。

 ニシャが複雑に笑って、首を振った。まあ、だよな、と僕は頷いた。そして、ニシャの手を離した。

「お前、まだ生理来てないんじゃなかったのか?」
「うん、一生来ないのかと思ってた。でも、多分」
「病院行った?」
「まだ」
「じゃあ、気のせいかも」
「そうかもしれないけど、なんとなく、そういう気がする。きっと」
「気のせいだ」
「違うと思う」
「あ、そう」

 長村か、と思った。仕方無い、と心の中で言ってみた。でも、その言葉は、ざわめきと怒りにかき消された。

「何で?」
「何でって……」
「何で、今なの?」
「後で言うのも同じでしょ?」
「いや、だからってさ、今、受験中だろ? 大事なときだろ?」
「正直に、言いたかった」
「あ?」
「言えるの、ヒトシだけだった」
「そんなことは、父親に言え」
「だから、ヒトシに言った」
「あ? 僕は、したことがないぞ。ご存じの通り。それとも僕が寝てる間にこっそり跨がりでもしたか?」
「そんなことはしてない」
「だろ? なら――」
「パパの代わりに、ヒトシに言った」

 ぐっと言葉が詰まった。こんな時に、死者の名前を出すなんて、卑怯だと思った。そっちの父親じゃねえよ、とがっくり落ちる頭の口で呟いた。

 ニシャ、だ。そういうこともあり得た話だ。わかっていなければならなかった。僕はニシャとの結婚の宣言がうまくいったとき、手に入れた気分になってしまっていたのだ。その喜びが永遠だとでも思っていたのだ。

 でも、あんなことがあっても、絶対に、絶対に、僕だけのものにならない女だった。僕を傷つけ続ける女だった。

 覚悟はあるかい? と章雄さんの声が耳に蘇った。

 ありませんよ、そんなもの、僕はその声に胸の中で応えた。

 僕は、歩き出した。ニシャを置いて、一人で、部屋へと歩き出した。


 次の日、僕は約束通り、佐藤と合格発表を見に行った。受験の時もそう感じたが、駅から大学までの道で、これじゃちょっとした登山だ、と僕は佐藤に言った。佐藤も、これ、毎日通うのか、とうんざりした顔をした。彼は合格したつもりでいたらしい。僕は、そんな自信はまるで無かった。佐藤が言った。

「俺さ」
「ん?」
「坂上に謝んなきゃならないことがあるんだ」
「何?」
「うん……まあ、見てから、話す」
「あ、そう」

 僕たちは、発表の張り出された校舎の壁の前に立った。歓声を上げる親子連れがいた。がっくり頭を落として、去って行く男子受験生がいた。どちらが自分の未来なのか、顔を上げたら決まってしまうことに、軽く、怖れを感じた。僕は受験票の番号を確認してから、目を瞑って、深呼吸した。どきどきした。僕は、なにげなく、目を開いた。

 無かった。僕の番号は、どこにも無かった。

 ま、そうだよな、と思った。僕は、佐藤の顔を見た。佐藤も僕の顔を見た。

「お前も?」と佐藤は訊いた。
「ああ」と僕は応えた。

 僕たちは苦笑した。帰りの電車の中で、ぽつり、と佐藤は言った。

「天罰かな」
「あ?」
「いや、さ」
「うん」
「俺、ニシカちゃんと、しちゃったんだ」

 僕は、もう驚きもしなかった。あ、そう、と応えて、顔を背けた。

「坂上のものだって、わかってたのにさ。受験生なのに、あんなことしてたら、そりゃ落ちるよな」
「ま、な」
「ごめんな」
「いや」
「ごめん」

 些細なことだった。どうでも良かった。あんな女のセックスの相手が一人や二人増えたところで、そんなことは、もう、何の意味も無かった。僕たちは終点で、別れた。ま、残り頑張ろうぜ、と佐藤は言って去って行った。

 世界一、人が行き交う駅の中で、僕は、自分がこの中で一番惨めだ、と思った。

 無表情なひとたち全てが、僕を踏みつけていくような気がした。


<#47終、#48へ続く>

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