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僕のニシャ #6【連載小説】

 この物語はフィクションです。実在するあらゆる個人・団体・学校・組織および事件・事象などとは一切関係ありません。
 また、この作品は2015年にKDP・Amazonで電子出版された作品に読みやすくするため改行や若干の言葉の変更などを加え、分割して順次掲載する予定のものです。以前の電子書籍版とストーリーにおいて変更はありません。
 途中からお読みの方、#1(第一話)はこちら↓です。


 

「何かわたしの名前が呼ばれた気がしたよ?」

 ニシャだった。

 彼女は、当時としては――あくまでも当時としては――短すぎるスカートから伸びるすらっとした足を見せつけるかのように僕たちの机の前に来た。僕はその顔を一瞬見上げ、そしてイットーを見た。イットーは目を逸らした。

 僕は視線を机の上にとりあえず置いた。つるつるで柔らかそうな生足の膝小僧につい目を遣らないようにするためだった。それでも自分を見下ろすニシャの視線が感じられた。僕は緊張して、膝の上の拳を握り直した。

 そんなことなどまるで気にしないかのように、ニシャは、飴あげよう とまだこの学校のとは違う制服のブレザーのポケットから包みを二つ、僕と掛川の机に置いた。僕は掛川の顔を見た。

 掛川の性格は悪くない。多少きつく見えることもあるけれど、こういうときつっけんどんに突き返せるタイプでは決してない。その代わりに掛川は困惑した笑顔を浮かべていた。

 ニシャは、やっぱりそんなことを気にしていないかのように、これはねえ、元いた街の有名な店の飴でね、色々種類があるんだけど、美味しかったでしょ? 昨日と違う味だから食べてみて、と得意げに言った。掛川は、仕方無さそうにそれをつまみ上げて、ニシャを見詰めた。何のてらいも無く、ニシャは笑っていた。掛川が言った。

「あなた、会う人皆に何かしら配ってるの?」

 ニシャは少し首を傾げて眉を上げた。いや、顔を見ていなかったからわからないけれど、そういう雰囲気がした。そしてニシャは応えた。

「皆じゃないなあ」
「そう?」
「好きなひとだけ。もしくは好きになれそうなひとだけ」

 掛川が、虚を突かれて、くっと頭を後ろに下げた。そこは欧米じゃないし、オープンな時代でもなかった。単なる友人としての好意でも、それを表明するのははばかられることだった。不自然な筈だった。マナーとしても、タイミングとしても。でも、ニシャが言うと、それがごく当たり前のような感じがした。当たり前で、特別だった。

 掛川がちょっと動揺したように、あ、ありがとう、と言った。すると少し考えるように、ニシャは顎に曲げた長い指を当てた。僕は知らずにニシャの顔を見ていた。うん、とニシャは言った。

「でも、どんなひとでも、大抵、好きになっちゃうんだけど」

 掛川が少し言葉を失い、目を見開いた。そして、わき上がるものを堪えきれない感じで、ふ、と小さく笑った。それを見て嬉しそうに口角をあげると、ニシャは、ね、清乃ちゃんって、呼んで良い? と掛川に訊いた。掛川は、少し息をついてから、頷いた。ニシャは、じゃあわたしのことニシカって呼んで、と掛川の頭を抱いた。掛川も驚いただろうけれど、それ以上にクラスがしんとしたように僕には思えた。

 馴れ馴れしい、とか、掛川と坂上も裏切った、とか、え、もしかして自分も仲良くなれる? とか、そういう色んな思惑が飛び散ったような気がした。

 でも、チャイムが鳴って、ジャストオンタイムで角倉先生が入って来たせいで、そういうものはすぐにどこかに拡散していった。ただ、僕は、イットーが、らしからぬ粘っこい視線をニシャに向け続けているのにも気付いていた。

 イットーは確かにシモネタを駆使したけれど、本当はそんなにくどいヤツではない。むしろそれ以外は乾いた印象すらある。彼のシモネタは、今思うと、自分が少年にしかすぎないことへの照れ隠しみたいなものだった。

 でも、その時の彼は、何というか、彼の普通ではなかった。まあ、よくある恋愛ってやつだな、と僕は思った。それが「面倒くさい恋愛」というカテゴリーに分類されるものだとは、考えてなかったけれど。

 で、放課後、何故か僕たち五人は公園にいた。いや、そのニュータウンには、中学生がたむろできそうなゲームセンターも、駄菓子屋も、喫茶店も無かったから、何か話でもしたいとなれば、そこに行くのが当然の成り行きと言えば当然だった。

 そうではなくて、何故か僕がそのグループに入っていることに僕は納得がいっていなかった。ニシャは、すっかり掛川に懐いた。ニシャは、休み時間の度に僕たちの席まで来て、学校のこと、受験のこと、地域のことなんかを楽しそうに訊いていた。本当は独占したかったんだろうけれど、屈託なく振る舞うニシャに、それは諦めたんだろう、どこか割り切れない様子で、イットーが加わった。イットーがいるなら、僕がそれを避けるのも、変な話だった。だから、席を離れられなかった。

 ニシャは視線を僕たちの誰に向けるのも躊躇わなかった。おそらく一番先に仲良くなったイットーが、それを不満に思っているのもわかった。ニシャがイットーを見るときだけ彼の表情が緩み、僕や掛川にニシャの視線が移るたび、物足りなげに、不安げに曇るのを、僕は見ていた。

 あんな女の子と一番に「トモダチ」になった特権が欲しい気持ちはよくわかる。それだけじゃなかったのは知らなかったけれど。でも、ニシャは、そんなことまるで気に掛ける様子もなかった。

 掛川は普通だった。でも女の子が普通に振る舞っているとき、どんな気持ちでいるかなんて、本当に少年には想像もつかない。ずっと大人になって、痛い思いをするまで、それには何重にも隠された底があることには気づけないんだ。その時の僕も無論気づいてはいなかった。

 とにかく僕たちは、グループにされた。そうクラスの連中に見做された。一旦属性が決まってしまうとそれを覆せないのが、その教室のルールだった。それまでも陰湿なイジメは無かった。僕たちも何かあからさまな迫害を受けることはなさそうだった。でも、グループ同士で柔らかな無視をし合うそのルールは僕たちにも適用された。

 僕にはもともとイットーとリュウくらいしか親しいと呼べるトモダチはいなかったからマシだけれど、おそらくそれで一番弊害を受けたのは掛川だったろう。それまで彼女と仲良く見えた数人の女子達が、ニシャが傍にいる間、掛川には寄ってこなくなった。僕はそんな空気の変化が居心地悪かった。

 帰る時、僕はリュウに声を掛けた。リュウになら、こういう愚痴を言えると思った。リュウも話したい事があるように見えた。リュウが立ち上がって鞄を肩に掛けた時、イットーが、多分皆に聞こえるように、帰ろうぜ、とニシャに言った。僕は振り向いてしまった。なんだか、心がざわっとした。「俺たちは特別なんだぜ」という宣言に聞こえたからだ。ニシャは何の含みもない声でこう応えた。

「いいよ、今日は、清乃ちゃんも一緒」

 え? とイットーが立ちすくむのも、掛川が少し驚くのも、ニシャは気にせずに言った。「そうだ、イットーの友達も、皆で帰ろうよ。もし良かったら、どこかで、お話でもしよう?」

 ここは小学校か、と絶対何人かは思っただろうな、と僕は溜息をついた。

 そんなわけで公園に僕たちはいた。四阿のベンチに、僕たちは座った。イットーは何だかんだでニシャの隣を抑えた。向かい合うように、掛川、僕、リュウと並んだ。

 お話、と言っても、一方的にニシャが質問をし、掛川が代表して慎重に言葉を選んで応えているのを、男三人が聞いている、と言った感じだった。僕はよくそんなどうでもいいことを続けざま質問できるもんだ、と思いながら、遊具で遊ぶ子供達を見ていた。イットーは何かいらいらとしていた。リュウは途中から、本を読み出した。そんなリュウにニシャが声を掛けた。

「それ、面白い?」
「……あ、俺?」
「うん」
「うーん」
「ん?」
「実はよくわかんない」
 ちょっと驚いた風に、ニシャは首を傾げた。
「何、読んでるの?」
「小説」
「誰?」
「今は、田山花袋」
「フトン?」
「そうだね」
「好き?」
「好きってほどじゃないけど」
「好きじゃないのに、読むの?」
「ああ、昔、小学校の頃の塾の先生が、若いうちに色々読めって。好き嫌いじゃなくて、手当たり次第に。若い頃の好き嫌いは、本当の好き嫌いじゃないってさ。いっぱい読んでいるうちに本当の好みが現れてくるんだって。だから、何でも読むんだ」
「変なの」

 ケラケラとニシャは笑った。リュウはまた本に視線を落とした。ニシャはきらきらと輝く目をリュウに向けて言った。

「でも、いいね、その先生」
「あ?」リュウはまた顔を上げた。
「リュウくんも、素直なひとだ」
 リュウが少し戸惑った表情をした。ニシャは言った。
「わたしもちょっとわかるような気がするよ。その先生の言うこと」

 リュウはすっと鼻から息を吐いて、そう? とだけ応えた。飴食べる? とニシャはあの包みをリュウに差し出した。リュウは、どうも、と言って受け取り、それを学生服のポケットにしまい込んだ。それを見ていたイットーが、割って入るかのように、声を上げた。

「俺も、読む」
「そうなの? 何読むの?」

 質問されて、イットーは口ごもった。そして、夏目漱石とか、といかにも自信なさげに言うのを、僕は心の中で、お前が読むのは勝目なんとかとか川上なんとかだろ、と以前貸して貰った官能小説のことを思い出して、突っ込んでいた。ついでに、これでお前もしこったらキョウダイだな、と無感動な表情で言われたのも、もちろん口にはしなかった。イットーは俯いてしまった。そんなイットーを憐れんだわけではないだろうけれど、すっとニシャは進度の違う授業の話に話題を変えた。

 そういう淡泊なところは、確かにその時のイットーのプライドを必要以上に傷つけなかっただろうし、美点とも言える。

 でも、それが、後々、きっともっと男達の大事なものを翻弄することになるとは、その時の僕にはわからないことだった。

 そんな僕たちを見ていた掛川が、どういう気持ちだったか知らないけれど、ごく自然にニシャに訊いた。

「でも、そんなにカワイイんだから、カレシとかいたでしょ?」
 ニシャは、く、と両眉を上げた。
「わたし、カワイイ?」
「とても」

 えへへ、女の子に言われるのは格別だなあ、とニシャは頭を掻いた。掛川は笑顔だったけれど、イットーが緊張したのがわかった。

「カワイイって言葉じゃ足りないくらい」
「えー、何かあげないと……」
「飴ならいいよ。いたんでしょ?」
「カレシ?」
「うん」

 ニシャはベンチの縁に両手をついて、視線を上に動かし、うーん、と軽く唸った。掛川は質問を止めなかった。

「きっと皆気になってる」
「清乃ちゃんが言うのって、一対一のってことだよね」
「そう。それ以外に何があるの?」
「うん、それなら、いないな」
「本当?」
「うん、わたし、そういうの、無理っぽい」
「そう」

 掛川は笑顔のまま口を閉じた。こうやって書いてしまえば、これだけのことだけれど、この会話の下にどれほどの意図が込められているか、やっぱり僕は気付いてなかった。ただ、試合の大事な局面にフェイントで置き去りにでもされたかのようなイットーの顔が、夕暮れの橙に染まって、否応無く目に入ってきた。もう、帰らなきゃ、掛川がそう言った。

 その夜も父は遅かった。連絡は無かった。随分待った。でも、結局僕は待ちきれず一人で夕飯を摂った。そんな時に限って、普段は色々面倒くさいからしない揚げ物を作ってしまっていたりするんだ。すっかり冷めて、揚げ物の良いところのなくなった父親の分のとんかつにラップを掛けながら、なんとなく溜息が出るのを止められなかった。

 部屋で勉強でもしようか、と思いつつ、ソファーに寝転んだまま、三十分が過ぎた。複雑な気分だった。掛川のこと、イットーのこと、ニシャのこと、どれもひとりでは処理できないのに、誰にも頼れないのがもどかしかった。妙に寂しかった。

<#6終、#7へ続く>

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