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僕のニシャ #34【連載小説】

 この物語はフィクションです。実在するあらゆる個人・団体・学校・組織および事件・事象などとは一切関係ありません。
 また、この作品は2015年にKDP・Amazonで電子出版された作品に読みやすくするため改行や若干の言葉の変更などを加え、分割して順次掲載する予定のものです。以前の電子書籍版とストーリーにおいて変更はありません。
 途中からお読みの方、#1(第一話)から最新話までをまとめたマガジンはこちら↓です。



 ニシャが誰にでもその身体を与え、それを僕が妨げられないように、僕も、つい誰かに惹かれてしまうことを、どうしようもなく止められない。それまでもそうだった。

 もし仮にニシャに対して立てた誓いが美しいものであったとしても、僕が自分を信用しきれないのは、結局そういう部分が消えずに、心の中で蠢き続けていたからだ。

 決して美しくないものの中で、悶え続けていたからだ。

 例えば、妄想。VHSのビデオデッキどころかテレビすら部屋に無かった僕たちの、手段。

 僕はニシャばかりを、その対象にしていたわけじゃない。ひとり自分を擦るとき、僕は記憶にある女の子たちを、その日の気分で、とっかえひっかえした。

 アイドル、女優、クラスメート、掛川清乃や新條望都子、安達まこと、そして、西浦先生。

 正直に言うと、その頃の僕は、西浦先生がスーツ姿で僕に跨がるシーンに一番燃えた。ノートの訳文をチェックする彼女の端正な筆跡が、まるで、彼女の肉そのもののような熱さをもっているかのように思えた。

 その文字をしたためた手の幻影が、僕の右手に宿る。息づかいが聞こえ、化粧の匂いが立ちこめる。オトナの柔らかさが僕の肌を包み、同時に激しく僕を刺激する。

 彼女が笑っている。僕は絶頂する。

 そして、妄想の中で彼女の中に放出した筈のものが、ティッシュでは足りずに、掌を汚しているのを見て、僕は、自己嫌悪する。

 そんな気分を引きずったまま、学校では彼女の前に立つ。それが、とてもイケナイことのような気がして、また身体の中に火が灯り、家に帰って、また同じことをする。

 そういう螺旋が、いつしか僕を、西浦先生を格別な存在だと思うところまで導いていた。

 「恋」なのだろうか、と考えた。

 でも、そんな「恋」は、目にするドラマや映画には描かれていなかった。

 彼、彼女らは、まるで性欲なんて持っていなかった。ただ美しく恋をしていた。

 僕には不思議だった。でも、憧れもした。

 もし、先生が僕を受け入れたなら、僕はニシャをどうするだろう、と思った。僕は、あの誓いを守れなかった自分を、どう処理すればいいのか、と考えた。考えすぎもいいところだ。恥ずかしい。でも、それはやはり、「恋」の一種だったと思う。

 それを「恋物語」だというには、あまりに何もなかったけれど。




 雪が降って、そして、また融けて、を繰り返していた、初冬のある日、例のノートを先生が返してくれた時、彼女は僕の背中を軽く触って廊下の隅に誘導すると、こっそりと僕に言った。

「私立文系クラス、できるって」
「え? 本当ですか?」
「来年度、試しに作ってみようって職員会議で決まったの。まだ本決まりじゃなくて、志望する生徒が一クラス分になったら、本当に作ろうって」

 先生の甘い匂いに、じんわりと下半身が熱くなるのを感じて、僕は少し後ずさった。先生が僕を上目使いに見ていた。僕は視線を慌てて逸らした。

「あら、嬉しくない?」
「い、いえ、その……」
「ご家族、国立志向?」
「いえ、それは、わかりませんけど」

 僕には父の気持ちがわからなかった。僕は、父と話すのが、気が重くてしかたがなかった。

 その頃の父は、口を開けば、僕の数学と理科の点数のふるわなさをあげつらった。

 だから、お前はダメなんだ、そんなんじゃ何にもなれない――。

 故に、おそらく国立を、父は、希望しているとは推測はできた。でも、推測だった。確認したいとも思わなかった。

 でも、スゴイね、と先生が言った。

「は?」
「君が変えた」
「え?」
「数学と理科赤点で、学年四十九位なんて、有り得ないことじゃない?」
「そう……ですか?」
「職員室がざわめいた。順位が張り出された後、私立文系への進学の相談を受けることも多くなったって」
「はあ」
「そうよ。だから、三教科に絞ったら、もっと伸びるんじゃないか、って皆思ったのよ。教師も生徒も」
「はあ」
「わたしのおかげね」
「あ……ありがとうございます」
「何プレゼントしてくれる?」
「え?」

 驚く僕を見て、先生がくすくすと笑った。冗談よ、と先生は僕の背中を叩いた。

「本当に、先生のおかげで」と僕は言った。
「きっかけ、だけよ。君が真面目だったから、うまくいったの」
「はあ、真面目……ですか」
「君の努力が、学校を変えた」
「はあ」
「君の成果だ」
「はい」
「誇りなさい」
「はい」

 はい、と応えたものの、どう捉えて良いのかわからなかった。誰かのためじゃなく、いわば利己的に点数上げゲームをやっていただけだ。

 ある種の現実逃避だ。

 数学と理科を僕は完全に諦めたわけでもなかった。そのコンプレックスの方が大きかった。それに、僕は、真面目と言われるほど、高潔な意志によって勉強したわけじゃない。努力なんて言葉はどうにも自分に相応しくは思えなかった。現に、フジュンなこともしている。

 泳いでしまう僕の目を、先生が見詰めていた。僕は、なんとなくそれを見返した。先生は、何か意味が生まれてしまいそうなくらいの間、僕から視線を逸らさなかった。優しい目だった。

 そして、先生は僕の背中をもう一度軽く叩き、じゃあ、頑張って、と言い残して去って行った。

 教室に戻り、席に着き、ノートを開いた。先生の赤ペンが所々に跡を残していた。もし、母親がいたら、あんな目で僕を見詰めてくれるのだろうか、と僕は思わずにはいられなかった。



 数日後、アンケートが配られた。私立文系クラスを作るとしたら、選択する気はあるかどうか、訊ねるものだった。

 本当に希望しているかどうか、自分にもわからなかった。

 でも、西浦先生の言葉が、「希望する」に、丸を付けさせた。

 その頃になると放課後僕とニシャは、相変わらず人のいない自習室にいることが多くなっていた。ニシャは訊いた。

「アンケート、どう答えた?」
「希望しといた」
「そうだよね。あの成績ならね」
「まあ……ね。お前は?」
「まだわからない、ってしといた」
「お前、全教科普通だもんな」
「うん」

 ニシャは昼休み食べ残していたやきそばパンにかぶりついた。僕はまことと付き合って以降、なんとなく女の人が何か食べる姿をじっと見てしまう癖がついた。ん? とニシャが僕を見詰め返した。僕は慌てて目を逸らした。ニシャは気にするでもなく、私立文系かあ、と言った。

「で? どこ行くの?」
「入れてくれるなら、どこでも」
「学部とか」
「決めてない」
「じゃあ、何したいの?」

 嫌な質問だった。漠然と将来は公務員だと昔から思ってはいたけれど、それは単純に安定した身分がなんとなく良いかなくらいの想いであって、それで何をしたいとかいう志はまるでなかった。

 勉強だって、特別目標があるとか、いにしえの世界にロマンを感じるとか、語学を駆使して世界をまたにかけてやろうとかいうわけじゃない。ただ単にそれが禁止されていなかっただけの話だ。

 したいことが、まるで無かった。自分が虚ろに感じられた。

 それを認めたくなくて、僕は応えた。

「……公務員?」
「だったら、何学部かな」
「どこかな」
「W大? K大?」
「簡単に言うなよ。……お前は?」
「わたし? ヒトシと同じトコ」

 絶対に自分だけのモノにできないとわかっている女なのに、そんなことを言われるとまだ喜んでしまう自分がいるのを、僕は思わず緩んでしまった口元のせいで、気付いてしまった。僕はその気持ちを隠すように顔をすぐに顰めた。

 ニシャは、パンを口の中に収めて、さあてと、と立ち上がった。

「どうした?」と僕は訊いた。
「ん? ちょっと約束」
「まさか」
「ん?」
「もしかして、また、男か?」
「すごい」
「何が?」
「良くわかるね」

 僕は思わず頭を抱えたくなる手を膝の上でぎゅっと固めた。

 自分を誰より喜ばせる女が、誰よりも僕をひどい気分にする。

 僕にはまだ悟りも諦めも訪れていなかった。噛みしめた奥歯をこじ開けるように言葉が出て行った。

「お前に何を言っても、きっと変わらないんだろうけどさ」
「うん」
「わかってるけどさ」
「うん」
「誰にでもやらせる女なんて言われて平気なのかよ」
「うん。事実だし」
「そうだな」
「そうだよ」

 軽くぽんとニシャが僕の肩を叩いた。その感触と一続きに繋がっているはずの、熱い場所が、僕の胸の中ではっきりと輪郭を持って立ち現れた。

 僕が分け入らないと決めたその場所に、多分この後、何てことも無く気軽に自分を差し入れる男がいる。

 頭の中がぐちゃぐちゃに壊れそうだった。僕は、なんとかそれらしい言葉を言わなければならなかった。理性の範疇で、この会話を続けなければならなかった。

「……だから、いい加減気づけよ」
「何に?」
「僕が嫌だ」
「ん?」
「僕の大事なものが汚れるのは耐えきれない」
「大事なもの?」
「お前のことだ」
「そう?」
「そう」
「わたし、汚れてる?」
 ニシャは僕の顔を覗き込んだ。僕は顔を背けた。
「他の人はそう思う」
「ヒトシも、そう思ってる?」
「いや、それは――」

 言い訳をしようとした僕ににっこり笑いかけて、ニシャは入り口に向かった。


<#34終、#35へ続く>

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