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僕のニシャ #46【連載小説】

 この物語はフィクションです。実在するあらゆる個人・団体・学校・組織および事件・事象などとは一切関係ありません。
 また、この作品は2015年にKDP・Amazonで電子出版された作品に読みやすくするため改行や若干の言葉の変更などを加え、分割して順次掲載する予定のものです。以前の電子書籍版とストーリーにおいて変更はありません。
 途中からお読みの方、#1(第一話)から最新話までをまとめたマガジンはこちら↓です。



 僕は東京にいた。

 受験は一つだけ終わっていた。それに関しては、できなかった、という落胆も無い代わりに、手応えも無かった。まあ、そんなもんか、と思った。

 僕はひと月滞在することになっていた。八つの志望校の受験日は二月初旬から三月初旬までバラバラだったから、いちいち帰るより、ウィークリーマンションに滞在する方が、安上がりだと判断した。

 結果卒業式には出られないことが確定したが、何も惜しいとは思わなかった。もう、あの居心地の悪い学校に未練はなかった。むしろ心が軽くなった。

 それでも、相変わらず僕は、知らない土地を冒険してみるということがなかった。ただコンビニと部屋を往復し、受験がある時だけ、路線図を見て、用がすむと地名も忘れた。

 特急が別料金だと思って、各駅停車に乗った。信じられないほど細い道を大型バスが走るのに驚いた。建物が夏期講習の街よりあほみたいに高かった。人が多い。歩くのが速い。雪が無いのに、案外寒い。およそ田舎者が感じる感想をステレオタイプに持って、僕はただ勉強していた。

 その日、僕はモノレールに乗って空港についた。ニシャを迎えるためだった。凄いな、と思ったのは、あれだけひとの多い中でも、やっぱりニシャは簡単に見つけられたことだった。ニシャの真新しいスーツケースを僕は持った。ありがと、とニシャは言った。

 ニシャも同じウィークリーマンションの別の部屋に滞在することになっていた。案内は先に来た僕に課せられた役目だった。モノレールの中でニシャが言った。

「先生が、坂上もしっかりやれ、だって」
「あ、そう」

 僕は俯いた。ニシャもそれきり黙り込んだ。

 僕はあの火のことを思い出した。




 火は二階から出火した。いったんは皆逃げ出すことができた。でも、ひとり足りなかった。二階にいるはずの受験生が、いなかった。彼は、愚かだけれど、勇敢に、また家に戻った。煙で満ち、どんどん勢いの増す火の中に。

 そして、煙に巻かれた。

 家は全焼した。僕たちが浮ついたキスをしているとき、彼は命をかけて、大事な者を救うために、凶暴な火の中に飛び込んだのだ。

 無駄死にだ。焼け死んだ。誰もいない部屋に、そうとは知らず必死で向かっただろう彼の顔を、僕は想像できなかった。大体、真剣なところの見えないひとだった。笑っているひとだった。屈託無く、笑う人だった。

 葬儀の後、ニシャは、あんなに格好いいひとだったのに、焼けちゃってひどい顔してた、と言った。見たのか、と思った。あまり気持ちの良いものじゃないと聞く。ニシャはそんな時でも強かった。

 決して泣いたりはしないニシャの、その強さは、近所の人々の邪推を呼んだ。

 よく平気ね、近頃の若い子はね、そう言えばあの子、随分と発展家らしいですよ、やっぱり本当の母親じゃないとね、きっと煙草でも吸ってたんじゃない? きっとそうよ、奥さん、それに火が出たときも――。

 壁に耳ありって言葉の意味を皆心に刻んだ方が良い。公民館で無宗教の形式によって行われた葬儀の手伝いをしている時そんな陰口を聞いた。

 僕はニシャが煙草なんて吸わないことを知っていた。キスはそんな味はしなかった。

 不幸中の幸いというか、火事は近所に延焼しなかった。そう言えば、風は無かった。父の家も、無事だった。

 驚いたのは、父が、遺された家族に対して、親身に振る舞ったことだ。あの、顔を合わせても、無視していた父が、だ。確かに、火事と葬儀のときは云々と言うけれど、それにしても、息子の目から見ても、恐ろしいほどの変わり身だった。

 あらゆる手続きの手助けをし、優しい慰めの言葉をかけ、次の住居を見つけるまで、二階の寝室を使って下さいとまで、提案した。無理強いに見えるくらいだった。庸子さんも、多分弱っていたんだろう、気圧されたかのように、それを受け入れた。

 僕たちは、同居することになった。何日かして、引越先も決まった。明日、神津家が出て行くという晩、食卓で、何かあったら、これからも頼って下さいね、と父は言った。庸子さんは、ありがとうございます、と涙を流した。

 庸子さんたちが寝室に戻り、ニシャが僕の部屋で勉強している時、僕は食事の後片付けをしていた。父が、リビングで、テレビを見ていた。僕が何気なくそちらを見ると、父が、肩をふるわせているように見えた。泣いているのか? と思った。僕はそっと近づいた。やっぱり父も悲しいのか、と僕は父の背中に手を伸ばそうとした。声が聞こえた。嗚咽じゃなかった。抑えようとしても堪えきれない、笑い声だった。

 く、くく、く、くくく、死んだ、やっと、死んだ、ざまあみろ、叶わなかった、死んだ、死んだ、焼け死んだ――。

 僕は、ぞっとした。伸ばそうとした手が反射的に引いた。もちろん父が火をつけたと言う事実は無いし、そうも思わなかったけれど、僕は父の、どす黒い嫉妬の火が、あの時の火とオーバーラップしたような気がして、罪悪感に似た、何かどうしようもない恐怖に鳥肌が立つのを止められなかった。

 僕がこそこそと逃げるように部屋に戻ると、ニシャは運び込んだ座卓で勉強していた。僕は机についた。ニシャがぽつり、と言った。

「わたし、どうしたらいいかな」
「ん?」
「受験して、いいのかな」
「金の問題?」
「それもあるけど、一応わたしが受取人の保険があったんだって」
「へえ」
「蓄えもあるし、だから、学費とかは、まあ、なんとかなるって言われた」
「うん」
「庸子さんたちと一緒にいていいのかな?」
「そりゃあ……わからないけど」
「花菜ちゃんには嫌われてるし」
「わかってたのか?」
「うん、だから、お母さんと二人がいいんじゃないかって」
「でも、あれだ、東京で受験して一人暮らしになれば、自然とそうなる」
「そうか」
「そうだ」

 ニシャがノートに何かを書き込みながら、少しため息をついた。

「また、居場所が無くなった。今度は帰る場所が」

 僕は、振り向いた。掛けてやる言葉が思いつかなかった。

「ヒトシの指輪も、燃えちゃった」

 何か事件があると、何故か大きな決断をしたくなる。大きな決断と行動をして、ヒーローになりたがる。僕は戦えない男ではあったけれど、章雄さんの言葉を、それなりに深刻に思い出していた。ニシャを頼む、彼はそう言った。頼まれてしまおう、僕はそう思った。



 次の日の朝、決して明るくない食卓の雰囲気の中、僕は言った。

「お願いがあるんですが」

 庸子さんが顔を上げた。父も、ニシャも、花菜も僕を見た。

「何かしら?」と庸子さんは言った。

 これは、父さんにもお願いなんですが、と僕は父を見た。

「僕、ニシカさんと結婚したいんです」

 え? と庸子さんが箸を止めた。父が普段通りの厳しい顔をして僕を見ていた。ニシャがぽかんと口を開いた。花菜は、興味なさそうに、食事を続けていた。僕は続けた。

「こんな時に相応しくないかもしれませんが、でも、こんなときだからこそ、お願いします。庸子さん、僕にニシカさんをください」
「え、でも、え?」

 庸子さんが、箸を置いて、僕とニシャと父に視線を動かした。父が大きく鼻で息を吸った。

 多分、快くは思っていない。きっと認めたくないだろう。でも、ここまでいい人を演じている父が、ここだけ、反対するわけにもいかないはずだ、という僕なりの勝算があった。そのために、先に庸子さんにイエスと言わせなければならなかった。

「庸子さん、僕とニシカさんは、少し早すぎるかもしれないですけど、そういう関係なんです」

 あ、ああ、そうだったの、と庸子さんはニシャを見た。ニシャは、本当にびっくりしたように僕だけを見ていた。

「ですが、僕、責任を逃れるつもりもありません」
「は、はい」
「今すぐじゃなくていいです」
「はい」
「章雄さんの喪が明けるのを待つくらい平気です。もちろん大学に合格して、卒業して、社会人になるまで、待ったって構いません」
「はい」
「でも、僕、章雄さんに頼まれたんです。ニシャを頼むって。いつか、お嬢さんを下さいって言いに来いって」
「そうなの……」
「ええ、僕は、ニシカさんが好きです」
「はい」
「このひとしかいません」
「はい」
「もう、ひとときも離れたくない」
「はい」
「章雄さんに代わって、僕がニシカさんを支えたい」
「はい」
「許してくれますか?」
「ニシカちゃんが、それで、いいなら……」

 本当に、弱っているひとに付け込むことしかできない自分が嫌になりそうだったけれど、僕は必死で顔を上げ続けていた。ニシャが、やっと、言葉をひねり出した。

「ちょっと待って」
「何?」
「わたしのことは知ってるでしょ?」
「知ってるよ」
「なら――」
「僕は、章雄さんに頼まれた。これは章雄さんの遺志だよ。君を命がけで救おうとした、お父さんの希望だ」
「でも――」
「居場所が無いって言ったね」
「え?」
「帰る場所が無くなったって言った」
「……うん」
「あるだろ?」
「え?」
「僕のいる場所が、そうだよ」

 これを、親の前で言った、というのは、後になって何度思い出しても赤面する。ありふれた、クサイ表現。

 でも、スイッチの入った若い男なんて、ついついそういうことを言ってしまうのだ。ましてや、文才も表現力もない僕の事だ。口説き文句が、どこかの誰かの焼き直しになってしまうのだってしょうがない。

 しょうがない、しょうがない。

 ニシャが、だけど、とまだ何か言いたそうにした。僕には、勢いに任せて押し切るしか勝機がなかった。父を見詰めた。厳めしい表情の目にほんの少しの動揺があるのを、僕は感じ取った。行くところまで行ってしまえ、と思った。

「父さん、僕は、ニシカと結婚するよ」
「あ、ああ」
「僕はそのために勉強するよ。合格もしてみせる。必ず」
「ああ」
「良いよね?」
「……ああ」

 僕たち親子のやりとりを見ていた庸子さんが、再びニシャに訊いた。
「どう? ニシカちゃん」

 ニシャは、大きく息を吸い、そして、少し呆れたように眉を上げて笑った。

「うん」

 勝てる! と思った。僕は屈強なディフェンダーを華麗なフェイントで躱した。僕の心の中の観衆が、総立ちで声援を上げている気がした。そして、父を見た。父は、喉を動かし、そして、言った。

「わかった」

 よし! ゴールキーパーが、前に出てきた。行けると僕は確信した。そして、僕は、ふわりとループシュートを撃つように、本当の意図をさらっと言った。

「それで、できれば、ニシカさんをここで暮らせるようにしたいんです。もちろん、淫らなことをしたいんじゃないんです。ただ、そばにいられればいい。むしろそういうことがしたかったら、別に離れてたってします。だから、そういうことじゃないんです。つまり、なんというかご家庭の事情があるでしょう? ニシカさんは、庸子さんとは、その……」

 庸子さんが、花菜をちらりと見た。そしてニシャを見詰め、父に目を遣った。

「坂上さんが、ご迷惑でなければ……」

 父が、頷くしかない状況を僕は作ったつもりだった。多分、ボールがネットを揺らすのを、サッカー選手はあんな風に、見るに違いない。父は、ゆっくりと、とても、ゆっくりと、頷いた。

「わかりました。お預かりします」

 心の中の大観衆が、湧いた。きっと実況が僕の名を連呼し、繰り返し角度を変えてスローで再生されるべきシーンだった。

 完全勝利!

 火事の後だけに、ガッツポーズこそしなかったが、何で日常生活にはヒーローインタビューが無いんだろう、僕は、そう思った。



 庸子さんと花菜を父は転居先へと車で送っていった。あれこれと買い物も手伝うらしかった。僕はニシャと部屋で二人きりになった。ニシャが、また眉を上げた。

「嘘つき」
「あ?」
「してないのに」
「方便だろ?」
「結婚なんてしないよ」
「だろうね」
「指輪も無いし」
「お前、もともとそういうので縛れる女じゃないだろ」
「そうだね」
「でも、いろよ。近くに。少なくとも大学行くまで」
「うん」
「後は何してもいいよ」
「うん」
「諦めた。本当に」
「うん」

 僕たちは向き合った。ニシャの顔が、どこか儚げに微笑んでいた。で、訊くのだ。

「する?」
「しないって。少なくとも本当に結婚するまで」
「そうか。ヒトシとするには、結婚するしかないのか」
「そうだ。だから、初夜は、優しく、頼む」

 ぷっと、ニシャが噴き出した。笑うなよ、と僕は言った。もし、そんな時が来たら、とニシャは言った。

「もし、そんな日が、万が一来たら、わたしは経験の全てを使って、ヒトシを優しく抱いてあげる」
「ああ、万が一な」
「そう、万が一」

 勉強するか、と僕は言った。ニシャも、頷いた。僕たちはそれぞれに参考書を開いた。机の引き出しを開けて、ふと、僕は思いだした。そして、ニシャに言った。

「お前、指輪、欲しい?」
「え?」
「いや、だから、貝殻の、アレの、代わりというか」
「あれは、あれだもの。寂しいけど仕方無い」

 僕は引き出しの奥から取り出したものを、ニシャの顔の前に、突き出した。

「これで買ってこい」
「何? これ? 古いお札?」

 僕は、首を傾けて、ニシャがするみたいに眉を上げた。しばらく躊躇って、その一万円札を手にすると、ニシャはハッと気づき、まるで外国の映画の俳優がするみたいに、首を振って、くしゃりと笑った。

「ま、もともとお前のだからさ」

 使えないよ、これは、とニシャが嬉しそうにぎゅっと両手で札を握った。こう書くと、何だか守銭奴みたいに見えてしまうが、でも、その札は、札であって、札じゃない。僕たちの歴史だ。想いの込められた、記憶だった。

 ニシャは、預かっとく、と言った。お好きに、と僕は応えた。僕は、多分、ベストを尽くせたのだ、と深く満足を感じながら、机に向かった。


 それで、終わることができたなら、一応ハッピーエンドなのかもしれない。映画なら、ここでエンドロールを流しても悪くはない。でも、僕たちは――少なくとも僕は――終わらない日常に生きているのだし、受験は逃れようもなく真っ最中だった。

 ウィークリーマンションの受付で手続きを終えたニシャを部屋まで連れて行き、僕はひとりで部屋に戻った。ニシャには次の日受験が控えていた。話し込むのも悪いと思ったのだ。僕にもすぐに試験がある。

 僕は、勉強した。もちろん合間に色々もした。いや、本当に、ここで、終わりたかった。

 そうなれば、良かったのだ。


<#46終、#47へ続く>

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