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僕のニシャ #3【連載小説】

 この物語はフィクションです。実在するあらゆる個人・団体・学校・組織および事件・事象などとは一切関係ありません。
 また、この作品は2015年にKDP・Amazonで電子出版された作品に読みやすくするため改行や若干の言葉の変更などを加え、分割して順次掲載する予定のものです。以前の電子書籍版とストーリーにおいて変更はありません。
 途中からお読みの方、#1(第一話)はこちら↓です。


 

 丹詩香にしか――そんな名前滅多にいない。でも、あのニシャなら、名字は、少なくとも僕の知っている限りでは、章雄さんと同じ神津だった筈だ。

 母親の旧姓か? いや、でも、どう見ても、ニシャにしては美人すぎる。

 確かにニシャは可愛かったけれど、今そこにいる彼女は、まるで蛹からかえったみたいに、別人に見えた。懐かしさなんてものが、こみ上げてくることも無いくらいに。

 僕は知らずに眉をしかめ、睨むように彼女を見ていた。彼女がそんな僕をいつのまにか見ていたような気がするのは自意識過剰だったかも知れない。きっとガンを飛ばしているかのように彼女は思ったんだろう。二、三秒目を合わして、彼女は先生に視線を戻した。角倉先生は頷いて、何か挨拶でも、と彼女に言った。彼女はにっこりと笑みを浮かべて口を開いた。

「戸廻丹詩香です。色々あって、ここに来ました。と言っても、昔、小さい頃、この辺りに住んでたんですよ。もしかしたら、知ってる人もいるかもしれませんね。ゆっくり、お話して、そういうことも、わかるといいなって思います」

 昔、いた? やっぱり、ニシャか? と僕は少し前のめりになった。

 掛川がそれを不思議そうに見ているのに気付いて、僕は姿勢を正すように座り直した。ちょっと顔を傾げて、目を輝かせると、彼女は言った。

「皆さんと仲良くします!」

 なんだよ、仲良くします、って、仲良くして下さい、だろ、何の漫画だよ、と僕は思った。多分、皆そう思った。

 そんな心のツッコミが彼女に伝わることはなく、最後に、宜しくお願いします、と彼女はまた頭を下げ、先生に指示されて最後列の空いた席についた。まわりの男子ばかりじゃなく、女子まで緊張したみたいだった。

 それが、彼女が可哀想なところだった。大都会なら、彼女と同等の仲間もいたかもしれない。でも、その田舎では、可愛すぎて、あまりにも異質だった。

 後ろの席を振り返ってまで彼女を見ていたわけではないけれど、授業中はもちろん、休み時間も彼女に話しかける人間はいなかった。もっと言えば、彼女が何かを話しかけようとしても、すっと空気が無くなったみたいに相手は黙り込んでしまった。

 彼女は簡単にはめげなかった。褒むべき点だ。でも、あがけばあがくほど、クラス、特に女子との断絶は明確になった。助けようとする男子もいなかった。そのかわいさは、男子に過剰な意識を喚起させたからだ。彼女の意気込みとは反して、その日の昼休みも待たずに、彼女はぽつんとひとりぼっちになった。

 手に負えないのは、ぽつんとしていても、特別なオーラを発散し続けていたことだったけれど。

 女子の視線が、意味ありげに交わされて、彼女がトイレか何かで教室を出て行くと、まったく反対の意図を持った褒め言葉で揶揄する声すら聞こえた。たった一日で、しかも何もしていないのに、彼女のポジションは、ひとりで覆すには少々厄介すぎるものになった。

 いや、僕がイタリア紳士だったなら、絶好のチャンスだと捉えただろう。

 もしかして、あのニシャ? やっぱり? オレオレ、坂上人司、隣の家の、ほら、あんまり綺麗になったから、わからなかったよお、なんて声を掛けたはずだ。

 でも、しなかった。

 したい気持ちが無かったなんてことは、決して言えない。だけど、中学生なりの保身というものがある。かっこつけがある。僕は異質なものにはなりたくなかった。

 本当に僕は勇者向きの人間ではない。僕の知っている中で一番勇者に近いと思われたイットーはどうだったか。しかし、シモネタを駆使することと、実際の女の子と上手くやることとは全く別の技術だ。イットーは絶対に見ない、と言わんばかりに彼女に背を向け続けた。多分十分意識はしていたのに。していたからこそ、背中だけを向け続ける事ができるんだから。

 僕は、思う。ゲームに出てくる勇者たちはどうして勇者になったんだろうか、と。

 正義感? 力? 勇気? どれも違う。勇者を勇者たらしめるもの、それは、単なる偶然だ。運命、って言うひともいるだろうけど、やっぱり、僕には偶然と呼ぶのがしっくりくる。

 そこに魔王がいて、滅びそうな世界があって、どういうわけか救わなければならない姫が話しかけてくる。どんな理由をつけても、そうなることこそが大事なんだ。どんなに無視しようとしても降りかかってくる偶然が必要なんだ。そして、そんな偶然は僕には訪れなかった。

 彼女が話しかけたのは、その背を向け続けていたイットーだった。僕はその場にいたわけではない。だから、あくまで伝聞でしか、語れない。二人はトイレの前で、偶然、鉢合わせたのだそうだ。彼女はこう言った。

「エロい話、聞こえてるよ」

 イットーは、どうすればいいのかわからずに口ごもった。そんなイットーに意味ありげに微笑んで、彼女はイットーの耳元に口を寄せた。

「あたし、そういう話、案外好きだよ」

 あくまで想像でしかないけれど、きっとイットーはどぎまぎした。「そういう話」という部分が脳内で削除されて、好きだよ、って言葉だけになった。自分の事を好きだ、と言われたような気がした。

 もちろん違うとわかる判断力もある。でも、自分の最大の特徴を、あの笑顔で、肯定されたんだ。普通じゃいられない。爆発しそうな喜びは、彼にほんの少し勇気を与えた。彼は、君はどこから引越して来たの? と訊いた。彼女は、東京の××市、と応えた。案外田舎からなんだよー、と彼女が言うのを、ちょっと不自然に遮って、彼は言った。

「どっか違う星から来たかと思った」

 彼は言ってすぐに、それが、ジョークとして伝わっているかどうか不安になった。顔を上げると、彼女が少し驚いたような顔をしていた。彼は、慌てて打ち消すように、しどろもどろに、いや、変な意味じゃ無くて、なんていうか、ほら、その……と上ずる声で言った。彼女が見詰めていた。消えていく声の最後に言おうとも思ってなかった言葉が乗った。

「可愛いから」

 彼女がぱっと笑った。笑って、嬉しいな、と言った。

 彼の頭から言葉が消えた。その位の笑顔だった。

 彼女は、彼の手を取り、仲良くしようね、今日良かったら、一緒に帰ろう? と言った。女の子の好意というものを素直に受け入れられないひねくれた年頃の心に、相反する色々な衝動が飛び交い、彼はまた口ごもった。

 彼女は、彼の握りしめた小指を解すように、自分の小指を絡ませた。約束、そう言った。およそ自分に向けられた無数の瞳の中で、最も美しい輝きがそこにあった。そして、すっと離れると、彼女はまるで全身で微笑んでいるみたいな背中で、去って行った。

 彼は幻かと思った。まるで何か大事なものが抜かれてしまったような気がした。教室に戻って、気付くと、彼女が絡ませた小指が、まだ、折り曲がったまま、拳から浮き上がっていた。

――ということがあったのを僕は知らなかった。言われてみれば、イットーのシモネタがぎこちなくなっていたような気もする。放課後帰る時、彼女とイットーがアイコンタクトを交わしたような気がした理由も、後になってわかった。

 まあ、後の話だけれど。

 とにかく、そんな大事な局面に僕は何も気付いていなかった。いつも通り、アホそうな顔をして、今日やってきた転校生と掛川のことなんかを交互に考えながら、家に帰っただけの話だった。

 家の前まで来て、僕は驚いた。隣の家の前で、道に大の字になって横たわっているオトナを見たからだった。

 住宅地で車は殆ど通らないとは言え、危ないですよ、くらいのことは言うべきかと迷った。でも事情のある間柄だ、知らぬフリをして、家に上がろうと僕は決めた。

 しかし、ヒトシくん、と大声で呼ばれてしまった。僕は立ち止まって、彼を見た。

「何してんですか? 章雄さん」と僕は訊いた。
「駄々を捏ねてる」と章雄さんは応えた。
「ああ、そうですか、それじゃ」と僕は家に入ろうとした。
「待ってよ、ちょっと」
 少し頭を上げた章雄さんは、端正な顔を、悲しそうに歪ませて、僕を呼び止めた。僕はひとつ息をついて、目を合わせた。
「事情くらい訊いてよ」と章雄さんは言った。
「興味ないです」
「昔、君がおねしょした時、シーツ洗って布団干したの僕だよ」
「そんな昔のことは忘れました」
「一緒に遊んだじゃない」
「そうでしたっけ」
「僕は今でも君のもうひとりのパパのつもりだ」

 その言葉にちょっと複雑なひっかかりを感じながら、僕は、はあ、とだけ応えた。本当にそう思ってるんだよ、と章雄さんは言った。だとしても、路上で駄々を捏ねる人が父親なのはちょっと御免こうむりたかった。

「珍しいですね、こんな時間に」と僕は言った。
「有給休暇」と章雄さんは応えた。
「へえ」
「僕は、ほら、何故か売れちゃうじゃない? トップセールスマンだからさ」

 詳しくは知らなかったが、章雄さんは、自動車か何かのセールスマンだったらしい。

 持ち前の魅力で、きっと金持ちのバ……奥様たちをその気にさせていたのだろう。まさか仕事でも駄々を捏ねているわけじゃないよな、と他人事ながら僕は不安に思った。

 有休取らせて貰えるってのは、すごいことなんだぜ、と章雄さんはちょっと誇らしげに言った。はあ、そうですか、としか応えようのない自慢だった。

 僕はちょっと呆れて章雄さんを見下ろしていたが、ふと、今日現れた丹詩香が、あのニシャであるのか確認したくなった。

「あの」
「何?」
「今日、転校生が来たんですけど」
「あ、もしかして?」
「アレ、ニシャですか?」
「おお」
「何ですか?」
「まだ、ニシャって呼んでくれるんだ」
「いや、それはいいんですけど……ニシカさんですか?」
「あれ? 遠ざかったね」
「戸廻丹詩香って、戸廻って、知らない名前だから」
「ああ、前の奥さんの旧姓だよ、トメグリさん、変な名前だよね」
「どうなんですか」
「うん、丹詩香だよ、ニシャだ」

 章雄さんはいつのまにかリビングでくつろいでいるかのように、僕に身体を向けていた。そして、何だよ、確認しなきゃわからないのかなあ、薄情だなあ、とぶつぶつ言った。

「いや、その、あんまり、その……変わったから」
「そう思う?」章雄さんは上半身を起こした「いやあ、ほら、わが娘ながら、すごく可愛くなったよね? すごくすごく可愛い! ほんと、さすが僕の娘だよねえ」

 まったく、このひとの屈託の無さは一体何なんだろう、と僕はまた呆れた。で、と僕は言った。

「で、駄々を捏ねてるのはなんでですか?」
「だから、奥さんが許してくれなくてさ」
「何を?」
「ニシャと一緒に暮らそうと思って」
「は?」
「あんな可愛い子だもん、きっと楽しいに決まってるのに、奥さんってば、もう、怖くってさ、許してくれないんだ。だから、住むとこも全部引き払って、黙って連れて来たんだけど、それが悪いって、怒っちゃって。だから今ホテルに泊まらせてるんだけど」
「あの、春香さん……ニシャのお母さんは?」

 章雄さんは、くっと息を詰めた。そして、また両手両脚を広げて、大の字になった。

「死んじゃったんだよね」

 章雄さんの目が潤んだような気がした。僕は人の死に対して相応しい言葉をまだ持っていなかった。だから、黙り込んだ。

「ああ」と章雄さんは叫んだ「行くところないじゃない? 戸廻の家って、親戚いないし。可哀想なんだ。あの子。僕がどうにかするしかないんだ。可愛いけど、可哀想なんだ。あの子は」

 それを僕の母を抱く前に気付いてくれていたならこんなこと起きなかったんじゃないですかね、と皮肉を思いつくまでには、あと何年かかかる。

 その時の僕は、ニシャが可哀想な境遇に陥ったことに、同情で胸が押さえつけられているような気がした。

 章雄さんは、僕は絶対ニシャを引き取るぞ、と叫んだ。

 その時、神津家の玄関がばっと開き、中から、庸子さんが飛び出してきた。彼女は、もう、やめて、恥ずかしい、と声を抑えて叫んだ。

 玄関には花菜もいた。不安げな様子に見えた。僕は花菜にちょっと微笑みを向け、夫婦のやりとりに干渉しないようにして、ようやく家の中に入った。

 着替え終わって、さて、今晩は何を作ろうか、とソファーで横たわっている時、電話が鳴った。父からだった。今日はちょっと誘われたから、食事はいらない、と父は言った。そういうことはちょくちょくあったから、僕はわかったと応えた。父さん、と僕はなんとなく言った。

「何だ?」
「隣の、章雄さんの前の奥さん、亡くなったんだって」
「……」
「それで、ニシャが……丹詩香が……隣の子が、帰って来たんだ」
「……」

 父は、何も言わずに電話を切った。僕は自分が余計なことを言ってしまったように感じた。少し気分が落ち込んだけれど、僕は何度か頭を振って、自分の分の夕食の支度にかかった。そんな父でも食べてくれる人がいないと、手間を掛けようという気にはならなかった。僕は豚こまとミックスベジタブルで、ケチャップライスを作った。食べ終わって、皿を洗っている時、また電話が鳴った。エプロンなんて着けてなかったから、ジャージのパンツで手を拭いながら受話器を取った。

「坂上です」僕は言った。

 少し、沈黙があった。瞬間、いたずらか、と頭を過ぎったけれど、すぐに、あ、あの、と女の子の声がした。

「あ、あの、その」
「はい」
「坂上さん、ですか?」
「そうですけど」
「ひ、ヒトシくん、いらっしゃいますか?」
「僕ですけど」
「あ」
「僕です」
「わたし、掛川……です」
「あ」

 あの頃、何で、女の子から電話がかかってくるくらいのことで、頭の中にあんなに色んなものがめぐり渡ったんだろう。

 電話って、特別なことだった。

 まして、異性にかけることはとても高いハードルだった。そのハードルを越えて、かけてくるなんて、学校の用事という言い訳か、そんな障害を乗り越えるだけの何かがなければできないことだった。

 当然、少年は期待するんだ。色んなことを一足飛びに越えて、その声の主の裸に触れるところまで。でも、その頃は女の子の裸には服よりも厚い社会的な、道徳的な何かが着せられていたし、そんな分厚いものを上手く処理する技術も僕はまだ持っていなかった。

 結果、無愛想に応対するくらいしか、できなかった。僕は裏返りそうな声をぐっと抑えて、何? と低い声で言った。

<#3終、#4へ続く>

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