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僕のニシャ #36【連載小説】

 この物語はフィクションです。実在するあらゆる個人・団体・学校・組織および事件・事象などとは一切関係ありません。
 また、この作品は2015年にKDP・Amazonで電子出版された作品に読みやすくするため改行や若干の言葉の変更などを加え、分割して順次掲載する予定のものです。以前の電子書籍版とストーリーにおいて変更はありません。
 途中からお読みの方、#1(第一話)から最新話までをまとめたマガジンはこちら↓です。



 まあ、あとは、ただ勉強だけをして二年生も終わることになる。

 私立文系クラスは、希望する人数が一クラス分あり、ちゃんと作られることに決まった。

 父とは、話し合いをした。と言っても、一方的に僕が言い訳をしているだけだったけれど。

 数学が苦手で成績が上がらなさそうだからだとは言えなかった。敵前逃亡するような疚しさを感じた。だから、一流大学として有名だったW大に憧れて、どうしてもそこに行きたいのだ、と嘘をついた。しばらく父は態度を保留した。

 僕は西浦先生に相談した。先生は、担任でもないのに、父に電話をしてくれた。三教科に関して素晴らしい成績で、それが学校の方針を変えさせたこと、その才能をより伸ばしていった方が効率的・合理的であること、一流私大なら就職もかえって有利な場合もあることなどを父に告げてくれたのだと言う。

 裕福とは言えないまでも、僕一人私立に入れるくらいの稼ぎと蓄えは父にはあった。厳しい顔をしながら(たいていいつもそんな風に見えてはいたけれど)、父も最後は、仕方無い、と承諾した。

 でも、浪人はさせない、そんな条件がついた。僕はそれを呑むよりしかたなかった。いよいよ僕は勉強しかすることがなくなった。

 ここまでもそうだったけれど、だから、僕は同世代のひとが懐かしむような、ゲームも、音楽も、小説も、漫画も、ファッションも、リアルタイムには体験していない。そんなものに興味を持つことが許される雰囲気は無かった。

 テレビだって、バラエティを見ていれば、報道番組に変えられてしまった。それで、政治や経済に詳しくなれば、また別の道もあったのかもしれない。でも僕にわかるのは、それらに対して、全く好奇心が湧かない、ということだけだった。

 できることは、勉強と、父に隠れてこそこそとする、やりきれない恋愛だけだった。



 三年の夏休み、僕はまた予備校の夏期講習のために、その街にいた。その年は、ホテルを予約できず、ウィークリーマンションに滞在することになった。

 どこに滞在しようが、やることは変わらない。僕はどうせ予備校と部屋をただ往復するだけだ。

 だから、五度目だというのに、僕はその街のことをまるで知らなかった。僕の最大の冒険は、二年前、まことと山頂から夜景を見たことだった。そして、それ以上のことは望みもしなかったし、起きなかった。

 ただ、その年は、知った顔が多く教室で見受けられた。カップ麺の佐藤和孝がそうだし、あれ以来目も合わせない安達まこともそうで、私立文系クラスを選んだ新條が同じ教室にいたし、何故か、ニシャもいた。

「なんでいるんだよ」と僕は訊いた。
「だって、三年だし、ヒトシと同じ大学行くから?」とニシャは応えた。
「じゃあ、あたしもそうしようっと」と新條がニシャを見た。

 二人は、ねー? と首を傾げて見つめ合い、軽く握り合うように掌を合わせた。いつのまにか同じクラスで親友レベルまで親しくなった二人を、苦々しく見やることしかできなかった。

 僕は平穏に勉強がしたかった。でも、ニシャがいた。不吉な予感がした。いれば何かが起きるやつだ。僕はかなり警戒して、僕の部屋に来たがるニシャや新條をひたすら拒絶した。なんかエロいもんでもあるんだよ、と新條は言った。えー、そうなの? とニシャが僕を見た。心当たりはあるが、それが最大の原因じゃない。

 僕はペースを乱されるのが嫌だった。ペースを乱されるほど、ニシャが好きなことが嫌だった。好きで好きで勉強なんてどうなってもよくなりそうになるのが怖かった。

 男の子だもんねー、とニシャは笑った。僕はただ目を逸らした。そして、驚くことにそんな警戒は、ほとんど杞憂だった。

 ただし、途中までは、ということだけれど。



 予備校には、毛野慎太もいた。彼はやはり独特のオーラを放っていた。でも、それは一年の時の単なる弱々しさじゃなかった。

 割と無表情だった過去に比べて、彼はどことなく自信ありげな微笑みを浮かべているようになった。それが、異質だった。

 東髙の私立文系クラスは、教師たちの思惑とは別に、成績の振るわない生徒の受け皿になった。僕は自分の成績を鼻にかけるわけではないが、毛野はどちらかというと、振るわないほうの生徒だった。相変わらず馬鹿にされていた。でも、彼はそういう相手を見下すように鼻で笑った。そんな不自然な彼の「余裕」が、余計彼をクラスで孤立させた。嫌われていた。
 
 予備校でも、彼は一人だった。僕も、マラソン大会の時の事もあり、なんとなく気まずくて、更に話す事もなくて、彼に声を掛けることもなかった。

 講習も中盤を越えようとしていたその日、僕と佐藤と新條とニシャは、学生食堂で一緒に昼食を摂った。僕が望んだわけではない。僕がいないと、ニシャと面と向かって話のできない佐藤のリクエストだった。彼らがとりとめのない話をするのを、僕は黙って中華丼を食べながら、聞いていた。

「いやあ、電話で話したときも思ったけど、こうして直接話すと、戸廻って、案外、気さくだったんだなあ」と佐藤が言った。
「そうなの、良い子だよ、女神さまだよ、ニシカは」と新條が応えた。

 何でお前が自慢げなんだよ、と僕は心の中で思った。

「人間だよー」とニシャが楽しそうに笑った。

 獣だろ、お前は、と僕は胸の内で言った。

「あ、じゃあさ、これから皆で、観光しない?」と佐藤が提案した。

 お前はまたそれか、と僕は頭の奧で呟いた。

「いいねー」とニシャが応えた。

 行くのかよ、と僕は声にならない声を口の中で噛み潰した。

「ヒトシも行くでしょ?」とニシャが訊いた。
「行かない。授業がある」と僕は応えた。
「わたしもあるよ」
「あ、そう」
「行こうよ」
「行かない。僕は勉強する。お前らだけで行け」

 三人が視線を交わして、じゃあ、ニシカ、あたしたちだけで行こう、坂上は孤独に勉強しとけ、と新條が立ち上がった。それにつられて、おう、と声を上げた佐藤とニシャも立ち上がった。

 意気揚々と去って行こうとする佐藤を僕は呼び止めた。

「何?」
「変な気起こすなよ」
「あ?」
「もし、なんかあったら、お前と電話するとカップ麺使われるって、全校生徒に触れ回るからな」
「お前、それは――」
「わかったか」

 渋い顔で佐藤は固く頷き、なら、一緒に来りゃあいいのに、とぼやいて、新條とニシャの元へ行こうとした。僕はその背中越しにニシャに手招きした。ニシャは、わたし? と人差し指で自分を指してから、僕に近寄って来た。

「何?」とニシャが訊いた。
「セックスは挨拶でも、スポーツでもないからな」と僕は小声で言った。
「ん?」
「そんなもん使わなくても、仲良くなれるんだからな」
「うん」
「するなよ」
「何で?」
「僕は勉強がしたい」
「しなよ」
「お前が、そういうことすると、集中できなくなる」
「何で?」
「何でって」
「したくなる?」
「そういうことじゃなくて、心の微妙な――」
「ああ、そうか。わたしのこと好きなんだもんね」
「よく自分で言えるな」
「やっぱりしたい?」
「しない」
「だよね」
「うん」
「でもお互い今一人暮らしだし。あ、今夜ヒトシのとこ行こうかな。ウィークリーマンションの……二〇四だっけ?」
「来るな、絶対。来てもしないからな。しないって言ったからな」
「言ったね」
「仮に、万が一、そういうことしたって、お前が変わらなきゃ、同じ事だ」
「なんか難しいよね。どんどん難しくなる、ヒトシは。こう、真っ直ぐじゃないっていうか。もっと簡単なことなのに」
「難しいのはお前だ。手当たり次第食いやがって」
「そうかな?」
「僕は、お前の特別でいたいだけだ」
「妬いてるんだね」
「違うよ」
「妬いてるんだ」
「違うって」
「誰もが通る道だよ」
「お前が言うな」
「でも特別になりたいって言うんなら、それなら……」
「あ?」
「じゃあ、行って来る」

 つん、と僕の頬をついて、ニシャは二人の方へ小走りで近寄った。新條が、ニシャの腕を取って、いーっ、という顔を僕に向けた。僕は追い払うように手を振った。

 三人は行ってしまった。止めたところで、ニシャがその気ならそうなってしまう。佐藤に対する自分の脅しも無駄なことだと僕にはわかっていた。

 楽しそうな三人の背中を見て、寂しさを感じそうになる自分の心をぎゅっと固めて、僕は残りの中華丼をかき込もうとした。そして、僕は、ふと、自分の横に、誰かが立っているのに気が付いた。見上げた。

 毛野慎太だった。


<#36終、#37へ続く>

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