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僕のニシャ #41【連載小説】

 この物語はフィクションです。実在するあらゆる個人・団体・学校・組織および事件・事象などとは一切関係ありません。
 また、この作品は2015年にKDP・Amazonで電子出版された作品に読みやすくするため改行や若干の言葉の変更などを加え、分割して順次掲載する予定のものです。以前の電子書籍版とストーリーにおいて変更はありません。
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 夕食は、天ぷらそばだった。

 つまり、僕は宇良さんといた。

 虚勢と疑心暗鬼と好奇心、そんなものが、ない交ぜになって、予備校に戻って来た宇良さんに僕をついてこさせた。もし、シナリオが最悪のものだったとしても、僕はそれがどのくらい最悪なのか、どうしても明らかにしなければならなかった。

 宇良さんがいつもの「中間」の表情で、そばを啜っていた。僕は海老の天ぷらを噛んだ。さすがに高校生一人では入れなさそうな高級そうな蕎麦屋の、普段食べるそれより一桁値段の違うそれは、油で揚げたみたいな感じすらしないほど軽いのに、さくさくとしたとても心地よい食感で歯を楽しませた。僕は、そんなものにも気後れしていた。

 だからなかなか訊きたい事も訊けなかった。でも、食べ終わった宇良さんが煙草に火をつけた時、思い切って顔を上げた。屈折した冗談が口から出ていった。

「いちご会のひとだったんですね」

 宇良さんが、平然と、煙を吐いた。そして、煙草で僕を指した。

「だから、言ったでしょ? あらゆる階層に潜んでいるって」

 僕は力無く笑った。

「えてして、身近な普通の人間が一番恐ろしい、でしたか」
「そうね」

 煙が、ゆっくりと、紫に揺らぎながら、僕たちを包んでいた。冗談はやめましょうか、と宇良さんが言った。ええ、と僕は応えた。

「したんですよね?」と僕は訊いた。
「したよ」
「それが目的でしたか? それで僕に近づいた?」
「どうだろうね」
「どっちですか」
「本当に嬉しかったんだ。同じ問題を解ける人間がいたことが」
「それだけじゃないってことですか」
「どっちでも。君の好きな方で。わたしには君の頭の中まで手を入れて整えてやることはできないから」
「僕は、宇良さんが好きですよ」
「うん、嬉しいよ」
「大事なひとだと、思いたかった」
「思っていいよ」
「でも……」
「何?」

 僕は、そばの最後の一口を噛まずに呑み込み、箸を置いた。宇良さんは短くなった煙草を灰皿に押しつけ、そしてまた新しい煙草に火をつけた。

「興味があった」宇良さんが言った。
「ええ」僕は応えた。
「どんな子かって」
「ええ」
「話を聞いてるだけだと、ただのインラン女に騙されているだけのようにも思えたから」
「ええ」
「挑発のつもりもあった」
「ええ」
「それに乗ってきたのは、少しびっくりしたけど」
「ええ」
「でも、引き下がるわけにはいかなかった」
「ええ」
「わかったこともある」
「ええ」
「坂上くん」
「はい」
「あの子は、わたしが想像してたようなインラン女じゃない」
「ええ」
「身体が求めてるわけでも、ただいい加減で股がゆるいだけでもない」
「ええ」
「馬鹿でもない」
「はあ」
「そもそも、セックスを楽しんでない」
「はあ」
「何かに挑戦してる。意地になって」
「はあ」
「何かはわからない。でも、確固たる信念があって、それに殉じている」
「はあ」
「わたしにわかったのはそれだけ」
「はあ」
「でも」
「でも?」
「それなら、どうにかできる可能性がある」
「は?」
「人間には、思いもつかないことが起こる」
「はあ」
「そんな時、頭で考えてたことなんて、無力だよ」
「はあ」
「後は自分でどうにかして」
「はあ」
「同じ問題を解こう」
「……はあ」
「そして、何年かたったら、答合わせをしようよ」

 宇良さんは鞄から、メモ帳を取り出すと、さらさらとペンを走らせ、破って、テーブルの上を滑らすように、僕に差し出した。

「連絡先。実家も、今の部屋も、書いておいた」
「はい」
「君のも教えてくれる?」

 僕はノートを取り出し、一枚破って、言われるまま住所と電話番号を書き、渡した。ありがとう、と宇良さんは言った。いえ、と僕は応えた。

 店を出て、僕たちは向かい合った。宇良さんが髪を掻き上げて言った。

「わたしは、責任を果たすよ」
「え?」
「そのために当事者になった」
「はあ」
「君との友情を育ててもいいと思った」
「はあ」
「時間を、かけよう。わたしは、そういうものしか本当には信じないことにしてる」

 宇良さんは、僕を見詰めていた。

 新條あたりには、お人好しだとか、世間知らずとか、言われそうだけれど、やっぱり、悪意とか、欺いてやろうとかいう企みを感じなかった。

 仕方無いか、と思った。笑うしかなかった。

「性的なのは抜きで、でしたね」と僕は言った。

 宇良さんも笑って、僕の頭を軽く抱き締めた。

 その、微かに煙草の煙が感じられる女の首筋の匂いが、僕の中で、「夏の匂い」になった。
 



 あとは大体一人で勉強をして、夏期講習も終わった。僕とニシャは帰りの列車が一緒になった。

 自由席に座った僕を見下ろして、ニシャは、隣良い? と訊いた。僕は応えなかったけれど、ニシャは棚に荷物を上げて、隣に座った。

 肩が触れた。僕は、すっと、身体をずらした。ニシャは、それを見て、更に肩を押しつけてきた。僕は完全にニシャに背中を向けて、窓の外を見た。ニシャが僕の背中を殴った。痛くなかったし、振り向かなかった。

 ホームには、サラリーマンや家族連れや学生がいた。列車の窓から見える人々は、まるで水槽の中のサカナのように思えた。いや、むしろ向こうからは僕たちが水槽の中にいるように見えるのか、と思いなおした。

 僕たちは、そんな風にしか、自分以外の人間を見ることができない、と考えついて、でも、大して良い言葉でもないな、と思った。

 もう一度、ニシャが僕の背中を殴った。僕は顔だけで振り返った。

「何だよ?」
「ごめんね」
「何が?」
「いろいろ」
「いろいろか」
「そう、いろいろ」

 まあ、それだけで、「いろいろ」わかった様な気がした。

 僕は新條が言うようにそんないろいろに慣れてるわけじゃない。苦しい。そういうものは消えない。

 でも、それがニシャの物語に組み込まれてしまった僕の運命だった。

 もし、僕が何かを諦めたとするなら、この時だったと思う。

 僕はニシャの水槽で溺れる決意を、ぼんやりと、した。

 自分をあざ笑うように、僕の顔は緩んだ。何かおかしい? とニシャは言った。別に、と僕は言って、ニシャを横目で見た。意地悪がしたくなった。ところでさ、と僕は言った。何? とニシャが応えた。

「女同士ってどんなことすんの?」
「え?」
「いや、なんていうか、リアリティがないっていうか、想像できないっていうか」
「どんなって言われても、普通に?」
「普通、じゃねえよ。女同士は」
「そうか」
「そう」
「そうだね」
「あれだな、女同士だと、コドモができないから、あんまり気にならないのかね。本能的に」
「ん? わたしまだ男とでもできないよ?」
「あ?」
「まだ生理来たことない」
「……あ、そう。っていうか、いいかげん遅すぎるだろ、それ」
「うん。どうなってんだろうね」
「お……おう」
「うん」

 列車が動き出した。ニシャが僕を見詰めていた。何だよ、と僕は言った。別に、とニシャが応えた。

「この夏は、いろいろあった」
「そうか? 平常通りだろ」
「そう?」
「そう」

 ニシャが、うん、と頷き、ちょっと息をつくと、にやり、と笑った。

「そんなに訊きたい?」
「いや、別に……」
「あのね――」

 ニシャが僕の耳元に手をかざして口を寄せた。その時聞いたことは、ここには書かない。想像してくれ。でも、相変わらず敏感な部分がジーンズの中で硬くなって、早く家に着かないかな、と僕は列車の中で何度も思うことになった。

 最低だ。でも、それが僕だった。


<#41終、#42へ続く>

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