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僕のニシャ #42【連載小説】

 この物語はフィクションです。実在するあらゆる個人・団体・学校・組織および事件・事象などとは一切関係ありません。
 また、この作品は2015年にKDP・Amazonで電子出版された作品に読みやすくするため改行や若干の言葉の変更などを加え、分割して順次掲載する予定のものです。以前の電子書籍版とストーリーにおいて変更はありません。
 途中からお読みの方、#1(第一話)から最新話までをまとめたマガジンはこちら↓です。



 秋、僕は私立の法学部を中心に、八つ受験することに決めた。

 それが許されるだけでも、いまの人達に比べて恵まれていたのかもしれないけれど、そういう余裕のある時代でもあった。そのくらいの数の受験をする学生も僕の周りではそんなに珍しくなかった。

 その中の一つに、W大の文学部も何気なく滑り込ませていた。父には、滑り止めみたいなものです、と言っていたが、本当のところは、第一志望だった。西浦先生の影響はまだ大きかった。宇良さんが気に掛けてくれたきっかけも現代文だった。僕は小説なんて教科書以外で殆どろくに読んでいなかったけれど、やっぱり文学部でやるようなこと(何をするかはわからなかった、調べなかった)が漠然と自分に向いているような気がしていた。

 でも、そこを滑り止めだと言い切れるほどの学力は本当は僕にはなかった。むしろ記念受験になる可能性の方が高かった。だからこそ、かえって気安く、嘘がつけたのかもしれない。万が一受かったら、その時考えればいい、と僕は思った。



 ある休日、神津家の前で、花菜を見かけた。子供ってのは、すぐ大きくなるな、と僕は思った。

 彼女はしゃがんで、地面を見詰め、何かをしていた。手に百円ライターが握られていた。僕は眉を潜めて、それを見ていた。はっと気付いたように顔を上げると、花菜はぱっとライターを背中に隠して立ち上がった。目が合ってしまった以上、挨拶しなきゃいけないような気がした。

「こんにちは」
「……こんにちは」

 花菜は視線を逸らした。確かにこの子も章雄さんの子供だ、と再確認してしまうほど、可憐だった。でも、ニシャと比べると、この子もやはり普通の子だった。可愛さが、想像の範囲で収まっていた。それでも、この子、きっとモテるだろうな、とは思った。

 確かにそうだったが、僕が誰にでも惹かれるからといって、さすがに小学生にはそういう気にならない。深い意味も無く、僕は微笑んだ。

「何してたの?」
「別に」

 無表情で、僕から目を逸らしたままの花菜に、僕はそれ以上の会話を思いつかなかった。

 本当に、僕は色んなひとに惚れるのに、女のひとととりとめなく話すということが苦手だった。それは、この少女に対しても例外じゃなかった。僕は、そう、とだけ応えて、家に入ろうとした。

 あ、と小さな声がした。ん? と僕は振り返った。

「何でもない」

 やはり、目を合わさずに花菜はそう言った。僕は、ひとつ息をついて、彼女の前へと歩み寄った。

「ごめんね」と僕は言った。
「何が?」と花菜が訊いた。
「昔、約束を破ったこと」
「……うん」
「来ても良いよって言ったのに、待たせちゃったこと」
「うん」
「花菜ちゃんも少し大きくなったから、わかってもらえると思うんだけど、色々事情があったんだ」
「うん」
「ごめん」
「うん」
「ごめん」
「もう、いいよ。どうでも」
「そう?」
「うん」

 花菜の無表情が、どこか、寂しいものに変わった。僕は、なんとかしなきゃ、と反射的に思った。もう一度、何してたの? と訊いた。

「ライターでしょ? その後ろにあるの」
「……うん」
「良くないよ。危ない」
「うん」
「うん」
「……アリを」
「うん」
「焼いてた」
「……それは、良くないよ」
「どうして?」
「一応、命だし」
「でも、すっとする」
「え?」
「あのひと」
「ん?」
「全部、盗っていった」
「お姉ちゃん?」
「パパも、ママも、部屋も、全部」
「うん?」
「あたしだけ、仲間はずれ」
「そんなことないでしょ? 章雄さんは……君のパパはそんなことするひとじゃ……」
「あたしだけ、家族じゃない」
「本当のママがいるじゃないか。ニシャ……お姉ちゃんは君のママを盗ったりしないよ」
「盗った」
「いや……」
「あのひとが、盗った」
「……うん」
「あのひと、死ねばいいのに、と思う」
「え?」
「きっと、すっとする」

 花菜が、笑った。僕は言葉を失った。くるりと身体を翻して、花菜は家へと入って行った。

 僕は、足下の、幸運にも火あぶりを逃れられたアリの無機質な歩みに、しばらく目を取られて動けなかった。

 よう、と声がした。僕は顔を上げた。章雄さんが、花菜と入れ代わりに出て来ていた。

「よう」と章雄さんがまた言った。
「どうも」と僕は応えた。

 その頃には僕は、家の前で(それ以外では会いようがないけれど)、ちょくちょく章雄さんと顔をあわせていた。だいたい、よう、どうも、元気? ええ、そちらは、元気、じゃあね、というそれだけの交流だった。

 でも、その日は、章雄さんは立ち止まって、僕に身体を向けた。僕も、そうした。

「どう? 勉強は進んでる?」と章雄さんが訊いた。
「まあ、ぼちぼち」と僕は応えた。
「よく勉強なんかできるよね」
「したでしょ? 章雄さんも」
「僕さー、英単語集とか憶えようとしたんだけど、最初の一語しか憶えらんなくて」
「章雄さんの時代だと、assasinですか」
「だったかな?」
「憶えられてないじゃないですか」
「だったような気がする」
「そうですか」
「だからさー、勉強できるひとって憧れちゃうなあ」
「トップセールスマンってのも凄いと思いますけど」
「いや、最近僕はえらくなっちゃって。売る、というより、管理するって感じ」
「はあ」
「向いてないんだ。そういうの」
「でしょうね」
「つらくてさー」
「はあ」
「降格したい」
「珍しいこと言いますね」
「ん?」
「普通偉くなりたいものじゃないんですか?」
「どうして?」
「どうしてって。給料があがったり」
「いや、それほど変わんない」
「へえ」
「やめようかな、仕事」
「できないですよね」
「そうだね」

 章雄さんは笑った。男から見ても、魅力的な笑みだった。それにここ数年で、渋みまで加わったような気がした。高校生のコドモ相手に弱音を吐いてみせるようなある種の気安さはそのままだったけれど。

 そんな軽さで、章雄さんは訊いた。

「ニシャは相変わらずかい?」
「何が、ですか?」
「相変わらず、食いまくり?」
「さあ?」
「お、とぼけることを憶えたのかい」
「いや、わかりませんけど」
「隠さなくたっていいのに」
「本人に訊けばいいじゃないですか。得意でしょ? 女のひとと話すの」
「うーん、そうだけどさ、娘ってのは、やっぱりどこか他の女のひとと違うんだよね」
「そうですか」
「他の女のひとは抱いちゃえばいいじゃない?」
「はあ」
「でも、娘ってそういうわけにいかないでしょう?」
「はあ」
「難しいよね」
「はあ、女のひとを抱く方が難しく感じますけど」
「そう? 難しくないじゃない? ちょっと食事して、お酒なんか飲んで、好きだーって言えば、大体そうなるでしょ?」
「章雄さんとは理解し合えませんね」
「ところで、まだ、ニシャとはやってないの?」
「相変わらず屈託なく訊きますね」
「そうかな」
「やってません」
「待ってるのに」
「何をですか」
「君が、お嬢さんをください、って言いに来る日」
「冗談でしょ? ニシャは結婚なんてしませんよ」
「君の方は、してもいいんだ? そういうつもりある?」
「いや……まあ、わかりません。でも、ニシャにそのつもりは無いと思います」
「そう? でもきっとニシャは君のことが好きだよ。大事なひとだ」
「ですかね」
「僕も君が好きだ」
「はあ」
「ここに戻って来てから、ずっとニシャは君を追っかけてるじゃないか」
「はは、こっちが引きずり回されてるだけですよ」
「大学も同じとこ行くんでしょ?」
「さすがに無理じゃないですかね?」
「やっぱり、無理か。でも家では一生懸命勉強してるよ。今だって部屋で勉強してる」
「そうですか」
「君が頑張ってるからだ。ニシャも頑張らざるを得ない」
「はあ」
「君も大変だ」
「え?」
「僕はね、いろんな女のひとを知ってる」
「でしょうね」
「だから、そういう女が、どう扱われるか、どう思われるか、経験で知ってる。自分の経験で」
「はあ」
「ニシャを頼むよ」
「……頼むって言われても」
「君は、貧乏くじを引いた」
「はあ、普通親がそれを言いますか」
「でも、大概の人間は貧乏くじを引いて生まれてくる。その貧乏くじとともにどう生きるかが問題なんだ」
「はあ」
「でも、あんな可愛い貧乏くじはないよ。手放しちゃダメだ」
「はあ」
「貧乏くじとともに生きる覚悟はあるかい?」

 僕は、ため息をついた。

 覚悟、よくわからなかった。そんなものをすれば、何かはっきりとわかる変化が起こるのだろうか、と思った。少なくとも自分の中にそんなものをみつけられなかった。だけど、僕は肯定も否定もしたくなかった。

「これ、オトナの説教ですか?」
「ああ、僕も年を取った。でも、説教じゃない。お願い、だ」
「そうですか」

 章雄さんは笑っていた。僕も笑うよりなかった。

「ニシャはね、可哀想な子だ」
「はあ」
「しかるべきときに、しかるべきものを受け取らなかった。むしろいらないものを背負った」
「何が言いたいのかわかりませんが」
「いつか本人から聞きなよ。ピロートークででも」

 しませんよ、と僕は呆れて言った。ああ、そうだった、君は、一生しないんだもんな、やればいいのに、と章雄さんがからかうように言った。僕は、じゃあ、家に入ります、と言ってドアに向かった。

 章雄さんが、ヒトシくん、と僕に呼びかけた。僕は振り向いた。そして章雄さんは言った。

「屈託の無いオトナなんていないよ。ヒトシくん」
「はい?」

 屈託の無い笑顔でそんなこと言われてもな、と僕は思った。章雄さんは、少し考えるように顎に手を当てて、そして顔を上げた。

「君は、お母さんのことを、知りたくはないかい?」
「え?」
「いや、本当は、受験が終わったら言うつもりだったんだけど、何か今言っておいた方がいいような気がして」
「はあ。衝撃の事実とかなら、受験の後にしてください」
「そんな衝撃はないよ。ただ、毎年、はがきが来る。絵はがきで、何も文章は書いてないけど、君のお母さんから。住所とか連絡先が書いてある。東京だ。もし、会いたいなら、それを教えるよ。受験の暇を見て、会いにいけるだろ?」
「はあ」
「ちょっと待ってて」

 章雄さんは家へと入り、しばらくして出て来た。そして、メモの紙を僕に渡した。

「会いたくないなら、電話だっていい。いずれにせよ、お母さんの居場所くらい知って置いて良いんじゃないかな」

 僕は、軽く頭を下げて、家に入った。

 母親、と思った。母を切なく恋うたことはないように思った。恨んだ、ということも。

 でも、僕には年上の女性に甘えたくなる傾向は確かにあった。西浦先生や、宇良さんがそうだった。

 確かに、母と話してはみたかった。だけど、それは、どちらかと言えば、好奇心に近かった。どうしたものかな、と僕はメモを財布に差し込んだ。

 家には父がいた。休日だからと言って、ゴルフなんかに行くようなひとじゃない。そういう仕事でもない。僕は、ただ、目を逸らして、二階へ上がろうとした。昼飯だ、と父が言った。その頃父が食事を支度することが多くなっていた。変わらず、食卓ではあまり話もしなかった。でも、父は言った。

「さっき玄関先で誰と話してた」
「通りすがりの人に道を訊かれて」と僕は嘘をついた。
「嘘をつくな」
「はい」
「絶対に許さん」
「はい」

 僕は、気分が重くてしょうがなくて、あまり美味しくない野菜炒めをかき込んでから、自分の部屋に戻った。

 勉強をすれば、僕は楽になれる。

 机の前にいる時だけ、僕は何とも戦わなくて良かった。


<#42終、#43へ続く>

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