僕のニシャ #43【連載小説】
この物語はフィクションです。実在するあらゆる個人・団体・学校・組織および事件・事象などとは一切関係ありません。
また、この作品は2015年にKDP・Amazonで電子出版された作品に読みやすくするため改行や若干の言葉の変更などを加え、分割して順次掲載する予定のものです。以前の電子書籍版とストーリーにおいて変更はありません。
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その事件について、書いておくべきなんだと思う。
ニシャが地に落ちた日のことを。
夏休みが明けて、僕は以前と同じように、放課後自習室で勉強をする毎日だった。ニシャもいた。ニシャも章雄さんが言ったとおり真剣に勉強を始めたようだった。時々、質問された。僕は、集中が途切れるのが嫌だったし、訊かれたことにもし応えられなかったらメンツがつぶれるような気がしたので、ほとんど相手にしなかった。新條もいた。だから、結局ニシャと新條が、何かこそこそと内緒話でもするように、教えあうようになった。
しかし、そんな日々のある頃から、男子たちの数人のグループが入り口から、僕たちを覗き込んでは、目が合うと、ぱっと隠れるような行動をするようになった。どうせ、ニシャを見に来てるんだろ、と僕は思った。花見んと群れつつ人の来るのみぞ、と。
それは間違いじゃなかった。でも、意味が違った。
ある昼休み、僕とニシャと新條は一緒に私立文系の教室に入った。あれは、嫌な感じだ。すっと、教室が静まった。変化はとうに起きていたのかもしれない。でも、僕はそれにその時まで気付かなかった。多分それがその日僕にも認識できるほどの値に達したんだろう。興味深げに視線を注ぐ者、目を逸らす者、自分の勉強に集中する者、そんなふりをしてこちらに意識だけは向ける者、どちらにしても、ただ静かなだけではない、妙な緊張感が教室に満ちていた。僕はそれが自分たちのせいだとはわかったが、でも、普段通りに席に着いた。
ニシャが一旦席に着き、何か思い出したように、立ち上がると僕の方に寄ってきた。ヒトシ、と僕に声を掛けた。その瞬間、おおっ、と声を上げるグループがいた。派手だが、成績の振るわない連中だった。僕が目を向けると、にやにやと笑いながら、彼らは目を逸らした。ニシャはそんなこと気にもしていない様子で、ヒトシ、と僕の肩に触れた。また、おおおっ、と声がした。始まるんじゃねえ? おお、やるのか? という言葉がその中に混じっていた。
僕は眉をしかめて、彼らを見た。僕らの関係についての羨望や嫉妬については、僕はある程度慣れていた。でも、その時の彼らには、もっと違う、悪意のようなものを感じた。それに対してストレートに怒りを表現できるほど、僕は強くない。いつもの通り、安定と実績の戦えない男だった。
でも、戦える女がいた。新條が、すっと立ち上がり、彼らを睨み付け、何? あんたら? と低い声で言った。彼らはにやにやとわらったまま応えなかった。
「言いたいことがあるなら言えば?」新條が言った。
意味ありげに視線を交わした彼らの内の一人が机に腰掛けたまま応えた。
「戸廻さんはぁ、誰とでもするんですかぁ?」
おお、言ったよ、言ったよ、と教室が湧いた。それまで、目を逸らしていた他の連中も顔を上げて、ことの成り行きに、無言で、参加し始めた。つまり、もっとやれ、と雰囲気で連中を応援し始めた。それを感じ取ったさっきの一人が言った。
「戸廻さん、ヌケタとやったんでしょう?」
おお、と歓声が上がった。新條が、ほんの少し狼狽しながら、何言ってんの? と叫んだ。言いたいことがあるなら言えっていったのお前じゃねえか、と彼は応えた。
「嘘に決まってるでしょ? そんな事」新條は負けずに言った。
「あーれー? ヌケタ、そうだよな?」
それまで教室の隅でうずくまるように座っていた毛野が、振り向き、自信ありげな笑みを浮かべて、そうだよ、何回もやった、と高らかに言った。うーわー、と女子が引いたような声を上げた。新條が、でたらめよ、そんなの、どうしてそんな嘘付くの? と毛野を睨み付けた。毛野は、うそじゃないっ、と裏返る声で言った。連中のひとりが冷めた声で、お前には訊いてないよ、ブス、と呟いた。新條が、何だって? と凄んだ。まあまあ、とふざけて取りなすようにさっきの一人が言った。
「ヌケタとしたのが嘘でもさ、他のクラスの女子からも聞こえて来てるよ、戸廻さんは、実行委員全部食っただけじゃないってさ、そこの私立文系のエースともやってんでしょう?」
やってねえよ、と叫んだ。心の中でだけ。
「ねえねえ、坂上くん、幼なじみなんでしょう? ヤリマンの幼なじみってどんな感じ? あ、すごく良いのか。安達さん、ふっちゃうくらいだもんね。きっと凄いことしてもらってんだよね」
凄いこと聞かされてはいるけどな、と皮肉を言った。心の中でだけ。
「ヤリマンとヤリチンかよ」
教室にいる皆に失笑された。失礼な、僕は童貞だ、と僕は呟いた。もちろん心の中でだけ。
「で、どうなの? ほんとのところは? ほんとならさ、俺にもやらせてよ」と彼はニシャに向かって言った。
そこまでのやりとりをまるで他人事のように見ていたニシャはちょっと首を傾げ、にっこり笑って彼らを見た。本当に堂々としていた。大体普通にしてても、相手を萎縮させがちなオーラの女が、その力をいっそう発散したように見えた。
彼らが、くっと、顔を引いた。
「で? どうなわけ?」彼は掠れる声で訊いた。
「ほんとだよ」ニシャが応えた。
あーあ、認めやがった、と頭を抱えた。心の中の僕が。
「そ、そう……」
「あ、でも、実行委員会全部ってのはないな。大橋さんと目黒さんとはやったかな。目黒さんには無理矢理された」
「あ、そうですか」
「で、ヒトシとはやってない」
「はあ」
「シンタとはやった」
「そう」
「何回も」
「はい」
「君もする?」
「え?」
「やらせてよ、って言った」
「あ、ああ」
「いいよ」
「え?」
「誰とでもするよ。女の子でも」
「あ、はい……」
「今、しよう、ここで、しよう」
「え? え?」
「ほら、ズボン下ろしなよ」
「いや、それは」
「下ろしてあげようか?」
ニシャが、彼に歩み寄った。彼ばかりでなく、グループの連中も顔色を失った。ニシャの右手が彼の股間に伸びた。彼は慌ててベルトを抑え身を屈めた。
「ん? したいんでしょ?」
「いや、それは、こんなとこでは」
「どうして? しようよ。ここで。きっとすぐ済むよ。そうしてあげる」
「こ、こんなとこで……恥ずかしいっていうか、その……」
「小さいの?」
「え?」
「小さいんだ。でも、そんなこと恥ずかしくないよ。個人差だよ。個性だよ。小さくてもちゃんとできるよ」
彼は、顔を真っ赤にした。動揺して、うろたえて、それに気付いて、怒りでごまかそうとしたのが、きちんと表情に出ていた。そして、彼は吐き捨てるように言った。
「キタナイ女。頭おかしい」
「そう? セックスする女が汚いなら、あなたのお母さんはどうなの? お母さんがしなかったら、あなたは生まれなかった」
「だ、誰とでもなんかしない」
「本当に? お母さんの男性遍歴聞いたことある?」
「そんなことっ……」
チャイムが空気を読まずにいつも通り鳴った。さっきまでの異常で静かな盛り上がりが、沈殿するみたいに床に落ちていった。
新條が、ニシャの肩を抱くように、席まで促した。誰かれ沈黙するしかなかった。
おそらく、先生が入って来たとき、皆ほっとしたはずだ。僕もそうだった。
多分、ニシャのあの対応は、最も適切だった。ヘタに否定すれば、かえって好奇心をかき立てる。何故かひとは、他人が隠そうとするものをこそ、ほじり返したがる。自分たちの邪推を正しいものだと証明したがる。そして明らかにならなければ、あるいは、自分たちの思ったとおりのものでなければ、腹を立てる。他人のことなのに。だから、間違いじゃない。
でも、僕は虚脱感でいっぱいになった。僕が隠そうとしてきたことが、本人によって明るみに出た。
あの遣り取りのあとで、更に、受験前の自分のことしか考えられないものが多くいる状況の中で、あからさまに暴力的ないじめに走るものもいなかったけれど、でも、噂は本人が認めた事実として、静かに確実に広まったし、ニシャはもう憧憬の対象ではなく、僕は羨望の的でもなくなった。ただ汚らしいビッチとそのヒモ(別にやしなわれていなかったけれど)と見下されるだけの存在になった。それまでときおり話を交わしていた何人かのクラスメートも僕から目をそらすようになった。ニシャは、主に女子からもっとはっきり侮蔑の言葉を受けているようだった。僕とニシャが二人でいれば、彼らは眉をしかめて見るか、軽蔑的に鼻で笑った。実質僕たちだけが使っていた自習室は、愛の巣とか、ヤリ部屋とか、そんな言い方で呼ばれるようになった。
後日、トイレを出ようとしたとき、すれ違った毛野に僕は言った。
「満足か?」
「……」
「満足だろ? 女神さまを引きずり下ろして」
「……最初は、僕が言ったんじゃない。訊かれたから、本当のことを言っただけ」
「他に誰が言うんだよ」
「知らない」
「そうかよ」
「……」
「安心しろ。僕はお前がマラソン大会でクソをもらした事なんて言わない」
毛野が目を見開いた。ほら、早くしないと、また洩らすぞ、と言い残して僕はトイレを出た。
歯を噛みしめた。相手が弱いから、僕はそんな捨て台詞をぶつけることができた。
僕はニシャや新條のように戦えない。自分の信じるもののために、自分の愛するもののために、負ける勇気がない。
そんな自分がいやだった。
廊下を歩いた。向こうから、まことが歩いてきた。目が合った。まことが目を逸らして小走りにすれ違っていった。
僕はそれで大体わかった。それなら僕にも自業自得な部分がある。
僕は窓の外を見た。木々の葉は落ち始めていた。思ったより、僕は女神さまの従者という立場とそれに対する羨望の眼差しに優越感を持っていたんだな、と感じた。
それはいい。
でも、学校社会の中で貼られたニシャに対する「汚れた女」というレッテルが、自分にとってのニシャの価値にまで影響してしまいそうになることと、あんな女と一緒にいることの本当の覚悟がなかったことに、たまらない哀しみと怒りを感じた。
<#43終、#44へ続く>
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