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僕のニシャ #8【連載小説】

 この物語はフィクションです。実在するあらゆる個人・団体・学校・組織および事件・事象などとは一切関係ありません。
 また、この作品は2015年にKDP・Amazonで電子出版された作品に読みやすくするため改行や若干の言葉の変更などを加え、分割して順次掲載する予定のものです。以前の電子書籍版とストーリーにおいて変更はありません。
 途中からお読みの方、#1(第一話)はこちら↓です。


 
 ニシャは鼻歌でも歌いそうな顔つきで、僕の家のあちこちを見て回った。

 僕は、何だよ、と繰り返し訊ねた。その度に、わあ、とか、へえ、とか、答えになってない感嘆詞をニシャは口にした。

 彼女は一階を一通り見て回ると、今度は僕を押しのけて、羽でもついてるかのような足取りで二階へと駆け上っていった。おい、ちょっと、と僕も後を追った。止める間も無く、ニシャは僕の部屋に駆け込んだ。思春期の男の子の部屋にも、多少の事情がある。僕は秘匿したい幾つかの物件について思いを巡らせながら、入り口に立った。部屋に来た女の子が、エロ本を探し当てるなんてシーンをよく見るけれど、しかし、そういうのはまったくの杞憂だった。

 ニシャはただ立っていた。顔を上げ、目を瞑り、部屋の真ん中で、とても自然に、自由に、ゆったりと、立っていた。

 もうこれきり、この女の子の容貌の美しさについて書くのはやめたいと思っているし、上手く言えないから、掛川の言葉を借りるけれど、僕がその後女神という言葉を聞く度思い浮かべたのは、その時の彼女の姿だ。

 そんな超自然で、非現実で、妄想的なものが、僕の部屋を明るく染めていた。

 何度だって、彼女は僕の言葉を奪う。腹が立つが、仕方無い。彼女は、まるで天才の書いた音符でも歌い出すかのように、言った。

「ここは、どこですか?」

 意味がわからなかった。彼女が、その光の代わりに正気を失っていたとしても、それも仕方無いことだと思うほどではあったけれど。もう一度、彼女は訊いた。

「ここは、どこですか?」
 僕は、相当迷って、応えた。
「僕の、部屋だけど……」

 ぱっと、ニシャは僕を向いた。ある種の異次元はそこで消えた。

 ニシャは、ちょっと乱暴に僕のベッドに腰掛けた。そして、ふふん、と笑った。

「何だよ?」僕は訊いた。

 ニシャは部屋の天井に目を遣りながら、応えた。

「わたし、何か記憶がごっちゃになっててね」
「記憶喪失?」
「ただの悪い記憶力」
「……バカなんだ」
「そうかも」
「うん」
「わたし、ずっと自分が双子だと思ってたの」
「は?」
「きょうだいがいるって」
「いるじゃん。花菜ちゃん」
「うん、あの子、可愛いよね」
「そうだね」
「でも、違うよ。そういうんじゃなくて」
「なくて?」
「とにかく、いると思ってたの」
「へえ」
「その子の部屋がね、自分の……パパの家にあると思い込んでたの」
「うん?」
「そういう気がしてしかたなかったの」
「うん」
「で、昨日、家に上がって探しても、やっぱり無くて、がっかりして、でも変だなって思って、いろいろ考えて」
「うん」
「見つけちゃった」
「うん」

 ぽんぽん、とニシャはベッドを叩いた。僕は、深く考えもせず、それが隣に座れと言うことだと思った。少し躊躇い、でも引き寄せられるように足が動いた。

 ニシャが微笑んでいた。そういう息づかいが聞こえた。

 色が、散った。

 触れてもいないのに、ニシャに向けた身体に、電流が伝わってくるような気がした。

 それが、生の、人間の、女の子の、磁力だった。

 きっと、例えばそれが掛川だったとしたら、思春期の屈折の方が勝ってしまったのかもしれない。できるだけ離れて、そっぽを向いて、で? 何の用? くらいに強がったのかもしれない。でも、それは、特別な女の子の、特別な魔力だった。逆らいようがなかった。

 ただ隣に座る。僕の心臓が、変拍子で暴れているみたいだった。

 何かを話さなきゃ何かが失われてしまう、そう思った。

 うまく話したかった。だけど、そういうときは大抵うまくはいかない。ましてや、十五の少年だった。僕は上ずりそうな声で言った。

「僕の事、憶えてた?」

 ニシャは微笑んだままちょっと遠くを見て、応えた。

「まあ、ね」
「そう」
「そりゃあ、ね」
「話しかけてこないから」
「だって、良く知ってるもの。わざわざ話さなくても」
「……そう」
「寂しかった?」
「別に」
「そう?」
「そう」

 微妙に落胆し、悦喜し、強がって、また、言葉を失った。自分をとがめる視線が、教室とは違ってどこにもなかったけれど、それでも、ニシャの顔を見るのには、勇気が要った。

 畏れのようなしびれが、僕の身体を覆っていた。

 何の隠し事もなく、かっこつけもなく言うけれど、そこに淫らな期待はなかった。ただ、どきどきとした。もうどうにかなって死んでしまいたくなるような、でも、その瞬間が永遠に続けばいいのに、と祈ってしまうような、そんな感覚。

 僕は、ようやくニシャに顔を向けた。ニシャも僕を見ていた。とてもリラックスした、当たり前の表情だった。そして、その口が言った。

「どうする?」
「何が?」

 僕はうろたえた。何を、「どうする」と言っているのかわからなかった。その言葉がすなわちソレのことだとすぐに了解できるほど、僕は経験を積んでいなかった。ニシャが、ふ、と口角を上げた。

「してみる?」
「何を?」
「折角懐かしいベッドがあるし」
「な、何を?」
「いろいろ思い出すかもしれないし」
「だから、何を?」
「いいよ、別に」

 ニシャが、膝の上で震えだした僕の拳に、その手を被せた。そこに至ってもその意味がわからないとは、いかに中学生とは言え、決して言えないことだった。

 血が、沸騰した。

「冗談だろ?」
「いいえ」
「からかってる?」
「いいえ」
「本気?」
「そんなところ」

 ニシャは僕の首に両腕をまわし、僕を引き倒すように、ゆっくりと枕に頭を置いた。

 ああ、もう、その時の僕の気持ちと言ったら、筆舌に尽くしがたい。合わさった腹と、背中をゆっくりと撫でていく指。自分のそれと同じ成分でできているとは思えないほどの肌が、拡散するような光に香っている。

 幻想という幻想、夢という夢が凝縮して、目の前で僕に熱を伝えている。

 身体の下にある筈のニシャの重みが、何故か感じられる。

 その顔が、間近にある僕の瞳をのぞくように、傾けられる。

 それは、問い、だ。そんな風に感じた。頭は空ぶかし気味にフル回転しているのに、言葉が出ない。もう、それに口をつけるしかない。そう決めて、そうした。味なんて、憶えてない。ニシャがどんな風に応えたのかも、記憶が無い。

「あの頃、あの最後の夜、こんな感じだったよね?」ニシャは言った。
「ん?」
「何をするかなんて知らなかったけど」
「……うん」
「変わらないね」
「うん?」
「目がキレイ」

 帰ってきた、あの子が、とうとう、ここに、帰ってきた、僕はそう思った。

 もう一度キスをした。今度はニシャからだった。まるでソフトクリームにでも噛みつくように、ニシャは僕の唇を貪った。その動きは僕の舌を口の中から導きだすのに十分な熱さで濡れていた。

 どのくらいそうしたのかわからない。僕はほぼ完全にニシャに体重を預けて、でも、両手の全ての指が絡まりあっていて、気付いたら、僕たちは見つめ合っていた。僕は、野暮なことを、訊かずにいられなかった。

「この先も?」
「いいよ」

 その応えに身体が爆発しそうになった。

 いや、爆発すれば良かったんだ。でも、僕は将来公務員を目指す少年だった。責任、大事なことだ。その責任感が、浅い性知識と交わって、僕に思い起こさせた。

「ゴム、ないけど」
 ニシャは笑った。笑って、言った。
「大丈夫」
「でも、子供ができたら……」
「大丈夫、わたしまだ生理になったことないから」

 あ、そう、と応えたものの、どこかから舞い降りてきた不安が、少し僕の動きを止めた。

「心配ないよ。中で出しても大丈夫」

 ニシャは僕の目を見詰めてから、僕の頭をぐっと抱き寄せた。そして、耳元で言った。

「イットーもそうしたよ」

 そう、となにげなく応えて、すっと血の気が引いて、瞳孔が不自然に動いたのを僕は感じた。


<#8終、#9へ続く>

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