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僕のニシャ #15【連載小説】

 この物語はフィクションです。実在するあらゆる個人・団体・学校・組織および事件・事象などとは一切関係ありません。
 また、この作品は2015年にKDP・Amazonで電子出版された作品に読みやすくするため改行や若干の言葉の変更などを加え、分割して順次掲載する予定のものです。以前の電子書籍版とストーリーにおいて変更はありません。
 途中からお読みの方、#1(第一話)はこちら↓です。


 

 次の日、塾の講義の前、僕が模型店に入ると連中の一人が、何枚も硬貨をその上に積み上げて、ゲームをやっていた。僕は何気なく訊こうと思っていた。意識させないように、警戒させないように。

 おう、と声を掛けた。一瞬だけこちらに視線をやって、おう、と応えると彼はすぐにモニターに目を落とした。

「昨日、あれから、どうした?」と僕は訊いた。
「あ?」と彼は応えた。
「二万円」
「分けたよ」
「そう」
「今更、遅い」
「うん、惜しかった」
「うん」

 激しくレバーを動かしボタンを連打する彼から、僕はわざと顔を逸らし、棚に並んだ模型の箱を眺めながら言った。

「っていうかさ」
「だから、何?」
「あの財布」
「あ?」
「あの財布、いいな、と思ってさ」
「は?」
「どうした?」
「……捨てた」
「どこに?」
「近所の……スーパーの……ごみ箱」
「どこ?」

 電子音がして、彼の操縦するタンクは爆発した。あー、話しかけんなよ、と彼は僕を睨み付けた。ごめん、と僕は謝った。ま、いいよ、金はあるし、と彼は続けざま硬貨を投入しようとした。僕は、だから、とそれを止めた。彼は訝しげに僕を見た。

「だから、何?」
「あの財布が欲しい」
「だから、捨てたよ」
「どこに?」

 彼はだるそうに、そんなに気に入ったのかよ、と呟いて、彼の家の傍の大型スーパーの場所を教えてくれた。

 塾をさぼるには抵抗があった。バスで行かなければならないのも、面倒くさかった。

 でも、もう、知ってしまった。

 彼女のため、とか、良心とか、勇気とか、そういうものではなかった。知っていることをやり過ごす度胸がなかった。僕は、少しため息をついて、立ち上がった。

 僕が塾の教室に入ったのは、もう終わりの五分前のことだった。前日の講師は、新條のことを相当きつく叱ったけれど、その日の講師はただ目を丸くして、お前、すごいヤツだな、こんな時間に何しに来たの? と嫌味を言っただけだった。僕は、ひたすら謝りながら、席に着いた。新條が、見ていた。僕は、頷いてみせた。彼女は眉を少しだけひそめた。

 授業が終わって、帰ろうとする新條にできるだけ目立たないように声をかけた。新條は何かを察したのか、塾から一歩でも離れようと急ぐ僕についてきた。

 生徒達が見えなくなったところで、僕は言った。

「見つけた」
「もしかして、財布?」
「ああ、その、中身はやっぱり無くて、それに、今は持ってないんだけど」
「ん?」
「いや、だから、見つけたんだけど、本人じゃないって言ったら、渡せないっていわれて……」
「どういうこと?」
「うん、だから、落とし物係の人が……」

 僕は、成り行きを説明した。スーパーのゴミ箱にあったものを清掃担当が見つけたこと、本当は持ってこようとしたけれど、うっかり自分のじゃないと言ってしまったために、持って来ることができなかったこと、だから、君が取りに行ってくれないか、というようなことを。僕はそのスーパーの場所を教えた。

 彼女は、ありがとう、と言った。僕はそれが嬉しくて笑った。でも、彼女は言った。

「でも、あたし、そこには行ってない」
「そう?」

 何だか睨むような光が、彼女の瞳から、僕に突き刺されていた。僕は少し口ごもった。

「うん……なんでだろうね?」
「何か、知ってる?」
「いや、別に」
「そう?」

 僕は目を逸らした。何か誤魔化さないと、と強く思った。そして、訊いた。

「大事なものだったんだろ?」
「うん」
「記念品?」
「まあ、そんなところ」
「もしかして……いや、昨日話したとき思ったんだけど、新條も父子家庭?」
「うん。坂上も?」
「うん」
「そう」

 新條は少し、視線を外し、ふ、と息を吐くと、とても優しく微笑んだ。そして、その小さな手を伸ばすと、僕の手をぎゅっと握った。乱れた性生活を送る幼なじみの話を聞いているからと言って、僕自身の経験値が増えるわけじゃない。僕はその冷たさと感触に、どきん、とした。

「ありがとうね。取りに行くよ」
「うん」

 新條は、なかなか手を離さなかった。僕も振り払おうとはしなかった。
その年頃の少年にはおなじみの、レンアイ警報が、頭の中でがんがんと鳴り響き始めるのをどうして止めることができただろう。僕は、もう、全神経を集中して、その手の感触を味わった。

新條は、更に手に力を込めて訊いた。

「坂上ってさ」
「うん?」
「カノジョとかいる? 好きなひととか」

 これって、そういうことだよな、と僕は思った。

 言うまでもなく、あの奔放な少女や最近は席もかわってあまり話をしなくなったクラスメートのことは、頭から飛んでいた。

 僕はできるだけ自然に見える様に、首を横に振った。首の骨がカクカクと鳴ったような気がした。それを柔らかく眺めると、ぱっと手を離して、新條は一歩後ろに下がった。そして、にっこり微笑んだ。

「良かった」

 駆けだして行くその背中を見て、僕は、自分が本当に良いことをしたと思った。

 その「良かった」という言葉は、家に帰って勉強しようとしても、ずっと眠りに就くまで、耳の奥でリフレインした。

 都合の良い解釈しか、どうしてもできなかった。

 それが間違っていないと確信し始めたのは、それからしばらくの間、新條は教室でも僕の傍に寄ってきては、あれこれと話しかけて来たからだった。

 本当に馬鹿だ。

 僕は、しっかり、恋に落ちていた。受験前だというのに。

 そういう理由で、僕は学校でも割と上機嫌だった。いや、割と、は間違いだ。とても、上機嫌だった。気付かない内に鼻歌でも歌っていたかもしれない。きっと歌っていたのだ。トイレから戻った教室の入り口で掛川とすれ違った時、彼女は呆れた様な目つきで、僕に声をかけた。

「気分良さそうだね」
「あ、ああ……」
「成績上がったんでしょ?」
「まあ……ね」
「塾、行って良かったでしょ?」
「うん」
「いろいろと」
「……うん」

 掛川は何か含みのある言葉を残したまま、廊下へ出て行った。でも、バラ色フィルターの掛かった僕の視界では、彼女の言葉が何を含んでいたのかを、見極めることができなかった。

 クラスメートの知らない場所で、クラスメートの知らない女の子と、クラスメートの知らない恋をしている、という優越感。

 きっと僕はそういう優越感に飢えていた。多分長村圭やイットーやリュウに対する悔しさが、それを求めさせたんだろう。

 でも、その時の僕は、そういったことを言語化できなかったし、優越感を抱いていることすら、気付いていなかった。

 僕が掛川を見送った後、ニシャもすれ違っていった。

「いいの?」

 そう言われた気がした。本当にそう言われたとしても何も思わなかった。思う暇も無く、角倉先生に声を掛けられたせいもあったけれど。先生は言った。

「あのさ、公立の方、ほんとに東で良い?」
「え?」
「いや、今、出願変更できるから」

 出願状況の発表があったばかりだった。ぎりぎりの内申の僕にとって、東は、無謀とは言わないまでも、かなりチャレンジングな倍率になっていた。でも、聖モアが本命の僕は、意味不明なストイックさで、退路を断つつもりでいた。

 聖モア、受かるだろう、という理由の無い楽観もあった。

 公立は正直どうでもよかった。東は記念受験みたいなものにしか思ってなかった。

 僕は、先生に、(おそらく)キラキラとした目を向け、変えません、と応えた。先生は、ちょっと頭を後ろに引いた。

「まあ、それで良いんなら、俺は良いんだけど……もう一週間もしないうちに試験だけど、聖モア、行けそうか?」
「頑張ってます」キラキラと応えた。
「塾行ってんだっけ?」
「はい」キラキラと返事した。
「まあ、聖モアなら、浪人していくやつもいるからな」

 先生は何だか不吉なことを言い残して、去って行った。でも、それは僕の浮かれた心までは届かなかった。

 僕が席に着くと、イットーが近づいて来た。何? と訊くと、ちょっと今日、一緒に帰らないか? とイットーは言った。



 公園の東屋で、ベンチの雪を払い、僕らは向かい合って座った。

 そう言えば、こうして校外で会うのは久しぶりのような気がした。

 随分、ぎこちなさは消えたけれど、それでも、僕たちは以前とは違っていた。教室では当たり障りのないことを続けるしりとりみたいな会話しかなかった。

 多分、ニシャのことだな、と思った。その時の僕にとっては、「割と」どうでもいいことだった。だからこそ聞こうと思った。そういう余裕があった。

 で、何? と僕は言った。イットーは僕に視線を合わせると、潜水でもするのかというくらい、息を吸った。そして、言った。

「あのさ」
「うん」
「お前、ニシカとやった?」

 質問の意図がわからなかった。でも、嘘をつく必要もなかった。僕は素直に応えた。

「やってないよ」
「本当に?」
「うん」
「何も?」
「うん」

 ああ、キスはしたな、と思ったけれど、それも別にたいしたことのように思わなくなっていた。

 些細なことだった。

 彼らのしていることに比べれば。

 ちょっとの間、イットーは僕の顔を見ていたけれど、なら、いいや、と立ち上がった。それだけ? と僕は訊いた。それだけ、と応えたイットーの顔がそれだけではないと言っていた。僕は、ちょっと好奇心が湧いた。どうしたんだよ、と僕は問いかけた。話をしたくないわけではなかったらしい、イットーは、立ち上がった腰をまたベンチに下ろした。

「どうしたんだよ」もう一度僕は訊いた。
「全部、知ってんだよな?」
「ああ、まあ……だいたいは」
「そうか、幼なじみだもんな」
「いや、まあ……うん」
「いや、あのさ……っていうか、お前本当にやってないんだな?」
「うん」
「じゃあ……長村か」
「何?」
「最近、その……会う日が減った」
「やらせてもらう日?」
「ああ」
「へえ」
「最初はさ、リュウかもしれないと思ったんだけど、アイツも独り占めなんかしないって言うし」
「うん」
「そうか。長村か」
「長村ねえ……」
「あいつ、でかそうだもんな」
「まあ、ね」
「やっぱり大きい方が良いのかな」
「知らないよ、そんなこと」
「そうだよな、お前はな」

 イットーは別に見下すような表情をしていたわけではない。むしろ憂いに沈んだ様子だった。でも、僕はカチンとした。そのいつのまにか大人びてしまった顔に、この非童貞め、と悔し紛れで僕は呟いた。

 イットーにそれが聞こえたのかどうかわからないけれど、彼は僕を真剣な目つきで見据えて、言った。

「俺さ、しない方が良かったって、最近思うようになった」
「あ?」
「いや、したくないわけじゃないんだ。やめられそうにもない」
「そうですか」
「でも、最近、妙に悔しくて、切なくて、そんなことしかできない自分が虚しくて」
「なんか、くさいな」
「そうか?」
「そうだ」
「でも、絶対に、ニシカは俺のモノにはならない、それだけははっきりわかる」
「まあ……そうかも」
「やってるときでも、長村やリュウの顔がちらつく」
「へえ」
「殺してやりたいって思う」
「おい……」
「まあ、しないけど」
「だよな」
「だよ」

 僕たちは顔を背けた。雪の広がる公園に、子供達が遊んでいた。僕もかつてニシャとそうしたような気がしたけれど、あまり思い出せなかった。

 もう一度、イットーは、しなきゃよかったなあ、と呟くように言った。

 僕は立ち上がり、帰るよ、と告げた。イットーも立ち上がった。

 帰り道、途中まで一緒だったイットーに、ところでお前ら長村から隠れて一体いつどこでやってるわけ? と訊いた。イットーはまるで自虐するみたいに笑って、お前もニシカとやってみればわかるよ、と応えた。実に中学生らしからぬ会話はそれで終わった。


<#15終、#16へ続く>

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