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僕のニシャ #35【連載小説】

 この物語はフィクションです。実在するあらゆる個人・団体・学校・組織および事件・事象などとは一切関係ありません。
 また、この作品は2015年にKDP・Amazonで電子出版された作品に読みやすくするため改行や若干の言葉の変更などを加え、分割して順次掲載する予定のものです。以前の電子書籍版とストーリーにおいて変更はありません。
 途中からお読みの方、#1(第一話)から最新話までをまとめたマガジンはこちら↓です。



 扉の外から、あれ? もう帰るの? と新條の声が聞こえた。うん、じゃあね、とそれに応えるニシャの声がした。そして、つまらなさそうに、新條が入って来た。開口一番、新條は言った。

「帰ろうかな」
「勉強しにきたんじゃないのかよ」
「……そうだった」

 新條は僕の後ろの席についた。僕は、ノートに目を落とした。

 それでも、ムシャクシャする気分は、中々治まらなかった。誰でもいいから、八つ当たりしたかった。自分の気持ちを受けとめてもらいたかった。もちろんそれが幼稚な甘えだとはわかっていたから、新條に掛けた言葉は屈折したものになった。

「最近毎日ここに来てるけど、カレシほっといて良いのかよ」

 新條の軽い鼻息が聞こえた。僕は振り向かなかった。

「別れた」
「あ?」
「勉強と俺とどっち大事? だって。んなの勉強に決まってんじゃん」
「あ、そう」
「他の男と話するなとか、さ。何か面倒くさくなった」
「ふうん」
「その点、あんたとニシカは自由だよね」
「自由って……付き合ってないからな」
「まあ、そうなんだろうけど」
「そうなんだよ」
「そういうの、少し憧れるよね」
「へえ」
「ニシカもスゴイけど、案外、あんたも大したものなのかとは思う」
「そうですか」
「そういう相手ならずっと付き合えるような気がする」
「口説いてんの?」
「馬鹿じゃないの」

 男ってのは、すぐ、自分をモテてるって勘違いするよね、と新條は僕の椅子を蹴った。しないよ、今のは冗談だよ、と僕は応えた。そう? と新條は言った。僕は、そうだよ、と応えた。

 僕だけなのか、他の男もそうなのかわからないけれど、たとえ相手が誰であれ、ニシャ以外の女のひととの会話は気持ちを楽にしてくれるのは間違いなかった。僕は新條に背を向けたまま苦笑した。

 その背中に、新條の指が触れ、ゆっくり柔らかく縦に動いた。僕は少し驚いて、振り向いた。

 新條が上目づかいで、真剣に僕を見ていた。僕は、それを見詰め返すくらいしかできなかった。

 え? と思った。まさか、と。

 その様子を見て、新條は、表情を白けたものに変えた。

「ほら」
「え?」
「今、モテたと思ったでしょ?」
「あ、いや、え?」
「男なんて口説く必要すらないんだからさ」
「あ、ああ」
「ほんと、馬鹿」
「昔から思ってたけど、怖いよ、お前」
「あら、そう? 本気になったらもっとすごいけど?」
「お前にだけは絶対引っ掛からない。今後」

 ふん、と新條は鼻で笑った。僕はまた前を向いた。後ろから、まあ、そのうち、と新條が言った。

「気が向いたら、きっちりオトシてあげる」

 僕は、御免こうむる、とだけ応えて、ノートに英文を書き写し始めた。新條が立ち上がって、ちょっとトイレ、と出て行った。勉強するんじゃねえのかよ、と僕は心の中で言った。

 少し深呼吸をした。

 鉛筆を握り直す。

 中指にできたタコはもう痛まないほど硬くなっている。

 ノートに目を落とす。

 それだけが僕の世界になる。文字が勝手に増殖していくような気がする。その行為の意味なんてどうでもよくなる。ただ書き連ねる。

 集中、集中、集中……。

 正直、いつまでも「トイレ」から戻らない新條のことなど忘れていた。

 ふと、目を上げた。教卓に左手を置いて、そのひとが僕を微笑ましげに見ていた。

 先生、と僕の口から声が出た。西浦先生はにっこりと笑った。

「気付かないくらい集中してたのね」
「ええ……まあ……すみません」
「こっちこそごめんね、勉強の邪魔して」
「いえ……」
「一生懸命な若者は美しいな、って思ってつい見ほれちゃった」
「あ……いえ……そんな」

 僕は、少しどきまぎとした。

 僕は、美しいと言われるような容貌はしていない。ニシャが傍にいると、自分までそのレベルにあるような錯覚をしがちだけれど、いつか目黒が言った言葉が全てだ。僕もそれは承知していた。

 そのつもりだった。

 でも、西浦先生の言葉に僕は浮ついた。それが表情に出たかどうかはわからない。先生はいつもと変わらない様子で、僕の机まで近寄ってきた。

「アンケート、どうしたの?」
「ええ、希望にしました」
「そうね。立役者がいないんじゃ話にならないものね」
「まあ……そうですかね」

 先生は僕の前の席に座って僕を見た。僕は、上手く、見詰め返すことができなかった。多分先生は微笑んだんだろう。そういう声だった。

「ところで、坂上くんは将来何になるの?」
「え……あの……」
「ん?」
「まだ、わからない、というか」
「うん」
「したいことがこれといってないというか。漠然と、公務員というか」

 ふふふ、と先生は笑った。僕もつられて笑みを浮かべた。先生は、すっと背筋を伸ばした。またつられて、僕も背筋を伸ばした。先生は言った。

「悩みなさい」
「はあ」
「いっぱい悩んでおくと、男の子にはきっと良いことがある」
「はあ」
「三十くらいになったら、きっといい男になれる」
「はあ」
「きっと君もそうなる」

 僕が驚き戸惑って視線をあげると、微笑みの中に、真剣な瞳があった。新條のように僕をからかうために、そんなことを言っているのではないと僕は感じた。先生は、そして、言った。

「謝らなきゃいけないの」
「何ですか?」
「ノート、見てあげられなくなる」
「え?」
「来年はわたしここにいない」
「はあ」
「折角の愛弟子の卒業くらいは見届けたかったけれど」

 先生が、僕の鉛筆を握った手を取った。

「よく頑張った」
「はい」
「偉い」
「はい」
「ひとりで、勉強できるよね」
「……はい」
「君がどんどんできるようになって、だんだんペンを入れるとこが少なくなるのが、嬉しかった」
「はい」
「楽しかった」
「はい」
「君は、丸暗記から、次のレベルに上がる時だ」
「はい」
「今度はね、自分で問題を作るつもりで、勉強してごらん」
「はい」
「どんなところを出したくなるか、考えて」
「はい」
「入試は落とすための試験」
「はい」
「受験生がわからないだろうってところを出す」
「はい」
「つまり、自分のわからないところが出る」
「はい」
「わからないところを集めて、試験問題を作るようなつもりで、書き写す。そして繰り返す」
「はい」
「頑張って」
「はい」

 先生は、僕の手を離して立ち上がり、でもまだ今年度いっぱいは見てあげるからね、と言った。僕は、ありがとうございます、お願いします、と応えた。

 なんだか心が頼りなく震えていた。色んな言葉が浮かんだ。

 でも、僕と先生の関係において、言える言葉は多くなかった。

 僕は俯いたまま黙り込んだ。先生は、ありがとね、と言った。いえ、僕こそ、と僕は呟いた。

「ううん。君には教師の醍醐味の片鱗を味わわせて貰ったもの」
「はあ」
「ありがとう」

 先生はそう言うと、僕に背中を見せた。僕は訊いた。

「先生は文学部ですよね」

 先生は、振り返った。僕は、もう一度、文学部ですよね、と訊いた。先生は少し僕を覗き込むように見た。

「作家にでもなる?」
「いえ、そうじゃなくて、教師ってどうなのかなって」
「文学部はつぶしがきかないよ」
「はあ」
「法学部になさい」
「はあ……でも」
「法学部なら、教師にもなれる」
「……はい」
「それに」
「それに?」

 先生は、また僕に近づいた。

「君は文学には向いてない」
「はあ」
「わたしもだけれど」
「そうですか?」
「わたしの大学の時の友達がね、作家志望だった」
「はい」
「彼女、とにかく、文章書かせたらすごかった。教養課程の語学の教科書なんかでもね、彼女が訳すとまるで気の利いた小説でも読んでる感じがした。わたしには訳すのが精一杯の古文だって、その手を経ると悲しみや喜びがまるで自分のことのように伝わって来た」
「はい」
「そのくらい文才があって、彼女は今、小さな会社で事務仕事をしてる。愚痴を言いながらね」
「はい」
「つまり……」

 先生が、言葉を止めて頷いた。僕もそれで察した。僕の訳文には、悲しみも喜びもない。そういうことだ。

「はい、わかりました」

 僕がそう応えると、先生はもう一度、法学部になさい、と言って出て行った。

 そして、新條が戻って来た。随分長かったな、と僕は言った。新條は皮肉っぽく唇を曲げて、戻って来たら今にも濡れ場が始まりそうなんだもん、入れなかった、とまた僕の椅子を蹴った。

「法学部になさい、か」
「あ?」
「あれ、自分がそうしとけば良かったって話だよね、結局」
「うるさいよ、お前」
「多分、あんたが自分に惚れてるってことまで、読んで言ってる」
「うるさいってば」
「やっぱりえこひいきだよね、教師はこれだから――」
「うるさいなっ」

 思っていたより、大きな声が出た。くっと、新條は首を縮め、すぐに僕を睨み付けた。今度ニシカに報告しちゃおー、と新條は言った。どうぞご勝手に、と僕は応えた。

 僕はまたノートに教科書を写し始めた。でも、さっきまであった集中が中々戻って来なかった。

 僕は心の端で、またか、と思った。

 何も起こらなかった。僕が妄想したような甘い物語はなかった。

 きっと僕が歩いているのは、砂漠なのだ、そう思った。


<#35終、#36へ続く>

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