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僕のニシャ #16【連載小説】

 この物語はフィクションです。実在するあらゆる個人・団体・学校・組織および事件・事象などとは一切関係ありません。
 また、この作品は2015年にKDP・Amazonで電子出版された作品に読みやすくするため改行や若干の言葉の変更などを加え、分割して順次掲載する予定のものです。以前の電子書籍版とストーリーにおいて変更はありません。
 途中からお読みの方、(第一話)はこちら↓です。


 

 聖モアの試験日前の最後の講義の日、僕ははりきって随分早めに教室に入った。

 受験に向けたモチベーションの高まりがそうさせたわけじゃない。ただ、早く来たら、新條と話せると思った。

 なんと、バレンタインデーでもあった。

「幸いにも」、彼女はそこにいた。ふたりきりの教室!

 僕は胸が高鳴った。ニシャたちがしていたことを念頭に置いていたわけではないけれど、そういう可能性を頭から追い払えないのも、その年頃の業と言える。

 僕は座った。ごく、何気なく。新條は期待通り、僕に近づいてきて、まだ空いている僕の前の席に座った。よお、と彼女は言った。僕も、よお、と応えた。もう試験だね、と新條は言った。その北国では、私立の試験は一斉に同じ日に行われていた。そうだね、と僕は応えた。

「聖モアだよね?」
「奏正女子だっけ?」
「本命じゃないから。そっちは本命でしょ?」
「うん」
「頑張って」
「うん」

 新條が、机越しに身体を僕の方に傾けた。それを好意の発露だと思わないひとは、きっと僧侶になれる素質がある。僕には無い。

 そして、そう強く意識するからこそ、言葉が出なくなった。新條は、すっと僕の手に、その手を重ねた。

 繰り返す、僕には僧侶になれる素質は無い。

 机に触れた掌が、一気にじわっと汗ばむのがわかった。新條は言った。

「バレンタインだ」
「うん」
「お礼しなきゃと思って」
「え?」
「財布の」
「ああ」
「見つけてくれた」
「うん」

 僕は、新條の目なんて、もう見ることができなかった。ただ俯いて、重なった手と手を視界の端に捉え続けるのが精一杯だった。新條が何気なく言った。

「ところでさ」
「うん」
「ホントは、誰が拾ったか知ってたんだよね?」

 僕には、多分、模範的な被疑者になる素質がある。その質問に、隠さなければならない事情をすっかり忘れて、応えた。

「うん」
「だから、財布がどこに行ったかわかったんだね」
「うん」
「訊いてくれたの?」
「うん」
「ありがとう」
「うん」
「あたし、坂上くんが言ったなんて言わないよ」
「うん」
「誰が拾ったとしても、責めたりしない」
「うん」
「うん、むしろ言わなくていい」
「うん」
「ねえ、そいつが来たら、ちょっと見てくれるだけでいい」
「うん」

 うん、と応えて、心の中で、あれ? と思った。

 何かが、おかしい。おかしいが、掌がいつしか強く握られている。

 ニシャたちはともかく、そんなこと当時の中学生にとって、非常に特別なことだ。特別なら、秘密は共有するものだ。取り返しのつかない返答を僕はそうやって正当化した。新條の顔を見た。にっこり笑っていた。僕は、それに、ほっとした。

「じゃあ、見てね。見るだけ。何も言わなくていい」

 うん、とまた応えるしかなかった。しばらくして、パラパラと生徒が入って来た。いや、まずいんじゃないか、とも思った。一人、二人、と生徒が増えていく中、僕は「友情」と「恋」の葛藤(のようなもの)で、俯いたまま動くことができなくなった。

 今日だけ、休んでくれないだろうか、そう祈りかけたとき、声がした。意識しすぎていて、却って反射的に顔を上げてしまった。連中が、いた。見てしまった。新條は、何も言わず、立ち上がった。何の粘りもなく手を離していった。

 新條が彼らの前に、恐ろしい表情で立ったとき、僕は、自分に何が起きたのかの本当の所を、知った。



 ひどい気分だった。僕は「仲間」を売った上に、「失恋」した。バスの中で、掌に握られたままのリボンのついた包みを見た。バレンタインデーだ。中身はチョコレートでまず間違いがない。新條がくれた。授業が半分つぶれてしまうくらい暴れた後に。

 彼女は容赦なかった。証拠を出せ、としらばっくれる相手に、あの青い財布を突きつけた。泣いた。わめいた。講師が来て、慌てて止めに入っても、彼女は連中を罵倒し、追い詰め続けた。僕に財布のありかを教えた一人が、僕を恨めしげに見ながら、事情を理解した講師に連れられていくのを、僕は知らんぷりした。それが、苦しかった。

 新條は授業の後、言った。

「認めたよ」
「そう」
「認めさせた」
「そう」
「親に連絡が行くんだって」
「そう」
「連中も聖モア、受けるんだよ。受験前に、ざまあみろ、だ」
「そう」
「天罰」
「そう」
「ありがとね、協力してくれて。これお礼」

 そう言って、新條は僕の手に、包みを渡した。僕は、情けない笑顔で新條を見た。新條は満足げに笑って言った。

「最初から、わかってたんだ。坂上くんが何か隠してるの」
「そう」
「多分、それは犯人だと思った」
「そう」
「オンナには気をつけないと」
「そう」
「でも、いいひとだよね。君は」
「そうかな」
「財布、探してくれた」
「うん」
「だから、今後のために忠告はしとく。一応」
「そう」
「とにかく、ありがとう」

 新條は、あっさりと背中を見せて、去ろうとした。あの……、と僕は呼び止めた。新條は顔だけで振り返った。

「これ」僕は包みを少し持ち上げた。
「ああ、お礼、義理」
「お金、どうでも良いっていうのは、嘘だったの?」
「どうかしら? でも、怒られたのは本当」
「財布が大事って、それは?」
「本当」
「お母さんの形見か何か?」
「母親生きてるよ。離婚はしてるけど」
「じゃあ――」
「カレシに貰ったの。なくしたなんて、言えないじゃない」
「……あ、そう」

 じゃあね、受験、頑張って、そう言い残して、足取り軽く新條は帰って行った。僕はいつもより二本遅いバスが来るまで、動けなかった。

 良くある失恋話が、起きただけのことだ。でも、僕はやっとの思いで乗ったバスに揺られながら、舞い上がっていた自分が悔しくて、恥ずかしくて、情けなくてどうしようもなかった。

 このまま銀河鉄道みたいに、バスが飛び上がってどこかに行ってしまえば良いのに、と思った。だが、当たり前のように、いつものバスターミナルにしか、着かなかった。

 そこにはミステリアスな旅の付き添いの代わりに、誰とでも寝る、うざったいくらい目に入ってくる少女がいた。

 僕は、恒例の無視を決め込んで歩き出した。ニシャは、すぐに横に並んだ。本当に忌々しい。でも、その日は、絡んでくる腕を払おうと思わなかった。

 ニシャは、僕の手に握られたままの包みをめざとく見つけた。

「あ、チョコだね?」
「知らん」
「チョコだ」
「……」
「モテるな、案外」
「義理」
「ふうん」
「やる」
「え? ホント?」
「おう」

 僕がぞんざいに差し出した包みを、ニシャは嬉しそうに受け取った。

 期待する方が悪い。ニシャは妬いたりしない。

 そもそも妬いたりする関係じゃない。

 何の躊躇いもなく包みを開けると、ニシャはコマーシャルにでも使えそうな笑顔でチョコレートに噛みつき、甘いねー、と、とてもコピーには使えそうにない感想を口にした。僕は呆れて、言った。

「お前は?」
「ん?」
「お供の連中にあげなかったのか?」
「お供って、桃太郎じゃないよ、わたし」
「そういう感じに見える」
「そうかな」
「そうだよ。あげなかったのか?」
「んー、そういう特別な意味のありそうなものは、めんどうくさい」

 お前の身体には特別な意味はないからな、飴やチョコと違って、と皮肉を思いついた。でも言わなかった。

「なんか、変」
「何が?」
「なんか変だ」
「……で、何の用で待ってた?」
「うん、ただ、なんとなく」

 ニシャが僕の横顔を見詰めているのがわかった。僕は、見なかったけれど。ニシャは僕の頬に指を伸ばした。僕は、それを避けなかった。つんと突かれた頬に、水紋のような波動が広がったような気がした。

 イライラする、ムシャクシャする、カッとなる。

 でも、甘い。

 こうして並ぶとわかる。新條のことは、逃避だったと。僕の現実は、こっちだったと。その現実が言った。

「清乃ちゃん、くれなかったの?」
「……うん」
「恋人同士、なんでしょ?」
「馬鹿にしてるだろ?」
「なんで?」
「お前、そういうの認めてないだろ?」
「認めてないわけじゃないよ」
「あ?」
「わたしがこういう風にしかできないように、そういう風にしかできないひともいるのは知ってる」
「……」
「ヒトシも、清乃ちゃんも、きっとそうなんだよね」
「それが普通だろ」
「うん、大多数だね」
「お前は間違ってる」
「少数だから?」
「ひとの、イットーやリュウの気持ちを考えてないからだ」
「考えてるよ」
「コイを馬鹿にするな」
「してないよ」
「アイジョウを馬鹿にするな」
「してない」
「なら……」
「なら?」
「男を馬鹿にするな」
「してないってば」

 僕たちは知らずに立ち止まって、向かい合っていた。やっぱり、僕だけが高まっていて、ニシャは悠然と僕を見詰めていた。僕は絞るように言った。

「ひとりを、選べ」

 ニシャは、口角を柔らかく上げた。僕はそれが拒否だとわかった。やっぱりお前は間違ってる、と僕は呟いた。ニシャが、そうかな、と応えた。

「そうだ、僕と掛川は恋人じゃない」

 ふふふ、とニシャが笑った。そして、くるりと回るように家に向かって歩き始めた。僕も足を出した。

「そうかなあ。そうだと思うんだけど」
「違うよ。もうきっと嫌われてる」
「でも、いつかそうなる気がするな」
「ならないよ」
「なんで? 嫌い?」
「嫌いじゃない、良い奴だ」
「なら――」
「お前の基準だと、それでやってしまうんだろうけどな、そうは行かないのが、普通なんだ。大多数だ」
「ふうん」
「もっと大事なものが、ある筈なんだ」
「そう?」
「そう」

 家の前まで、来た。僕たちはまた向かい合った。ニシャの吐く白い息さえ、輝いて見えた。僕はその眩いものの前で、一連の失恋を誤魔化すために説教臭い言葉を投げつけたことが、余計自分を惨めにしているのを感じた。

 僕の少ない経験から言えば、そんな男を救うものは、あまり多く無い。そのひとつを、ニシャが提示した。

「する?」

 暗くて見えないのか、眩くて視界が飛んだのか、僕にはわからない。でも、僕にはそれが、のっぺらぼうのように思えた。感情も、心も無い、何かのように。僕は、言った。

「ニシャが、僕を、選ぶなら」

 ニシャは応えなかった。

 少なくとも、言葉では。

 チョコレートの味がした。何故かがわからなかった。僕はどうしたんだろう。遠い記憶のように、僕を導く温もりがあって、何かが決定的に閉じて、冷たい世界は僕たちを二人だけにした。ニシャが額を僕の額につけた。冷たい掌が頬を包んだ。わたしが映ってる、と目を覗き込んだ。コートが邪魔で、ブラジャーがうっとうしくて、スカートに切歯扼腕して、ストッキングが悲しかった。

 僕の指がその冷え切った肌に到達したとき、ほんの少しだけ、我に返った。僕はいつもそういうところで、自分を捨てきれない。わけがわからなくなってしまえば良いのに、ただ流されてしまって良いときもあるのに、それができない。僕は訊いた。

「で、本当は何の用で、僕を待ってたの?」
 ニシャは、少し笑った。
「ん?」
「聖モア落ちたらどうするのかな、と思って」
「それは……仕方無いから、東に」
「それもアブナイんでしょ? あのひとが言ってた」
「あのひと?」
「先生」
「は?」
「角倉先生」
「うん。わかる」
「うん」
「で、なんで先生が、お前にそういうこと言うの?」

 訊くだけ野暮だった。はっと気付いて、応えようとするニシャの口を僕は慌てて押さえつけた。

「言うな」
「うう」
「言うなよ、僕、何も聞かないからな」
「う」
「聞いてないぞ」

 そこは、公園の片隅にある汚臭の漂う公衆トイレの個室だった。

 僕は、本格的に、「現実」に帰還した。


<#16終、#17へ続く>

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