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『人間の教科書』神さま、全てはシナリオだってバレてます【苦境すら楽しむ秘訣】

近ごろYoutubeの都市伝説をとりあげた動画などを中心として「この世はバーチャルリアリティだった」などと、もっともらしい根拠とともに喧伝されています。

要するに映画『マトリックス』みたいに人間の見ている現実とは、コンピュータが作り出す超精巧なバーチャルリアリティなのだというのが、その手の動画の主張です。

テスラモーターのイーロン・マスクも多額の資金を投じて、その真相を究明する研究をしているだとか言われていますが、きっと「この世はコンピュータが作り出すVRだった説」は真相を正確に言い当ててはいないでしょう。

その可能性もゼロではないとは思いつつも、コンピュータはしょせん神の創造物の模倣のごときものに過ぎません。

むしろ『神との対話』などで語られているような「神が物質世界の創造主であり、世界そのもの」という説の方が真実だろうと僕は考えています。

「世界はVR説」の方が客観的、科学的な見地からすると、まだ現実味があるように見えるのかもしれません。

けれど、それは「神」という存在を信じたくない、あるいは信じるのは思考停止だったり、稚拙なことであるようにみなすがゆえの消去法としての判断ではないでしょうか?

しかし人間は誰しもが既に主観的視座を通してしか世界を知覚できていないことからも分かるように、いわゆる客観性には限界があります。

「客観性なるものだけ」で世界を解明できないことは明らかで「真実である。しかし主観の中でしか見いだせない」というものはそこら中にゴロゴロあるのです。

例えば「自分に意識があること
これは僕にとっては自明ですが、人に証明するのは難しい。

他者から見たとき、僕が「意識があるようなふるまいをしている自動人形」ではないことを証明するのは、突き詰めて考えてみると、ほとんど不可能なわけです。

同様に「他者に意識がある」ことも厳密には証明できない。あるようにしか見えないから、ひとまずそう信じているだけで本当のところはわかりません。

そういった客観的には証明不能なことが今すでに確かに在る。
そういう中で構成されているのがこの世界なのです。

そのことを認めることができれば、すべてが偶然と適者生存の結果と考えるより、「神が世界を作った」と想定する方がよほど現実味があって合理的な判断だと思えてきます。

人間が今後、技術的特異点を迎えて神のようなAIを実際に生み出すならば、実際に神のような高度な知性がすでに存在していても何ら不思議はないですからね。

スピリチュアルの世界にアレルギーのあるかつての僕のような方々に言いたいのは、スピリチュアル好きな人みんなが「世迷い言のような宗教的妄念にとりつかれて、その思想を支持しているわけではない」ということです。

偏見を極力排した目で様々な情報を見ていったとき、神の存在を認めたほうが合理的だと思えるからこそ、それを信じるようになった方々も今は沢山いるのではないでしょうか。

そして、そういうタイプの有神論者、言わば「科学的有神論者」は今後ますます増えていくと思われます。

科学が証明できることには構造上、限界があることを認めている人は科学者の中にも大勢います。

神(というか宇宙を創造した大いなる知性)の存在を想定することは、科学の敗北でも現実逃避でも思考停止でもなく、むしろ自然で合理的な発想だと思っています。

そういうわけで僕は近ごろ「人生は全部シナリオ」だとも思っています。

要するに「生まれてくる前に人生で起きる出来事は全部、自分で決めてくる」ってやつですね。

僕は昔から人生の折々で、何かちょっと出来すぎというか、おもしろすぎるトラブルに遭遇してきました。

それでトラブルに見舞われるたび冗談交じりに「絶対お空の上にシナリオライターおるやろ」と思ってきたのですが、

「いや、冗談じゃなくて本当にシナリオライターがいた?」
(そして、それは生まれてくる前の自分だった!?)

と思うようになっています。

そして、もうこの人生の悲喜劇があらかじめ用意されていたシナリオだとするなら、どんな困難が生じても、それは「人間万事塞翁が馬」方式のものでしかない、ということを確信するようになってきました。

どんなに苦しい辛いと思える事態が生じても、長い目で見ると、必ず明日の喜び奇跡につながっているからです。

その苦しい展開なくして、この喜びはあり得なかったと思える瞬間が現実としてあるからです。

だったら、すべての瞬間が幸せの伏線にすぎませんし、むしろその事に気づいてしまえば、あらゆる瞬間が楽しむに値する時間に化けてしまうというわけです。

要するに一分一秒目が離せない映画と同じです。

映画もハラハラしたり、ネガティブなイメージの場面がありますよね。

しかし、それというのは来たるべくハッピーエンドやドラマ的な盛り上がりに向けての必要不可欠な伏線だったりするわけです。

だから思うさまチャレンジして失敗を繰り返すこと、自分にしか出来ない瞬間瞬間と出会えたことを、ただワハハと愉しめばいいわけです。

最初から最後まで、お宝を見つけてばかりのインディージョーンズは面白いでしょうか? すぐに和解してしまって、ひとつも戦いがないスターウォーズは面白いでしょうか? 過去に飛ばされないバック・トゥ・ザ・フューチャーは面白いでしょうか? 勝ってばかりのロッキーが面白いでしょうか?
退屈極まりない駄作になってしまうでしょう(と言いつつ、ちょっと見てみたいけどw)

それが分かってしまえば、どんな困難が起きても、一喜一憂する必要もなく、どんな状況でも、ただ楽しむだけです。

「おお、オレ一体どうなっちゃう!?」と楽しむだけです。

と言いながら僕自身、一分一秒ずっと「観客の視座」で事態をとらえられているわけでもありません。

やっぱり神さまのシナリオはよく出来ているので、その場の状況にどっぷり感情移入させられてしまうことも実際あります。

固定記事では「目の前の世界はすべて神だと認識しています」だなんて書いていますけど、全部神だなんて認識できていない瞬間だって少なからずあります。
(それでも、一度ならずそういう感覚を持てたことは確かなので、そういう体感を増やせるように心がけていますが)

また本当に平静を保っていられない出来事が起きたとき、こんな考えを維持できるのか、それは正直わかりません。

現実に、その場の状況や感情に飲まれることもあるわけです。でもそのあと、はっとしてこう思うのです。

「なるほど。今度は、そういうシナリオか。そう来たかー。ま、でもこれがシナリオだってことはバレバレだけどな!

そして、このように思うと、事態を俯瞰する余裕も生まれてきますし、出来事はよい方に自然と解決していくのです。

まるでタネを見破られた手品師が、すごすごと舞台袖に退場していくような調子で。

このあたりのことは、また改めて違う角度から記事にしてみたいと思います。

【今日のまとめ】
いま苦しいな辛いなというときがあったら「でもこれがシナリオだってことはバレバレですから〜!」と唱えてみる。
今は映画の中盤くらいだと思ってみる。「お、次回は自分どうなっちゃうんだろう。つづく」と連載漫画を読む気分で次なる展開を期待してみると今の状況認識を反転させやすい。

今日もお読み頂き、ありがとうございました〜。

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