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僕のニシャ #44【連載小説】

 この物語はフィクションです。実在するあらゆる個人・団体・学校・組織および事件・事象などとは一切関係ありません。
 また、この作品は2015年にKDP・Amazonで電子出版された作品に読みやすくするため改行や若干の言葉の変更などを加え、分割して順次掲載する予定のものです。以前の電子書籍版とストーリーにおいて変更はありません。
 途中からお読みの方、#1(第一話)から最新話までをまとめたマガジンはこちら↓です。



 誰かに甘えたかった。僕はこんなに辛いんですよ、と訴えたかった。食卓には父がいた。このひとではない、とは思った。期待はしていなかった。

でも、僕は訊いてしまった。

「母さんを、まだ、許せませんか?」

 父は、何も応えなかった。だけど、いったん訊いてしまった勢いで言葉は出て行った。

「章雄さんとももう十年以上話してない。近所づきあいがない」

 父はゆっくり視線を僕に置いた。ぎらり、と目が光ったような気がした。僕は萎縮する心を感じた。でも、僕は、ニシャによって慣らされて麻痺していたのだ。

 数回の身体の過ちが、どうだというのだ? 耐えられるし、そもそもたいしたことじゃないじゃないか、と。

 僕の口が動いた。

「たかが、何回か間違えたくらいで――」

 父は、箸を置いた。そして言った。

「コドモに、そんなことをいう権利はない」
「いや、だって」
「俺の気持ちの何がわかる」
「わかるさ」
「わからん」

 どん、と父は食卓に拳を落とした。かちゃん、と食器が鳴った。

 わかる、と僕は言った。本当にそう思っていたのだ。愛しい者が自分じゃない他の誰かとセックスする、その哀しみはわかる、でも、乗り越えられるんだ、と。

 思えば、オトナになったつもりの、自分が親を越えている、といううぬぼれだったかもしれない。それでも僕も越えようとしてるんだ、父さんも越えてくれ、と願う気持ちがあった。

 それはきっと僕の屈折した甘えだった、と今はわかる。

 父は、背後にとても大きな湿った怒りを感じさせる声で、こう言うだけだった。

「いいから、勉強をしろ」

 それ以上の口答えは、戦いを恐れる僕にはできなかった。やっぱり、このひとじゃない、僕はそう思った。

 数日後、ポケットに小銭を山ほど突っ込んで、僕は夜の公衆電話ボックスにいた。

 電話番号が二つあった。僕は、どちらにかけていいものか、しばらく考えた。

 いや、考えるというより躊躇っていた。躊躇って、結局、使う勇気が少なくて済む方にした。

 宇良さんは、嬉しそうな声で、元気だった? と訊いてくれた。色々あって、と僕は言った。聞こうか、と宇良さんは言った。

 僕は教室でのできごとを大まかに話した。さすがだね、ニシカちゃんは、と宇良さんが笑った。面白くないです、ひどい扱いを受けてます、と僕は言った。うん、と宇良さんは言った。

「君は、嫌なんでしょ? そんな自分が。がっかりしてるんだ、自分に。ニシカちゃんを好きだったはずなのに、周りの評価が変わったくらいで、それが揺らいだ。もしかしたら、巻き添えを食ったことに不満さえある。でも、その鬱屈をどこにもぶつけることができない。だから、わたしに電話してきた」

 的確に読み取られてしまっていた。僕は、嬉しかった。そうです、きっと、と僕は言った。

「甘えたい?」宇良さんが言った。
「いえ……いや……ええ」
「いいよ」
「はあ」
「おいで、今すぐ」
「はは……そりゃ無理です」
「ははは、そうだね」

 僕たちは、笑った。でも、と宇良さんが言った。

「ねえ、坂上くん、テレビをつければ美しいもので溢れてる。ドラマや音楽の歌詞や映画や報道や。美しいよね。感動的だ。でも、感動的な物語の主人公にだって、描かれていない部分があったんじゃないかな? トイレにだって行っただろうし、鼻くそだってほじってたかもしれない。省略されるベッドシーンでおぞましい変態行為が行われてたかもしれない。美しい別れのとき、男の頭の中に、ああ、もう一回あんなことやりたかったな、ってふと思い浮かんだかも知れない。女が身を引くとき、ち、こんな金持ちといたらもっと贅沢できたのに、と微塵も思わなかったなんて誰が言える? でも、それはカメラには映らない。だから、世の中絵に描いたような美しいひとだらけのような気がしてしまう。そして、自分もそうならなければならないような気がしてしまう。でも、カメラの回っていないところでも人間は生きている。くだらないことを考え、みっともないことをして、ね。だけど、こっちの方が当たり前のことなんだ、当たり前すぎることだから、わざわざ描かないし、ニュースにもならないんだ。逆に美しいものは珍しくて滅多に起きないからこそ、価値が生まれるということを忘れちゃいけない。皆ができないからこそ、ね。皆が揺らぐ。揺らぐ心とどうしようもない身体で、人は生きている。それが普通だよ。そして、大抵のひとが美しくは生きられない。そんなチャンスもない。それは、いけないことかな? 美しくないからと言って、責めるべき事かな? 当たり前のことなんじゃないかな? 当たり前で何が悪いのかな? ひとが誰しもテレビの中に行く必要はないんだ。主人公になる必要なんてどこにもない。でも、喜びなよ、いや、悲しむべきなのかもしれない、それはわからない、だけど、君には目の前に美しくあれるチャンスがある。たったひとりニシカちゃんのためだけに。大いに揺らいでもいい。ニシカちゃんの前でだけ、美しくあれればいいじゃない? そう、君はニシカちゃんを拒絶していない。それでもまだ一緒にいる。それでいいんだ。その時、自分の心の中なんて、どんなに醜かろうが、どうだっていいと思わない? そんなものを写すカメラはないし、ニシカちゃんにテレパシーで伝わるわけでもない」

 僕は、何も言えなかった。正直、理解も追っつかなかった。でも、そうですね、と言った。宇良さんが、またあの「中間」の表情をしているような気がした。で、と宇良さんは言った。

「で、わたしは、君の心の揺らぎの方を、受け持つよ。汚い方を、ね。当事者の責任、いや、親愛の証として」

 それを聞いただけで、僕は楽になった。もっと言いたかったことがあったような気がしたけれど、どうでも良くなった。ありがとうございます、と僕は言った。電話の最後に、宇良さんは言った。

「本当に辛くなったら、いつでもおいで、わたしの君に対する扉は開いてる。まあただし――」
「性的なのは抜き、でしょ?」

 笑って、それじゃあ、と受話器を置いた。

 気分が、良くなった。勢いがついた。

 僕はさっきまで躊躇っていたもう一つの電話番号を、勢いのまま押していた。でも、呼び出し音が繰り返されるごとに、受話器を持つ手の平がにじみ出した。

 六回と半分で、相手は出た。阿佐ヶ谷です、声はそう言った。全然知らない声のような気がした。でも、その名字は母の旧姓だった。言葉に詰まった僕に、訝しげに、もしもし? と相手は言った。僕は、なんとか声を絞り出した。

「母さん」
「え?」
「ヒトシです」
「あ……」

 明らかに動揺した声が、耳元で響いた。歓迎されてないことが、それだけでわかった。もう、切りたくなった。でも、切るわけにもいかなかった。僕は言った。

「元気、ですか?」
「……ええ」
「そうですか」
「……」
「それだけです、それじゃ――」
「あ、待って」
「はい?」
「あのひとは元気?」
「父さんなら、健康上は元気です」
「あ、ああ、そう」
「はい」
「……じゃなくて」
「はい?」
「章雄さんは、元気?」
「……元気だと思います」
「そう」

 嬉しそうな声がした。僕は、心臓のあたりが冷たくなるのを感じた。

「そんなに、章雄さんが好きですか?」
「え?」
「過ちを犯して、息子を捨てるほど?」
「いや、そんな――」
「息子には、元気かとも聞かないで、あのひとを気にするほど? 息子には手紙もよこさないのに、あのひとには連絡先を伝えるほど?」
「……ごめんなさい」
「いえ」
「でも」
「はい」
「わたしは、あのひとと過ちなんか犯してない」
「は? だって、だから出て行ったんでしょう?」
「そういう関係じゃない」
「はい?」
「ただ、好きになった。もう、あなたのお父さんとはいられなくなるほど」
「はあ」
「あのひとが好きで、もう他の男には触れられたくなかった」
「そうですか」
「でも、相手にしてもらえなかった。だから、過ちなんてなかった」
「はあ」
「だから、嘘をついた」
「え?」
「何度も抱かれたって。無理矢理されたって」
「……そうですか」
「わかるでしょう? その気持ち」
「わかりませんよ」
「……そう」
「もう、電話しません」
「……」
「お元気で」

 待って――と受話器から声が漏れていたけれど、僕は乱暴に電話を切った。失敗だった、と思った。もう一度宇良さんに電話しようか、とすら思った。でも、家に帰った。

 父が、不機嫌そうに、ソファーに座っていた。お前、受験生の自覚あるのか、こんな遅くに出歩いて、と言った。少し気分転換に散歩をしてきました、と言った。お前は努力が足りないんだ、浮ついてるんだ、真剣に集中すれば、そんなものは必要ない、だいたいお前は勉強が足りないから、数学も理科もできなかったんだ、俺は本当は私立なんて――と捲し立てる父の言葉を遮って、僕は言った。

「母さんと電話しました」
「な……」
「知ってましたか? 母さん、章雄さんと何も無かったそうですよ」

 父がバンとテーブルに手をついて立ち上がった。僕は構わず言った。

「章雄さん、何もしてないんです。母さんが、嘘をついたんだ。何もしてないひとに腹を立てるなんて馬鹿げてる」

 父が僕を睨んだ。僕は目を逸らした。逸れてしまう目が、情けなかった。父が拳を握りしめた。殴られるのか、と思った。でも、父はすとんとまたソファーに腰を落とした。

「……何もしてないから、許せるか?」父は低くくぐもった声で言った。
「は?」
「自分じゃない男に、妻が惚れてると知って、平気でいろとでも言うのか?」
「……父さん」
「勘づいてたよ、そんなことは。だからこそ、許せなかった」
「……」
「あいつがお前に何を言ったかは知らん。だが、あの女はな、俺と、当時の奥さんの前で、もう一度抱いてくれと、あの男にすがったんだ。それを、許せるか? 許せると思うのか?」

 僕は、応えられなかった。

 俯く父を置いて、僕は二階に上がった。机についた。父には面と向かって言えない言葉が、頭の中に浮かんだ。

 悪いのは、章雄さんじゃない、章雄さんは悪くない、じゃあ、悪いのは誰だ? 母が悪い、そう思って、でも、それも正解ではないような気がした。

 何も、誰も、悪くない、そう思えたらいいのに、と僕は参考書を開いた。


<#44終、#45へ続く>

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