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僕のニシャ #14【連載小説】

  この物語はフィクションです。実在するあらゆる個人・団体・学校・組織および事件・事象などとは一切関係ありません。
 また、この作品は2015年にKDP・Amazonで電子出版された作品に読みやすくするため改行や若干の言葉の変更などを加え、分割して順次掲載する予定のものです。以前の電子書籍版とストーリーにおいて変更はありません。
 途中からお読みの方、#1(第一話)はこちら↓です。


 

 文化祭や、校内合唱コンクールや、マラソン大会のことを書くべきだろうか? 

 それらは、確かにあった。

 でも、僕はそこにいただけだ。

 実行委員でも、指揮者でも、上位入賞者でもなかった。毎度おなじみの一参加者だった。

 ニシャと関わらなければ、大体そんなところだ。

 僕は勇者じゃない。長村圭の暴力の味の苦さを良く知っていたし、たまに家の前で会話するニシャの言葉から、彼が相当入れあげていることくらいは僕にも想像がついた。少なくとも学校で、ニシャの周りをうろつくことは、気持ちが仮に求めていたとしても、身体が言うことを聞かなかった。

 僕は教室でひとりでいるニシャを見るたびに、自分が単なる弱者でしかないことを、思い知った。

 苛立った。苛立っても、できることは家事と勉強くらいしかなかった。僕は、だから、勉強した。

 塾にも通わせてもらった。現実逃避だった。

 幸いにも、僕は特進クラスにぎりぎりで入ることができた。そこは同じく聖モアや東髙を目指す生徒ばかりだった。確かに競争相手ではあるから、馴れ合うような付き合いはなかったけれど、同じ目的に向かう同志でもあったから、十五名ほどの教室には緩やかな連帯感があった。僕はそれが心地良かった。

 それに、僕たちのニュータウンからバスに乗って通うそこでは、浮世のしがらみから、尚更遠く逃れられたような気がした。授業内容は、自分には、相当難しかったけれど、それでも真面目に勉強した。ひと月も通うと、もう、自分には聖モア進学しかないように思う様になっていた。

 受験ももう間も無く、という頃、雪が積もって、道が滑って、外に出ると肌が引っ張られるみたいな冷たい空気に街が満たされる頃、ちょっとした事件が起きた。

 いや、中学生が誰とでもセックスする、という程の事件じゃない。些細な、本当に小さな、できごとだった。

 その塾の建物の路面に面する一階には、模型店があった。模型店と言っても、文房具もあるし、雑誌やちょっとしたコミックスもあるし、駄菓子もあるし、当時でも古いアーケードゲームの筐体が何台かある、正式にはなんと言って良いかわからない店だった。

 それが塾の生徒に好影響がある、とは決して言えないと思うのだけれど、授業が始まる前や後、多くの生徒がそこでたむろしていた。僕も、いつしかそこに立ち入るようになって、上手くも無いゲームをやったりすることがあった。大体すぐ死んで、投入した硬貨の分、駄菓子を買えば良かった、と後悔することの方が多かったけれど。

 その日もそんな苦々しい思いで、ゲームオーバーの文字から目を離すと、同じ特進クラスの連中が、何かひそひそと話しながら、顔を寄せ合っていた。

 僕は彼らに近寄った。どうしたの? と僕が訊くと、彼らの一人がすっと何かを背中に隠した。なんなんだよ、と僕が訊くと、彼らは視線を意味ありげに交わして、うん、お前も混ぜてやるよ、と言った。僕は、何々? と言いながら、彼らの輪に加わった。一人が、背中に隠したものを、差し出した。青い、それ程上等でもなさそうな長財布だった。

「何これ? 財布?」僕は訊いた。
「見りゃわかるだろ? 拾ったんだ」彼が言った。
「へえ。どこで」
「ここの前で」
「ふうん」
「中に、二万円入ってる」
「ウソ」
「山分けしようぜ」
「え?」
「一人五千円な」
「いや、届けなきゃ……」
「両替、どうする?」
「いや、届けようよ」
「いやなら、いいけど? 一人六千六百円になるから」
「届けようって」
「じゃあ、お前はいいよ、あっち行ってろ」

 僕は、二万円で沸き立って聞いてるかどうかもわからない彼らに、ああ、という返事をしてその場を離れた。

 教室に入った時、その子に目が行ったのは、別に特別に思っていたからじゃない。長い髪を纏めたポニーテールが、何だか不安げに、慌てたように揺れていたからだ。

 
新條しんじょう……望都子もとこといったっけ、と僕は何気なく自分の席に着いた。

 彼女は、深刻な顔をし、鞄をひっくり返して全部の荷物を出して、傍目にも明らかに何も入っていない鞄に何度も手を突っ込んだ。同じようにコートのポケットというポケットを探った。どんどん青くなる彼女の顔は、普段の知的な穏やかさのあるそれではなかった。

 多分僕は探偵や警察官にも向いていないと思う。後になって思えば、彼女が財布の落とし主だと簡単にわかりそうなものだけれど、僕の虹色の脳細胞は、さっきの財布と彼女を直結させることができなかった。

 彼女は、震えるような背中で、教室を出て行き、授業が中盤にさしかかる頃戻って来て、講師に怒られていた。彼女も悪い。事情を説明すれば、あんなに罵られずに済んだかもしれないのに。

 授業が終わり、僕はわからなかったところをいくつか講師に質問して、外に出た。新條がいた。彼女は地面を舐めるように見詰め、物陰や街路樹の根元を何度も確認していた。僕は、なんとなく声を掛けた。

「新條、どうしたの?」
「え、ああ、坂上くん」
「どうしたの? 何か探してる?」
「うん、あの……」
「うん」
「財布、落としちゃって」

 それを聞いて初めて僕はピンと来た。しかし、それはあまりにも遅い気づきだった。多分あれはもうすでに山分けされた後だ。山分けしたのが、「仲間」でなければ、その事実は口にして何の問題もないだろう。

 でも、そうじゃない。僕の正義感は、仲間を売るほど、強くない。でも、僕と会話しながらでも、地面を見詰め続ける新條に同情しないほど、無感情でもない。

 僕は、自分がとても微妙な立場に立ったのが、わかった。

 僕は、そう、とだけ応えた。新條は縋るような目で僕に顔を向けた。

「見なかった?」
「え?」
「青い、長財布」
「えーと」

 僕はこめかみを掻いて、目を逸らした。いかにも知ってるけど隠してます、と言った態度に映ったはずだ。少なくとも、勘の鋭い女の子には。彼女は疑わしげに僕の目を覗き込んで、言った。

「二万円、入ってるの」
「へえ」
「公共料金とか払わなきゃならないの」
「そう」
「知らない?」
「知らない」
「ホントに?」
「うん」

 それでもまだ疑わしげな新條の目を避けて、僕は、警察に行くとか、他のやつにも聞いてみたら? と言った。それが僕に出せる最大限のヒントだった。その意図をくんでくれたのか、新條は、そうする、と応えた。僕は焦って、その場を去ろうとした。でも背中から、僕を呼び止める声がした。僕は振り返った。

「あのね、中身は、仕方無いの。お父さんに怒られるだけだから」
「ん?」

 新條は、唇をくっと結び、僕を見ていた。その真剣さに、僕は立ち止まらざるを得なかった。新條は良く通る澄んだ声を震わせて言った。

「仕方無いの。……仕方無くないけど、諦められるの」
「うん」
「でも、財布は、とても大事なものなの。それだけは諦められないの」
「そう」
「本当に知らない?」

 僕は泳ごうとする目をなんとか新條に据え続けた。

 彼女の目が、いかにもあふれ出しそうな涙で潤んでいた。

 そんなものを見てしまったら、例え勇者じゃなくたって、何かしなきゃいけないと思うだろう。でも、やっぱり勇者じゃない僕は、本当のことを言えずに、わかった、じゃあ、一緒に探すよ、と言うよりなかった。連中の興味は中身だけにしかなさそうだったから、財布はそこら辺に捨ててあるかもしれない、と思った。ありがとう、と新條は応えたけれど、すぐに、でも、わたしひとりで探すから、と付け足した。

 僕には本当の優しさがなかった。そう、と言って、プレッシャーから逃れたい一心でバス停へと歩き出した。多分こういうシチュエーションは、ひとつのチャンスだったんだ。でも、僕は章雄さんじゃない。王子様にはなれない。

 僕は、また、複雑な気持ちでバスに揺られることになった。お父さんに怒られると言ったな、と思い出した。公共料金を払うとも言った。もしかしたら自分と同じように、母親がいないのかもしれない、そう僕は推論した。中身を仕方無いというのなら、財布だけならなんとか見つけてあげられるんじゃないか……。次の日も塾はある。僕は、連中に訊いてみよう、と決めた。



 バス停に降りた時、一番に目に飛び込んできたのは、ニシャだった。

 繰り返し言うけれど、ニシャを見つけるのは僕の特技じゃない。ニシャのほうの、仕様だ。その人目を惹く容貌は、何ヶ月経って、何人と寝ようが、変わらなかった。

 バス停から、それなりの距離のある帰り道を僕はそれを無視して歩き出した。ちょっと無視しないでよ、とニシャは僕を追いかけてきて、腕を取った。僕はそれを振り払った。でも、またニシャは、今度は反対側に回って、同じようにした。

 一回拒絶した。それで少年のかっこつけなければいけない美学に言い訳がついた。僕は、二度目は拒絶しなかった。で、何? と僕は言った。

「ケッコンしようって言われた」

 ニシャは、単刀直入過ぎる。でも、僕もこの少女が何を言っても、もう驚くことはなかった。そう、と僕は応えた。

「十六まで待って、ケッコンしようって」
「わかんないんだろ? ケッコンとか」
「うん」
「するの?」
「しないけど」
「なら、それでいいんじゃないの」

 イットーか、リュウか、それとも長村圭か、まあ、誰でも良い、とにかく誰かがニシャを独り占めしたがっている。それはわかる。そうしたくなる気持ちは、やっていない自分にだって、どんなに打ち消そうとしても、まだ心の何処かにある。

 ニシャは僕の顔を覗きこんだ。

「セキニンなんだって」
「まあ、そりゃあな」
 と応えて、僕はふっと嫌な考えに思い至った。
「まさか」
「何?」
「コドモできた?」
「ううん。できないよ。まだ生理になったこともないのに」

 僕は少しほっとして、いつのまにかニシャと見つめ合っていた目を雪道に落とした。

「それ、遅すぎるんじゃないの? よくわからないけど」
「うん。でも、面倒くさくなくていい。なんか痛いとか言うひともいるし」

 そう、とだけ言った。ニシャも、そう、と応えた。僕は、ニシャが掴んだ腕が、何だかひどく敏感になっているのに気付いた。改めて僕はその手を振り払った。なんだよー、とニシャが文句を言った。僕はひとつ咳払いした。

「そんなこと報告するために、待ってたのか?」
「待ってたっていうか」
「何?」
「うん、待ってた」
「お前、それ、今、そういうことにしたよな?」
「ううん、待ってたんだって」
「はあ?」
「え、だって、隣に住んでるのに、ヒトシの家には行けないし、学校じゃ話もできないし」
「お前のせいだよな?」
「そうかも」

 ニシャが僕の前に踊るように出て、振り向いた。雪道なのに、僕に身体を向けて後ろ向きで歩こうとするニシャに、僕は、アブナイからやめろよ、と言った。ニシャはやめなかった。

「どうして、聖モア?」
「何で知ってる?」

 僕はニシャに聖モア受験のことは言ってなかった。ニシャだけじゃなくイットーにも、リュウにも。何も言わず、ある日突然、消えてやろうと思っていたんだ。

 それが、僕の、その頃の、ダンディズムで、ハードボイルドだった。

 ニシャは、笑った。見透かされているようだった。

「教室でも難しめの問題集やってるし、塾にもこうやって通ってるし、すぐわかる。それに、いろいろ……」
「いろいろ?」
「長村は私立に推薦だって、バスケで」
「へえ」
「イットーは、北か港英でまだ迷ってて、リュウは――」
「お前は?」
「わたし?」
「そう」
「わたしはねえ……」
「うん」
「わたしも、聖モアの近くの女子校、受けようかなあ」
「ご勝手に」

 正直に言うと、その言葉は嬉しかった。でも、その時の僕はその感情を素直には認められなかった。ニシャは、首を少し傾げて微笑むと、前を向いた。そして言った。

「受かるといいね」
「そうだね」

 家の前で、僕たちは、じゃあね、と言い合った。でも、見つめ合ったまま動けなかった。ニシャは、また問うた。

「もうそろそろ、する?」

 僕は、わざとらしく顔をしかめて、応えた。

「しない。絶対」

 そして、そのままふたりはそれぞれの家に帰った。僕は、部屋に入り、勉強机に向かった。

 僕は気付いてなかった。マヌケだった。勉強も足りなかった。

 ニシャの爆弾が、もうその時仕掛けられていたなんて、思いもよらなかった。ただニシャへの反発心から、あの女の子の青い財布を見つけてあげよう、そうとだけ、決意を新たにした。


<#14終、#15へ続く>

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