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僕のニシャ #40【連載小説】

 この物語はフィクションです。実在するあらゆる個人・団体・学校・組織および事件・事象などとは一切関係ありません。
 また、この作品は2015年にKDP・Amazonで電子出版された作品に読みやすくするため改行や若干の言葉の変更などを加え、分割して順次掲載する予定のものです。以前の電子書籍版とストーリーにおいて変更はありません。
 途中からお読みの方、#1(第一話)から最新話までをまとめたマガジンはこちら↓です。



 翌朝、雀が外で鳴いていたし、同じ枕の上に宇良さんの頭も並んでいたが、別に省略されるべき不健全な行為はなかった(未成年がアルコールを摂取したということを除いてだけれど)。

 今に至っても、僕はアルコールで記憶を飛ばしたことがない。その時も身に憶えのない出来事はなかったと確信を持って言える。

 僕は、しっかり服を着たままだった。ただ、とてもだるかった。僕が身体を起こすと宇良さんも目を覚ました。

 煙草……と言う宇良さんに僕は、座卓の上から、煙草のケースとライターを取って渡した。宇良さんは目をしょぼしょぼとさせながら、煙を身にまとうように吐いた。

「シャワーでも、浴びてく?」宇良さんは言った。
「いえ、まだ早いんで、一旦部屋に戻ります」僕は応えた。

 立ち上がる僕に、そう、と宇良さんは応えて、ベッドの縁に座った。僕は、じゃあ、また予備校で、と言い、部屋を出ようとした。宇良さんが言った。

「面白い話だった」
「そうですか」

 僕は軽く会釈をして部屋を出た。

 朝日が暴力的に輝いていた。僕は俯いて地下鉄の駅までの道を歩いた。

 結局僕は全てを話した。ここに書いてきたようなことを全て。話しながら、僕はいつしか泣いていた。宇良さんは、僕を胸に抱いてくれた。書くまでもなく、そういう期待がぷわっと膨らんだのは間違い無いけれど、でも、宇良さんは、君はその誓いを守るべきだ、と言った。

「その童貞の誓いは守るべきだよ。見かけも麗しくもない、他に何も持ってもいないと言う君が、ただ一人、あの女の子に対してだけ美しくあれる可能性なんだ。大事にするべきだ」

 他の誰が馬鹿にしても、わたしだけは君のその誓いの行く末を見守ってあげよう、そう言って、宇良さんは僕の頭を撫でた。

 僕は、初めて、本当の理解者を得たような気がした。

 それでもやっぱり性欲が消えたわけじゃない。でも、促されて並んでベッドに入った時、僕は思ったより安らかに、眠りに落ちることができた。僕は、姉がいたら、こんな風なんじゃないか、と思った。

 滞在先につくと、そのエントランスに、ニシャがいた。僕を見つけても、寄りかかった壁から背中を離さなかった。僕は、何か用? と訊いた。ニシャは、あったけど忘れた、と応えた。僕は、それ以上の話をその時のニシャとするつもりはなかった。黙って扉を開けた。後ろから、ニシャが言った。

「しようよ」

 僕は立ち止まった。

「もう、しようよ。お互いのために」

 僕はため息みたいに笑った。

「もう、した方が良いよ、そういう時期だよ」

 僕は、何も応えず、建物の中に入った。ニシャがいつまでそこにいたのか、僕は知らない。振り返らなかった。

 部屋に入って時計を見ると、まだだいぶ時間があった。宇良さんとの勝負のために、テキストを開いた。むずむずとしていた。僕は誰のことも妄想せずに、機械的に射精した。そして、何事もなかったかのように、暗号解読みたいな現代文の問題に取りかかった。



 三日が過ぎた。僕は学校の知り合いとは殆ど接しなかった。代わりにと言っては何だが、宇良さんと一緒にいることが多かった。

 それが恋愛だとは思わないけれど、僕はその短期間のあいだに、すっかり彼女に懐かされていた。慕っていたと言ってもいい。宇良さんは懐が深い。それも年齢を聞いて納得した。彼女は二十一歳だった。三浪だった。わたしはね、と宇良さんは言った。

「数学も、理科も、もうまるでダメ。私文の教科も、英語と日本史は嫌いじゃないけど、わたしが誇れるのは、ただ一つ、国語、現代文。夏の講習は正直現代文以外の授業は取ってない」
「それ以外も、勉強してくださいよ」
「気が向いたらね」
「気を向けてください」
「まあ、今年は目標ができたから、次は受かる」
「そうですか」
「君に抜かれないことだ」
「はあ」
「偉そうに年上ぶった以上、負けるわけにはいかないよね」

 またあの表情で僕を見詰める宇良さんから視線をそらす必要もなかった。十分に僕たちは親密になった。性的なことは抜きで。



 その日、僕はひとりで食堂にいた。近づいてくる人影に顔を向けると、安達まことだった。まことは、以前見せたことの無いような、笑顔をしていた。何と言って良いかわからないが、少し感じの悪い種類の笑顔だった。

 僕は、とりあえず、やあ、と言ってみた。まことは、それを鼻で笑うかのような仕草で応えた。まことは言った。

「あなたは、美人が好きなんでしょ?」
「あ、いや……」
「初めから戸廻だけしか見てなかった」
「そんなことは……」
「戸廻だって、色んな男と遊びながら、あなたをキープしてる」
「いや、それは」
「あ、いいのか。あなたも他の美人がいるし」
「え?」
「わたしのことなんか好きじゃなかった」
「あ、それは違――」
「ひどいひとたち」

 なーに、やってんの? と声がした。悪だくみが露見したかのような顔で、まことがそちらを見た。新條がトレイを持って立っていた。向かいに立って、ここいい? と彼女は訊いた。どうぞ、と僕は応えた。まことがそそくさと離れていった。

 新條は、もくもくと親子丼を食べた。僕も自分の中華丼を黙って口に運んだ。全て食べ終えて、立ち上がろうかと思ったとき、新條が言った。

「またまたおモテになってるみたいで」
「あ? まことは、違うよ」
「わかってるよ。あの浪人の話」
「ああ……それもそういうんじゃない」
「まるで馬鹿なカップルみたいに、一緒にいる」
「だから、そういうのじゃない。お姉さんみたいなひとだ」
「きょうだい? ニシカともきょうだいだったよね」
「ああ。あっちはどうしようもないきょうだい」
「あのさ」
「何?」
「あたしは性格が悪い」
「あ?」
「だから、理由無く好意的にされると、居心地が悪い」
「……あ、ああ」
「親切にされると、何か魂胆があるように思う」
「で?」
「壺とか絵とか勧められてない? 高い判子とか」
「は?」
「騙されてんじゃないの、って言ってるの」
「まさか。少なくとも何も買わされてないよ。買う金も無い。点数で飯は賭けてるけど」
「なら、いいけど」

 僕はまた立ち上がろうとした。でも、それを許さない視線が注がれていた。僕は座り直した。

「あんたが苦しいのはわかる」
「あ?」
「全部聞いた。ニシカから」
「ああ」
「でも、逃げるな」
「何から?」
「ニシカから」
「逃げてないし、お前に言われることじゃないな」
「あたしには言う資格がある」
「は?」
「でも、あの子を理解できるのはきっとあんただけだ。許せるのはあんただけだ」
「何言ってるのかわかんないよ」
「だから――」

 ああ、いた、と遠くから呼びかけられた。新條がそちらを見、そして、表情を硬くした。

 宇良さんだった。僕は、その時には、宇良さんがそばにいるだけで嬉しかった。

 宇良さんは、新條のことなど気にもしないかのように、僕の隣の席に着いた。待ってて、すぐ食べるから、と宇良さんは言った。お友達? と宇良さんは新條を見た。ええ、と僕が応えた。新條は顔を背けた。今日の夕食は天ぷらそばがいいな、と宇良さんは言った。僕は、ごちそうさまです、と返した。まだ勝つつもりでいるの? と宇良さんは笑った。最後くらいは勝ちます、と僕も朗らかに応えた。

 そんなやりとりを新條が硬いままの表情で聞いていた。そして、ニシャが現れた。

 僕は、ニシャがそんな傍に寄ってくるまで、気付かなかった。そのくらい宇良さんを見ていた。ニシャは笑っていたけれど、なんとなく不自然に僕たちに視線を動かして、そして、わたしもここで食べよう、と新條の隣の席に着いた。

 宇良さんがニシャを見詰めた。ニシャが、珍しいことに、視線を逸らした。

 宇良さんが言った。

「ニシカちゃん、よね」
「はい」
「坂上くんの幼なじみ」
「ええ」
「可愛いよね、すごく」
「そうですか? あなたもとてもキレイ」
「あら、嬉しい」
「そう、とても」

 女同士の会話っていうのは、何故あんなに意味深長に聞こえるんだろう。ニシャは、微笑んでいたし、宇良さんはいつもの表情だった。なのに、緊張感があった。宇良さんは、海老ピラフを口に運んで、呑み込むと言った。

「全部、聞いちゃった」
「はい?」
「ニシカちゃんと坂上くんのこと」
「はい……」
「坂上くん、泣いたのよ」

 ちょっ……、と僕は慌てた。でも、二人のやりとりは収まらなかった。

「わたしの胸で、泣いたの」
「そうですか」
「慰めてあげた」
「はい」
「そういうこと、あなた、できないよね」
「……はい」
「あなたが原因だから」
「はい」
「変わるつもりもないから」
「はい」
「わたしは、してあげられる」
「はい」

 新條が、眉を潜めて二人の顔を見比べていた。僕は、視点が三人の間で跳ねるのを止められなかった。宇良さんが、スプーンを置いた。

「あなた、誰とでもするんですってね」

 ばん、と机が鳴った。新條が立ち上がった。ニシャは笑っていた。作ったような笑みだった。笑って、応えた。

「ええ」

 新條が、行こう、とニシャの手を引っ張った。でも、ニシャの身体は動かなかった。

「そう。隠さないのは偉い」宇良さんが言った。
「事実ですから」ニシャが応えた。

 宇良さんは身を乗り出した。

「誰とでもするのよね?」
「ええ」
「じゃあ、わたしとしようか?」
「え?」

 ちょっと、と新條が声を荒げた。僕も驚いて宇良さんを見た。でも、彼女の目に僕は映っていなかった。戸惑うニシャに、もう一度、宇良さんは言った。

「誘われれば、誰とでもするんでしょ? あ、誘われなくてもするんだったね」
「……はい」
「わたしとしようよ」

 ニシャがぎこちなく頷いた。じゃあ、行こうか、と宇良さんが立ち上がった。ニシャもふらりと立ち上がった。ニシカ? と新條が問いかけても、ニシャには聞こえていないみたいだった。宇良さんが、ニシャに近づき、その手を取った。

 宇良さんは、坂上くん、今日の勝負は君の勝ちでいいよ、後で会おう、と言い残して、ニシャと共に去って行った。新條も、僕も、暫くの間、そこから動けなかった。

 だから言ったじゃない、あんたじゃなくて、ニシカがモテてるんだって、新條がそう呟いた。僕は返答もできなかった。



 授業をサボったのは、初めてだった。僕は街をふらふらと歩き、いつしか公園にいた。新條も、いた。

 いつのまにか、僕たちはベンチに並んで座っていた。どうやら雄らしい鳩が、雌らしい鳩を追いかけ回していた。「やらせてよ、ねえ、一回だけでいいからさ、ねえってば」と僕は心の中でアテレコしてみた。何故だか乾いた笑みが浮かんだ。それを見て新條が言った。

「何が楽しいの?」
「いや、別に」
「よく笑えるね」
「いいだろ? 笑ったって」
「ニシカが取られたんだよ?」
「いつものことだろ」
「相手は女だよ」
「そういうこともあるだろ、ニ……あいつだから」
「……慣れてるんだ?」
「そうかもな」

 不思議だった。

 僕は妬いていなかった。

 それは宇良さんが魅力的で、敬意を払える相手というのもあったかもしれないが、それだけでは説明がつかなかった。新條の言う「取られた」という感じがしなかった。どういう理屈か知らないが、女が相手というのが、数の内に入らないような気がしたんだ。

 そうじゃなくて、僕の心を重くしていたのは、宇良さんが初めからニシャ狙いで、僕に近づいたのかもしれない、という疑念だった。それも新條が言ったことだ。

 理解者だと思った。慰めてくれた、励ましてくれた。

 僕の心を動かしたものが、単なる欺瞞だったかもしれない可能性が僕を痛めつけていた。

 僕がモテるわけがない。全てニシャとそうなるための企みだった、そう思った方が自然だった。

 でも、同時に、そうではないことを祈る気持ちがあった。僕は本当に宇良さんのことを気に入っていた。短い間に、僕は宇良さんに心酔してしまっていたと言ってもいい。

 それをあっさりニシャが奪っていった。そうだ。だから、もし僕に嫉妬心があったとしたら、それは、そんなひとを取って行ったニシャに対して、向けられているものだった。

 ニシャはいつも僕の心を台無しにする。大事なものを踏みにじる。

 でもその時はこんな風に言葉にできなかった。ただ、腹の奥で渦巻く黒いものをどうしていいかわからずただ座っていた。新條が俯いたまま言った。

「本当に誰とでもするんだ」
「ああ」
「あんな簡単だったんだ」
「そうだな」
「やっぱり坂上は慣れてるよね」
「いや、慣れたっていうか……」
「あたしは慣れない」
「あ?」
「どんなことしてるんだろう」
「……さあ」
「キスするのかな」
「どうだろう」
「触れたり、抱き合ったり」
「うん」
「大事なところ見せ合ったり、口をつけたり……合わせたり」
「いや、知らないけど」
「いま、してるのかな?」
「……どうだろ」
「こんな想いを坂上はずっとしてきた」
「ん?」
「ひどい気分」
「……新條?」
「それを何回も」
「あの……え?」
「あたしも、ああすれば良かった」
「新條さん?」

 僕は新條を見た。あの新條が苦痛に歪んだ表情で、目を潤ませていた。僕はわけがわからなかった。いや、わかったけれど、何を言えばいいのかわからなかった。新條は無理矢理そうに笑顔を作った。

「あたしはね、三角関係になるなら、坂上だと思ってた」
「あ、ああ……でもあいつ五角とか六角とか、十角とかそういうレベルだぞ」
「うん、知ってる」
「ああ」
「でも、最後は坂上だって。だから仕方無いって」
「お、おう」
「だって歴史が違うじゃない? あんたとニシカ。ニシカは寄り道してるだけだって」
「いや、まあ……」
「だから、あたしはそばにいるだけで良いと思ってた。あたしは、結局、女だし」
「うん」
「きっといつか、落ち着いて、幸せになって欲しいって。そう祈ろうって決めてた。越えられない壁の外から」
「ああ……」
「それが、あっさり、殆ど話もしてない相手と。しかも、女。あたしと同じ女」
「うん」
「ほんとにあたしもああすれば良かった」
「そう言えばいいんじゃないの。やるだけならやらせてもらえるぞ、お前でも、多分」
「そういう問題でもない」

 新條は顔を背けた。お前何人かカレシいたじゃん、とか、いつから、とか色々質問の言葉は思い浮かんだけれど、僕はそれを声にすることはできなかった。

 僕たちは黙り込んだ。

 やがて、く、くくく、と新條が笑った。何? と僕は訊いた。新條はとびきりの、新條らしからぬ笑顔を僕に向けた。

「あたし、今、すごくセックスしたい」
「は?」
「坂上が相手でも良い」
「……ああ、そう」
「しようよ」
「いや……」

 軽く受け流したつもりだったけれど、目が泳いだ。それをじっと見た新條が、ふっと顔をいつもの皮肉っぽいそれに変えた。

「何、本気にしてんの?」
「また、からかったのか」
「誰が、あんたと」
「誰が、お前と」
「全部、冗談」
「ああ、そうでしょうね」
「童貞はヘタそうだし、痛そう。それに初めてがこんなやつなんて!」

 新條がぶるるっと身を震わせた。僕は鼻で笑った。

「こっちこそ、御免こうむる」

 そう言って僕は立ち上がった。帰ろうか、と訊くと、いや、まだここにいる、と新條は応えた。僕は、軽く手を上げて、足を出した。

 きっと、僕は新條の気持ちが理解できる、そう思った。僕は理解者を失ったかもしれないけれど、こうして思いも寄らない別の理解者ができたことに、喜びがないとは言えなかった。ふざけて心の中で、ウェルカムトゥニシャズストーリー、と言ってみた。それともザワールドアコーディングトゥニシャかな、と思った。苦笑が出た。

 僕は人波を避けながら歩いた。そして、その人波に完全に埋没しようかというとき、ふっと、僕の手を誰かが握った。振り向いた。新條がいた。新條は、あたしも、やっぱり帰る、授業あるし、と言った。僕は頷き、新條の手を握り返した。それに応える温もりと力があった。

 僕たちはそうして、手を繋ぎながら、言葉も交わさず、予備校への道を、ずっと歩いた。

<#40終、#41へ続く>

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